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草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァル

STAFF BLOG

【ビーバ博士のエッセイ集】シューマンとショパン―二人が生きた時代と環境

文:オットー・ビーバ/日本語翻訳:武石みどり

第31回プログラムより(2010年発行)

 ローベルト・シューマンとフレデリック・ショパンの音楽作品はロマン派様式であり、2人はロマン派の作曲家と位置づけられる。しかし、この2人とその作品をよりよく理解するためには、彼らが生きた時代と環境についてさらに深く探求する必要があろう。

 シューマンもショパンも1810年生まれで、今年が生誕200年にあたる。彼らが生きた時代はビーダーマイヤー時代として知られるが、ビーダーマイヤーは音楽の様式概念ではない。ベートーヴェンは古典派様式で作曲をしたが、その生涯の重要な時期をビーダーマイヤー時代に過ごした。フランツ・シューベルトもまたビーダーマイヤー時代の作曲家である。彼はベートーヴェンよりも一世代若く、ロマン派様式で作曲した。すなわち、ビーダーマイヤー期特有の音楽様式というものは存在しないが、この時期、ビーダーマイヤーの生活様式を前提として音楽が生み出されたのであった。
 
 ビーダーマイヤー時代とはいつの時期を指すのであろうか。歴史学者は、1815~30年の時期がビーダーマイヤーの最盛期であったという点で見解が一致している。しかしその前には、当然のことながらビーダーマイヤーの形成期があった。それは1792~1814年と考えてよいであろう。またその後、ビーダーマイヤーの生活様式は徐々に見られなくなっていく。その意味で、ヨーロッパ各地に革命がおこった1848年がビーダーマイヤーの決定的な終焉と考えられる。ビーダーマイヤーの生活様式の特徴として、公の場を避けて引きこもり、心地よい我が家で家族や友達に囲まれて過ごすプライベートな生活を優先したことが挙げられる。一人で家にいるときには読書が理想的な活動であったが、家族や友達と過ごす際には音楽や社交遊戯が求められた。個人の居宅での営みに特別な意味づけがされていたため、人々は住居を―ビーダーマイヤー様式の―美しい家具や絵画で飾った。

 このような生活様式を引き起こす前提条件となったのは、次の二つである。最初に政治的な条件として、いわゆる対仏大同盟戦争が1792年にヨーロッパで起こった。ヨーロッパ中の国家が、まずはフランス革命の波及を阻止するため、次いでナポレオンのヨーロッパ征服を阻むためにフランスに対抗して同盟を結んだ。この戦争により厳しい国内政策がとられることとなり、印刷物や政治問題に関する意見表明のすべてが検閲され、公の活動がすべて監視されることとなった。そのためにスパイとして密かに警察に協力した人間も多かった。それゆえに人々はお互いを信用せず、誰にでも自由かつ自発的に考えや意見を述べることはなかった。1814~15年のウィーン会議によってヨーロッパに政治的な新秩序が生まれ、ヨーロッパのすべての国に平和がもたらされた時、ほぼ22年にわたって続いた戦争の末に和平会議で生み出された状況を固守し、平和を長く保つことに最大の努力が払われた。そのために警察は引き続きスパイ活動と検閲を行った。新しい政治思想が不穏な動き、ひいては革命を引き起こし、その結果やっと得られた平和を崩しかねないからである。人々は、劇場やオペラ(上演プランは厳しく検閲されていた)、コンサートや喫茶店(新聞を読んだりゲームをしたりはするが、見知らぬ人との会話には巻き込まれないようにした)、舞踏会やその他のダンス(そのような場ではスパイ活動が難しかった)に出掛けた。しかし、それ以外の生活や娯楽は、基本的に個人の家での集まりで行われた。
 ビーダーマイヤーの生活様式が成立した第二の前提は、社会構造の変化である。1780年頃から、市民階級は啓蒙思想によって新しい自覚と自己理解をもつようになった。もはや貴族を畏れて遠くから仰ぎ見るのではなく、貴族の生活様式を引き継ぎ、さらに変化を加えたのである。その一方で、1790年頃から貴族が市民の特徴を引き継ぐ「市民化」が見られるようになった。こうして、以前は非常に異なっていた社会階層が近いものとなり、かつては貴族の宮殿で当然のように行われていた祝祭、招待、もてなし、音楽の催しが、今や自意識の向上した市民の間でも行われるようになった。

 以上のような政治的、社会的構造的前提は、ヨーロッパの至る所でさまざまな特徴と密度をもって存在した。したがって、ビーダーマイヤーとはヨーロッパ全体にわたる現象であり、さまざまな国でさまざまな呼び方がされている(イギリスでは、この時代をヴィクトリア朝前期と呼んでいる)。しかし、ウィーンの様式的影響圏内においては、すべての分野においてビーダーマイヤーの特徴が特に明確に表れている。

 ビーダーマイヤー時代には、貴族にも市民にもいわゆる「サロン」が存在した。「サロン」という言葉はこの時期特に重要で、二つの意味をもつ。一つは住まいや家の中で最も美しい場所を意味し、もう一つはそのような場所で行われる集まりや夕べの催しへの招待を意味する。「音楽サロン」とは、家族や友達、客人の前での演奏を意味し、貴族の間でも市民階級においても行われた。これはステータス・シンボルでも何でもなく、演奏のできる人や音楽が好きな人にとっては当たり前の日常的な営みであった。

 音楽サロンは、冬の半年間に週に一度、いつも同じ曜日の同じ時期に開かれるのが決まりであった。とりたてて招待状を出すことはなく、家族や友人の間で知っている人、来たい人が参加した。その家族の友人が、さらに自分の友人を連れてくることもできた。演奏するのは家族のメンバーであるが、時に応じてゲストが演奏することもあった。一種の「オープン・ハウス」である。後に一般的になった家庭コンサートと違うのは、きちんと椅子を列に並べて聴いたのではなく、スペースのある所にすわったり立ったりして、あるいは部屋のドアを開け放して隣の部屋で聴くこともあるという聴き方だった。この時代のピアノ曲、室内楽曲、歌曲の大部分は、このような演奏目的のために作曲されたのである。

 フレデリック・ショパンとローベルト・シューマンは、このようなウィーンのサロンで心から歓迎された。ショパンは1829年の夏と1830~31年の冬にウィーンに滞在した。彼は、芸術家として国際的な経験を積むのにワルシャワを起点とすべきではなく、主要な音楽都市を起点としてウィーンを選んだ。彼はウィーンという町に「麻酔をかけられたように感動し魅了されて、望郷の念はまったく無い」と自ら記している。そして最初の3週間の滞在のうちに「ウィーンの主要な音楽家すべてと知り合いになった」と誇らしげに家族に報告している。彼は公開の場で演奏会を開くように強く求められ、そこで大成功を収めたことによって、ウィーンに留まる気持ちはないかと打診された。しかし、いろいろと思案を重ねた挙句、結局は主に政治的な理由によってウィーンを去ることになった。それは次のような事情である。ウィーン会議で講和条約が締結されたことにより、ポーランドは―多くの人が期待したように―新しい独立国家にはならず、ロシアの一部となった。(今日ポーランド領となっている一部の地域は、当時はオーストリア領であった。)1830年にはポーランド国家樹立を目指して、ロシアに対する反乱がワルシャワで起こり、ショパンはこれに強く共鳴した。しかし、ウィーン滞在中に、オーストリア政府が氾濫とポーランド国家樹立に対して―確立された秩序を乱すこととして―難色を示し、反乱を鎮圧すべきという見解を示したことを知ったのである。そこで彼はパリに移り、反乱軍の革命的民族主義的思想について将来的に人々の理解と賛同が増すことを期待した。しかしパリでは芸術家として、ウィーンにおけるほどの賞賛と親しみをもって迎え入れられることはなく、さらなる評価を求めて努力を要する状況が続くこととなった。

 ローベルト・シューマンは、クララ・ヴィークと結婚するつもりで、1838年の初頭にクララと共にウィーンにやってきた。ウィーンが夫婦の新しい故郷となるように、あらゆる準備を整えるつもりであった。彼は敬意と尊敬、そして親しみをもってウィーンの音楽界に受け入れられた。シューマンは、出身地のライプツィヒよりもウィーンで名が知られていることに驚いた。ウィーンの人々はシューマンと知り合いになり、将来はシューマンをウィーンの音楽家を紹介できることを誇りに思った。彼は、クララと、そしてゆくゆくは子どもたちと暮らすための美しい住居を難なく見つけることができた。ヨーロッパ中に楽譜を販売していたウィーンの音楽出版社は、ショパンと同様シューマンにも大きな関心を抱いた。作品を出版することは、ライプツィヒにおいてよりも容易であった。シューマンはほどなく、ウィーンの音楽家の中にお互いよく理解できる友達を見つけた。ショパンと同様に、ウィーンの音楽サロンにも喜んで迎えられ、大きな賞賛を受けた。彼は、つい10年ほど前に亡くなったベートーヴェンとシューベルトの墓を訪ね、墓前に立って心から感動した。そして、フランツ・シューベルトの兄フェルディナント、シューベルトやベートーヴェンの友人たちと知り合い、2人の巨匠の話に喜んで耳を傾けた。ウィーン楽友協会資料室では、当時の資料室長フランツ・グレッグルに温かく迎え入れられた。グレッグルはシューマンに、シューベルトが楽友協会に献呈したハ長調大交響曲の自筆楽譜を見せた。この曲はウィーンでは2回演奏されたが、当時の聴衆には理解が難しく、演奏会は成功しなかった。グレッグルはシューマンにこの曲の筆者スコアをプレゼントした。(この作品が当時はまだ初演されておらず、シューマンがそのスコアをウィーンで発見したという伝説は、よく語られてはいるが間違いである。)シューマンはウィーンで行われるオペラやコンサートの豊かさに感激し、驚くほど多くのオペラとコンサートを聴きに行ったことを日記に記している。しかしウィーンにおいても、時折うつ病の症状が表われた。そうすると彼は落ち込み、不満だらけで批判をまき散らしたが、自分がうつ病に苦しんでいることを打ち明けて助けを求めることのできる人は誰もいなかった。さらに、ショパンとはまったく異なるものの、シューマンもまたウィーンで政治的な問題に突き当たった。彼は自分が創刊した『音楽新報』をライプツィヒで刊行しており、その編集を職業として糧を得ていた。シューマン夫妻は将来的に、クララがピアニストとして活動し、ローベルトが『音楽新報』の編集者を務めることでウィーンでの生活費を得ようと考えていた。そのためにはこの雑誌の編集部をウィーンに移さなければならず、その許可を検閲機関から受ける必要があった。しかし、これは容易なことではなかった。そもそも、外国で刊行されている雑誌をそのままウィーンで出版するということ、編集者も外国から移住し、また原稿は外国にいる協力者からウィーンの編集部に送られてくるということ自体が普通のことではなく、想定外のことであった。法律的には、外国の雑誌は一定の条件の下でのみオーストリアへの導入が許可されるため、当局は、外国で刊行されている雑誌をそのままウィーンで出版するという計画に難色を示した。警察でも検閲機関でも、それが禁じられているとか不可能であるとシューマンに言う者は誰もいなかった。シューマンの名声と栄誉が重んじられたからである。しかし、この出版プロジュクトを許可できるのか、許可するとしたらどのような方法をとればよいのかについて、長い間検討が続けられた。シューマン自身も、このような政治的要因をはらむ問題を充分に理解することができず、莫大な資金があるわけでもなく、大きな影響力をもつウィーンの友人や崇拝者たちを頼ることも望まなかった。結局、うつ状態に陥っていた時に堪忍袋の緒が切れて、彼は荷物をまとめて1839年4月5日にライプツィヒに戻ってしまった。突然ウィーンを去ったことについて、「心の中ではよい思い出と悲しい気持ちがとりどりに交錯しています」と書き送っている。シューマンには嫉妬の気落ちも多少あったのかもしれない。彼がウィーンで描いていた将来の計画には困難が立ちはだかったが、クララがピアニストとして活動することは多くの人が熱望していた。すでに1837年~38年の冬にウィーンで開いたコンサートで大成功を収めて以来、クララには多くの崇拝者が存在した。「ウィーンでは、君はすばらしい追憶の的となることだろう」と、ローベルトはクララに書き送っている。「いつでも、熱狂的な記事に君の名前がいくつも記されている。」シューマンはそのことを本当に誇りに思い、喜んでいたかもしれない。しかしうつ状態に陥ると、自分がクララほど賞賛されておらず真価が認められていないと感ずる、根拠のない嫉妬と不安は、その後ますますエスカレートして大きな問題の種となった。そもそも、クララがピアニストとして名声を得、ローベルトは作曲家として認められるということが、ウィーンを活動の本拠として将来を構想した際の前提であったはずである。シューマンの精神状態の混乱ぶりは、突然ウィーンを去る直前に、感動をもって記した次の書面からもうかがい知ることができる。「クララ、僕たちはウィーンで生き、ウィーンで死のう。」ウィーンへの移住が実現できなかったのはもちろんシューマンの性格のせいでもあるが、その背後にあった政治的状況も特に大きな要因であった。もし検閲やそれに伴う問題が無かったとすれば、シューマンはウィーン定住をあきらめなかったであろう。クララの父親がローベルトとの結婚を承諾しなかったために、ライプツィヒでの結婚は裁判の判決が出て初めて可能となった。

 ウィーンにおけるショパンとシューマンの運命は、ビーダーマイヤーの二面性を表している。政治的状況に起因する問題により、2人はウィーンに住み続けることができなかった。しかし、このような政治的状況が生み出したビーダーマイヤーの生活様式、そして音楽にとって理想的な前提条件が、2人をウィーンにひきつけたのである。

 また、次の点も忘れてはならない。ショパンにとってもシューマンにとっても、ウィーンで過ごした時期は失われた時間ではなかった。2人ともウィーンのビーダーマイヤーに触れる中で芸術家としての天性を確固たるものとし、また芸術的な影響を受けた。自分に自信がなく臆病だったショパンは、ウィーンで得た賞賛によって強い自覚をもち、世間に認められた芸術家として登場することを学び、当時の芸術家に必要だった新しい自己理解を得た。これがなければ、その後パリで成功することはなかったであろう。二人ともウィーンで、ヨーロッパ全体で通用すること、すなわちピアノ音楽の本来の故郷はコンサートホールではなくサロンであることを体得した。ピアノ音楽(または室内楽)を作曲する対象となる集団はプロの音楽家ではなく、当時肯定的に理解された意味での「アマチュア」―完全に教育された音楽家でありながら音楽で生活費を稼ぐことはせず、自分の楽しみのために自宅で演奏したり、サロンで友人や知人の前で演奏したりする愛好家―であった。このような人々は、ピアノ音楽に小さな形式を必要とした。様式化された舞曲や性格的小品であれ、まったく自由な楽曲であれ、こうした小さな形式の作品を、ショパンとシューマンはウィーン滞在後により多く作曲している。シューマンの場合には、ウィーンの滞在体験がなければ存在しえなかったような作品もある。たとえば「ウィーンの謝肉祭の道化」、「花の曲」作品19のような作品には、作曲技法上もウィーンの影響が表われている。

 2人の作曲家にとって、ウィーンで得た出版社との関係はその後も重要な意味を持ち続けた。ショパンにとってウィーン時代には特に人格形成上重要であり、芸術的にも影響力が大きい。シューマンの場合には、多くの影響を受けたウィーンでの半年間がなければ、まったく別の作曲家になっていただろうと言えるほどである。2人がウィーンで知ったのはビーダーマイヤー期特有の音楽様式ではなく(そもそも、そのような様式は存在しない)、日常生活の中で音楽に特別の場が与えられている、いわば音楽にとって理想的なビーダーマイヤーの生活様式であった。これほどまでに日常生活の中で音楽が重視され、積極的に音楽活動が行われた時代は後にも先にもない。そのような環境で多くの音楽作品が求められ、ウィーン時代は2人の作曲家にとって重要な時期となった。そして、当時はピアノが―音楽史上初めて―楽器として特に優遇されたため、ビーダーマイヤーという時代そのもの、特にウィーンのビーダーマイヤーを体験したことは、ショパンとシューマンのピアノ創作にとってきわめて重要な意味を持つこととなった。

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