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草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァル

STAFF BLOG

【くさつ エッセイ集】シューベルトとウィーン―あるいは、旅びとのふるさと?―

文・前田昭雄

第15回プログラムより(1994年発行)

 シューベルトとウィーン。この題のもとに、ひとは何度文章を書いてきたことだろう。シューベルトといえば、その生まれと終焉の地、楽都ウィーンを度外視することは出来ないし、反対にウィーンといえば、ゆかりの大作曲家あまたあるなかで、シューベルトの名を逸することは出来ない。シューベルトとウィーンの関係は、だから二重に密接だ。シューベルトの音楽芸術はウィーンならではの味を持ち、反面でウィーン音楽は―(「そんなものあるんですか?」と半畳を入れるあなたとは、この原稿を書き終わった後で、ホイリゲにでも行きましょう)―ええと、ともかく「ウィーン音楽」のイメージは、シューベルトとヨハン・シュトラウスに支えられているのだから。

 しかしシュトラウスとウィーンというときは、すべてが明るく、朗らかに幸せだ。

 それなのにシューベルトとウィーンというときは、そうはゆかない。翳るのは何か?

 たしかにシューベルトというひとの人生は、ウィーンでも決して幸せではなかった。ウィーンという都は、楽都だというのに、これほどの天才に然るべき場所を結局与えはしなかったのだから。

 音楽的伝統をもって知られるウィーンの宮廷は、シューベルトを楽長にしなかった。

 音楽的教養をもって知られるウィーンの貴族たちは、シューベルトを援助したろうか。

 ウィーンのなにがシューベルトを育てたのか。グルック・ハイドン・モーツァルト以来の音楽伝統を第一に考えよう。またその背後には、バロック時代以来ウィーンに根を張っていた、イタリア音楽の伝統があった。シューベルトの少年時代の師がほかならぬサリエリだったということも、ウィーンならではのことだ。

 シューベルトの同時代にはベートーヴェンという存在があった。シューベルトの生まれた1797年にはベートーヴェンは27才で、ハ短調ピアノ・ソナタ「悲愴」作品13に着手、巨匠への道をすでにはっきりと踏み出していた。シューベルトのものごころのついた年を10才とするなら、1807年のベートーヴェンは第五交響曲を作曲中だったのだ。ベートーヴェンは1827年にウィーンで没したのだったから、シューベルトは翌年1828年に31才の若さで後を追ったことになる。ということは、シューベルトのウィーンとは音楽史上、ベートーヴェンのウィーンだったといってもよい。

 しかし待て、当時のウィーンはベートーヴェンのウィーンだったといえるだろうか?

 音楽の実質からいえば、そういってもよいのだが、ウィーン音楽界の実情からは、そういえない面もあった。たとえばロッシーニ!その軽快なドラマティズムは、新たなイタリアニズムとしてウィーン楽壇を席巻する。

 シューベルトのウィーンを音楽から見て、ベートーヴェンとロッシーニのウィーンと言ってみることは、そう間違いでもない。尊敬はベートーヴェンに、その他の殆どすべてがロッシーニに集まったというような状況―。シューベルトには何が残っていたろうか。

 それはさておいても、シューベルト芸術の方向づけは、この二つの「磁極」から逃れられないかのようだ。ベートーヴェンの場合は、交響曲・弦楽四重奏・ピアノ・ソナタなど、「ウィーン本格芸術」とでもいいたい系列―シューベルトはそのすべてに、正面から取り組んで立派な成果を上げている。ハイドン・モーツァルト以来の、ウィーン楽派ともいいたい本格性だ。ウィーンならではの、晴朗にして流暢、影も深みもある本格音楽。

 他方サリエリ・ロッシーニの方向、イタリア風、オペラというジャンルの方向にも、終生意外な程の努力が注がれた。シューベルトの本領の「歌曲」にも、ヴォーカル・イタリアニズムは、かなり浸透している。これも、ウィーン特有の「二重の土壌」に由来する。サリエリ対モーツァルト、ロッシーニ対ベートーヴェンというのも、その表れだった。

 シューベルトはしかし、土壌のままには育たない。第二のロッシーニや第二のベートーヴェンになるのには、その天才はあまりに独自だった。その音楽はあまりに純粋だった。

 ということは、劇場的な才覚も、思想的音響世界の構築も、シューベルトの真髄ではなかったということか。これらがシューベルトと全く無縁だったわけではない。ただその本質は、あまりに純粋に、「歌」にあったのだ。シューベルトは、器楽作品でも、その心を「歌」に託している点で、ロマン派の魂を率先して実現している。

 ならばこの、「歌」とウィーンとの関係は?

 ウィーンのあの時代、歌は「文化的なら」劇場に、でなければ民衆の集いにあった。庶民文化は、ウィーンでは音楽的水準も高かったとはいえ、結局は酒場の娯楽音楽という面を脱却出来ない。そこでシューベルトの歌曲はウィーンでも、いうならば「劇場」と「酒場」の間に、小さな場所を持つに過ぎなかった。シューベルト歌曲を世に広めるに、オペラ歌手フォーグルの「余技」にまつところが大きかったのは、劇場から来ている。そしてシューベルトの友人たちが催した「シューベルティアーデ」の集いはといえば、結局は文化的・芸術的に優雅化された、ワインの席でもあったのだ。しかし、こういう場がこの早い時点で、これほど高い趣味のレヴェルで生まれたのは、やはりウィーンであった。

 そこでシューベルトはワルツやレントラー、エコセーズを奏き、歌曲も披露した。そこで披露することが、場違いでない限りでは。「シルヴィアに」はいい「魔王」はすごい。友人ショーバーの詩による「楽に寄す」はシューベルティアーデの信仰告白といえるかも知れない。しかし「冬の旅」となると、作曲家はこういう集いの遙か彼方へと脱却してしまっていた。一同は凄惨さに打たれ、声なく沈黙したという。

 「冬の旅」と「白鳥の歌」―これら最後の歌曲集には、小乗のウィーンを越えた、大乗のウィーンがある。ウィーンと無縁であるとする意見は、当たらない。

 「美しき水車小屋の娘」なら、普通の意味でのウィーンともかなりピッタリだ。街的ではないが、一歩出ればウィーンの森という、そのウィーンのイメージに。メードリングからヒンターブリュールへ。ヘルドリッヒの水車のあたり、そこに立つ「菩提樹」がほんものでなくたって構わない。風景は充分、「Das Wandern ist des Müllers Lust」と歌いながら歩ける!思えばシューベルトは、こういう快活な旅人でも、あったろう。しかしその歌曲のなかには、Der Wanderer―旅人のモティーフがいかに多く、その表現はいかに深く孤独であることか。ウィーンという故郷にあって、シューベルトという芸術家は絶えず孤独な旅人であったのだ。

 「冬の旅」と「白島の歌」をここからみると、ウィーンのふところがひときわ深まるようだ。シューベルトはウィーンでその短いが充実した人生を送った。その「冬の旅」は、ウィーンでのみ、成立し得たのかもしれない。ウィーンという都会は、充実した孤独を可能にする。このまちは表面的な幸福も可能にするが、歴史を生き延びるのは、孤独の集中だけが突破する、あの実存の境位であるらしい。

 「白鳥の歌」を旅の歌と読むことは、普通ではないかもしれないが、上のコンテクストからは意味を持つ試みだ。旅人はどこへ行くのか。冬の旅は「辻󠄀音楽師」にめぐりあい、白鳥の歌は、「影法師」の絶唱に立ち尽くす。このような終わりは、劇場にも酒場にも、どんなまちにも場所を持たない。ウィーンをも超越する、この終わりを、ウィーンはウィーンらしく、非凡な趣味で吸収する。初版のさいに、「鳩の便り(詩・ザイドル)」を最終曲として収めたのは、シューベルト自身の処置ではなかったとしても、後世はこの「付録」に救いを見出してきた。シューベルトはあまりにも感動的で、所栓は表面的なわれわれには、その美しさが救いである。(―ウィーンにも同じことが言えようか?―)

 シューベルトの一生は、ウィーンという不思議な楽都にあっての、非凡な「旅」ではなかったか。ウィーンを離れる旅は何度かはしたが、それぞれ束の間の「春の旅」だったといえるだろう。それに比べればウィーンの中を転々とする移動は、小著「シューベルト」(新潮文庫)の巻末にも表示したように、まこと著しいものがあった。「冬の旅」を作曲した時期の住居も特定できない。この境地にあった作曲家が、孤独であったことは理解できるとしても、「かれはどこにいたのか」という問いに答えられないということは!

 ウィーンでも彼は旅人であった。ふるさとにあって旅人であったひと―それはシューベルトの特性のみならず、ひと名付けて楽都というウィーンのプロフィールをも、ある方向から照らし出す一つの見方ではないだろうか。

(スイス・1994年7月)

前田昭雄(1935年~)
音楽学者、指揮者、ウィーン大学名誉教授。シューマン研究の第一人者。1958年東京大学大学院修士課程修了。61年よりウィーン大学哲学科で音楽学を専攻。これまでにチューリヒ大学講師、ベルン大学、バーゼル大学、ミュンヘン大学で教鞭を執り、1997年よりハイデルベルク大学教授。大阪芸術大学教授、国立音楽大学招聘教授、上野学園大学教授・学長を務める。当音楽祭にはシューベルト、シューマン像に迫るエッセイを第4,7,15,23,26回と多数執筆。ウィーン楽友協会のオットー・ビーバ博士との親交も深い。

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