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【ビーバ博士のエッセイ集】ウィーン会議とビーダーマイアー時代の音楽

文:オットー・ビーバ/日本語翻訳:小宮正安

第36回プログラムより(2015年発行)

 ヨーロッパで22年にわたって戦争が繰り広げられた後、この地域全体の政治的な秩序を新たに築き、待望の平和を打ち立てる―このことを至上命題として開かれたのがウィーン会議だった。会議に参加するべく、ヨーロッパ全土の君主や大物政治家がウィーンに集ったのは1814年9月のこと。10月には下準備のための折衝が始まり、会議そのものが公式に開催されたのは11月1日、会議が公式に終了したのは1815年6月11日のことである。

 ウィーン会議は、音楽家や作曲家を様々な面から助け、彼らに数多のインスピレーションや活動の機会を与えた。会議で必要とされるセレモニー等を除いても、会議の参加者にとって、あるいは特に会議とは直接関わりがないもののこの催しを見物しにウィーンを訪れた人々にとって、音楽こそは社交の場において欠かすこのできない存在だったからである。

 なおこの会議では、敵方や敗者であろうとも、同盟者や勝者と等しく同じテーブルにつき、ヨーロッパの再編について協議をおこなった。というわけで、同盟関係にある国同士でさえ、このテーマについて込み入った話になると突然争いを始めることもしばしばだったのだが、一方で彼らは皆、演奏会、オペラ、サロンで催される室内楽、舞踏会といった催しにはともに集ったのである。とりわけ音楽は、会議中に起きた様々な誤解を取り除き、当事者同士を近づけてくれる力を持っていた。というわけで主催者側にとってみれば、音楽とは他をもって代え難い切り札に他ならなかった。

 ウィーン会議に関連する諸相に触発されて作られた音楽―それらは平和への喜び、輝ける未来への期待、あるいは会議の中で起きた出来事を音で表現したものだった。そしてこれらの作品は広く出版され、必要とあらばピアノや他の編成に編曲されていった。さらに、会議の出席者や特別招待客が参加する大規模な舞踏会の際にはダンス音楽が演奏されたが、それらもピアノやハープや他の楽器に編曲されて一般庶民にも知られるようになり、例えば庶民向けのレストランにおいてもこれらの編曲版が演奏され、集まった客をまるで会議に一緒に参加しているような気分にさせたものである。同じことは、舞踏会以外の社交行事のために作られた曲、あるいは祝賀行事を描写した作品にも当てはまり、それらもダンス音楽と同様に編曲されてヨーロッパ中に広まっていった。

 ちなみにこうした、いわば「音による絵画」や機会音楽といったものは、既にウィーン会議以前から、戦闘や平和締結といった特別な出来事に際して作曲されていた。折しも当時は、ピアノを家庭で演奏する習慣が人々に広まっていった時代と重なっており、実際こうした曲をピアノで弾けば、会議で何が起きたかということを感情面で鮮やかに追体験できたのである。

 多くの人々がウィーンに集い、それに合わせて音楽活動の機会も増大する……。こうした状況は、優れた演奏家や作曲家をウィーンへと駆り立て、彼らはこの街で想像以上に豊かな働きを成し遂げた。演奏会の数はうなぎのぼりとなり、歌劇場では数多くの演目が上演された。宮廷、あるいは貴族や大使の館では幾度にもわたって舞踏会が催される一方で、中心街の外にあるダンスホールや劇場にもウィーン会議の参加者が訪れ、盛況を呈した。ストリート・シンガーや流しの歌手も会議にまつわる歌を歌い、またその歌に触れた会議の参加者の中には、これぞウィーンらしい音楽だと共感を覚える者も少なくなかった。

 さらにウィーンの音楽活動の豊かさを特に印象づけたものの中には、教会で演奏される音楽も含まれていた。軍楽隊の音楽も、儀式だけではなくエンタテイメントのためにはじめて用いられ、現在にまで定着する伝統となった。戦争が長いあいだ続いていたため、経済的に行き詰っていた楽譜出版業界も―機会音楽を積極的に出版したおかげもあって―徐々に回復を遂げていった。楽器商も、客からの注文が増え始めてエビス顔。こうした様々な理由によって、平和構築へむけた国際会議=ウィーン会議は半年もの長きにわたり、ウィーンの音楽シーンに未曾有の繁栄をもたらしたのだった。

 ところでウィーン会議における音楽のスターはといえば、誰をおいてもルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンだった。彼は会議に際し、カンタータを1曲、合唱曲3曲を新たに作曲。またロシア皇后のために、ピアノのためのポロネーズ作品89も書いた。さらに会議開催中には、交響曲第7番・第8番、「ウェリントンの勝利」(これは当時ベートーヴェン作品の中でももっともポピュラーだった)といった彼の管弦楽曲が取り上げられ、人々の喝采を浴びた。そしてオペラ「フィデリオ」は30回も上演され、大ヒットとなった。

 ひとり、ベートーヴェンに限らない。たとえばアントニオ・サリエリもウィーン会議に際して大編成や小編成の曲を書いた他、ヨゼフ・アイブラーやアントン・ヴラニツキも作品を残している。いずれにしても彼らの多くは、会議と並行して催された絢爛豪華な舞踏会のためのダンス音楽を手がけ、またそうした音楽のおかげで、難しい政治問題を扱う会議出席者同士が互いに近づけたのだった。

 ウィーン会議を通じて議決された平和は決して脅かされてはならず、会議閉幕後もこの点に関し、ヨーロッパ中の政治家たちは一致した姿勢を見せていた。また民衆にとっては、できるだけ平穏にこの平和を味わいつくさなければならず、平和が脅かされるようなことをしてはいけない、さもなければそれを失うということを彼らは知っていた。ゆえに政治家たちは、あらゆる不穏な動きや、会議を通じてようやく実現した状況を変えかねない新しい考えに対し、真っ向から対立したのである。そのおかげで民衆は、その後22年もの間、歌劇場はもちろんのこと、劇場、演奏会、舞踏会、そして家庭で平和な時代を享受することができたのである。

 当時、家庭における最大の喜びはといえば、家族や親しい友人同士でともに音楽を楽しむことだった。新たな政治体制に共感したり、政治的集会をおこなったり、ウィーン会議によってもたらされた平和状態―もちろんこれは各国の妥協の産物でもあったのだが―に対する批判は、御法度だった。つまり慎ましやか (bieder) なライフスタイルが求められたわけであって、そうしたライフスタイルを秩序づけたのは民を支配する当時の政権だった。それゆえ、ウィーン会議が終結してから15年間のオーストリアの状況を指して、今も昔も「ビーダーマイヤー (Biedermeier) 」という言葉が用いられる。「マイヤー」とはよくある苗字であり、つまりはあらゆるマイヤー=あらゆる人々が慎ましやかに暮らさなければならなかった、という意味合いなのだ。ちなみに1830年から48年までの期間は「フォア・メルツ (Vormärz=3月革命以前という意味)」と呼ばれている。こちらはいくらか不穏な時代であり、やがて1848年3月になるとヨーロッパのほぼ全域で革命が勃発した。革命の理由としては、民衆は静かに暮らしあらゆる変化を拒むべきだ、という為政者側の圧力があまりにも強くのしかかったことが挙げられる。というわけで、ライフスタイルという点ではビーダーマイヤーとフォア・メルツとの間でさほど変わりはないものの、市民の自己意識という点では大きな変化があり、それが最終的には政治的変動へと繋がっていったのだった。

  ビーダーマイヤー時代には、音楽はもちろん、民衆が何らかの文化活動を営むことが推奨されていた。画家や彫刻家といった芸術的造形美術の創造者にとっても、それは重要な一時代だった。文学は検閲によって見張られており、過激な思想を開陳することこそ不可能だったものの、詩人や文筆家や劇場付の脚本家たちは多忙な生活を送っていた。なお当時の読書の形態だが、もちろん1人で読むという場合もあったが、「読書会」なる組織が結成され、そこで会員同士が顔を合わせ、芸術的な内容(政治的な内容のものは禁止されていた)の本を朗読しあったり、それについて議論を交わしたりする場合も多かった。

 だが、特にビーダーマイヤー時代に好まれたのは音楽だった。劇場や歌劇場に人々は足を運び、しかもたとえ大きな歌劇場ではなく小ぶりの劇場であっても、それなりの水準のものを楽しむことができた。また演奏会にも数多くの人々が訪れ、この時代にはまさに現在のような意味でのコンサートライフが最初のクライマックスを迎えたのである。

 それではこの時代の音楽についてより詳しく見てゆくが、様々な例やエピソードについてはすべてウィーンでの出来事に限定して話を進めてゆこう。何しろ当時のウィーンは、ヨーロッパに冠たる音楽の都へと成長を遂げていったのだから。

 当時、演奏会で数多く開かれたのが、超絶技巧の腕前と超人的なオーラを具えたヴィルトゥオーゾによるもの。人々は独奏者の芸術的な技を体験すべくそうした演奏会を訪れたのだが、それはまるでスポーツを楽しむような雰囲気だった。中でもニコロ・パガニーニは―ウィーンには数多の優れたヴァイオリニストが活躍していたにもかかわらず―、当時この街に登場したもっとも偉大かつ人気のヴィルトゥオーゾであり、最新の演奏技術が話題の的だった。というわけで、多くの人々は何よりもその演奏技術に感嘆したのだが、フランツ・シューベルトは別の見方をしていた。シューベルトは、パガニーニがはじめてウィーンに登場した1828年の初頭、次のようにしたためている、「私には天使が歌っているのが聞こえました」。つまりシューベルトは、パガニーニの演奏技術ではなく、その音楽表現に注目していたということである。

 さらには、技術的にも内容的にも難しい作品を扱う演奏会も数多く開かれた。そうした演奏会の中でも重要なイヴェントに参加したのが、1812年に創設されたウィーン楽友協会である。この協会は、最高水準の演奏会を催し、時にオーケストラと合唱で700人も登場するような大編成の演奏会も開いた。実際、時のオーストリア皇帝フランツ1世の依頼を受け、楽友協会はウィーン会議の間に2度にわたってマンモス演奏会を開催している。皇帝としては、ウィーンがどれほどの偉大な音楽的可能性を秘めているのかを示そうという狙いがあり、そのために大人数が参加する演奏会が企画されたという次第だった。

 またウィーン楽友協会は、こうした不定期のマンモス演奏会と並んで、協会が主催する定期演奏会を開き、新しい作品と古典的な作品を取り混ぜて演奏した。こうした方法は当時としては目新しいことであって、それまではもっぱら新作を聴くためだけに人々は演奏会に足を運んでおり、同じ作品を2度3度と演奏することにはほとんど興味が寄せなかったのである。だが楽友協会の演奏会では、芸術的に見て抜きん出た水準をそなえている作品の中でも重要と判断されたものに関して、繰り返し上演がおこなわれた。というのも、そうした作品は模範的存在であるため、それを聴いたことのない人は是非聴くべきである。また以前聴いたことがあっても、繰り返し聴くに耐える価値があり、聴くたびに新たな価値を発見できるという考え方の故だった。これは現在の演奏会では当前の思考法だが、そのルーツはビーダーマイヤーの時代に根ざしているのである。

 また当時は公開演奏会というものが存在し、それは楽友協会といった組織をはじめヴィルトゥオーゾや作曲家自身のため、あるいは慈善目的(チケットの収益は社会活動や災害の犠牲者のために用いられた)のために催された。なおこの公開演奏会、普通は劇場や多目的空間で催されるのが常であり、というのも当時ウィーンには音楽専用ホールが存在しなかったからである。音楽を専門的に演奏する目的のために建てられ、実際に実用化されたホールとしては、1831年に開場したウィーン楽友協会旧会館のコンサート・ホールがこの街では初の存在だった。また演奏会専用のプロのオーケストラというものも存在しなかったため、演奏会を開く際には劇場附属のオーケストラを借りる(しかも劇場や歌劇場が休みの日でなければならなかった)、あるいはディレッタントや職業音楽家の混合編成による臨時オーケストラが組まれるのが普通だった。なお、「ディレッタント」とは、今日では否定的な意味合いを伴う言葉だが、当時決してそうでなかった事情は、後ほど触れることとしよう。こうした状況の中、ウィーン楽友協会は演奏会を開く際に、腕の立つ音楽愛好家の会員たちを集めてオーケストラを組織し、必要とあらば報酬を払って職業音楽家にも賛助出演してもらう方法をとったのである。

 ただし多くの人々は、私的な集まりで、つまり家族や友人で音楽を演奏して楽しんでもいた。ちなみに聴衆が存在せず、演奏する者だけで集って音楽を奏でた習慣をさして、「家庭音楽(ハウス・ムジーク)」という。また、数の多少にかかわらず聴衆を前にして演奏する場合は「家庭演奏会(ハウス・コンサート)」あるいは「音楽サロン」といった。(サロンとは、もともと住まいの中で一番美しい部屋を指し、そこで音楽を演奏したり客人を迎えたりしたことからこの呼び名が生まれた。)なお、このような家庭演奏会あるいは音楽サロンには、多い時には120名ほどの人々が押し寄せることがあり、彼らは音楽が演奏されている部屋に隣接した空間にまで入り、演奏を楽しんだ。招待する側も、次回以降さらに大勢の客人を連れてこられる客人を招くことも多く、こうなると家庭演奏会あるいは音楽サロンといっても、半ば公開の催し物のようになっていった。さらに、多くの家庭演奏会や音楽サロンが決まった日にちの決まった時間に催されるようになると、興味のある人間はそうした情報を入手し、自分が演奏を聴ける場所を確保できるかどうかを確認した上で、そこを訪れるということもおこなわれるようになった。

 なおこれらの場所で演奏をおこなっていたのは、ディレッタントと職業音楽家(ただしこのような場所で演奏する場合には報酬なし)だった。当時「ディレッタント」といえば、音楽教育を十二分に受け、しかも生活の糧ではなく、あくまで自らの喜びのために音楽をする人々のこと。しかも彼らは高く評価され、場合によっては職業音楽家よりも尊敬されていた。というのも、喜びのために芸術に奉仕をするという行為は、金を稼ぐために芸術に奉仕する行為よりも上と見なされていたためである。また先程も書いたように、家庭演奏会や音楽サロンでは、職業音楽家も報酬なしで登場した。

 こうした場でよく取り上げられたのは室内用の声楽曲や器楽曲だったが、時と場合によっては、オペラやオラトリオや大規模の管弦楽曲からの抜粋が演奏される場合もあった。もちろんそれには、大人数の演奏者が入れるだけの空間を備えた住居であることが必要条件であって、さらに隣接した部屋にまで聴衆が入って演奏に耳を傾けられるスペースも必要だった。ちなみにフランツ・シューベルトの交響曲第5番は、そうした住居で家庭演奏会を催していた一家のために書かれており、この家でオーケストラの演奏会が開かれる場合、彼は定期的に出演していた。また彼の交響曲第1番から第4番についても、似たような状況の中で初演、再上演がおこなわれた。特にウィーン会議の間には、選りすぐりの客がこうしたサロンを訪れ、そこで演奏される音楽を楽しみ、そうした習慣を典型的なウィーンの特徴として享受したものだった。家庭音楽、あるいは家庭演奏会や音楽サロンのルーツは18世紀後半にまで遡れるが、ウィーン会議の時代にサロン文化は花開き、ビーダーマイヤーの時代に最高潮に達したのである。

 歌曲は、家庭音楽や家庭演奏会ならではのジャンルだった。ウィーン会議の参加者のための大規模な演奏会の場で、ウィーン宮廷歌劇場の有名歌手によってベートーヴェンの歌曲「アデライーデ」が歌われたなどといった出来事は、ごく例外的なことだった。シューベルトも歌曲を書いたが、それは公開演奏会のためではなく、家庭音楽や家庭演奏会といった私的な場を想定して、さらにはそれらに時折備わっていた半ば公開性を帯びた要素を念頭に置いて作られたものである。実際、ビーダーマイヤー時代におびただしい数の歌曲が作曲され出版されたことを考えると、歌曲(その多くがピアノ伴奏やギター伴奏、あるいは他の楽器の伴奏が付いたものだった)がどのような意味を持ち、なぜ公の演奏会でほとんど扱われたかが分かるだろう。単独ではなく何人かの人間が必要とされる重唱曲(これは今日でも演奏会で取り上げられる機会は稀である)も、家庭音楽や家庭演奏会で主に歌われた。

 1792年から1814年にかけて戦争が続いていた当時、楽譜出版を取り巻く状況は日に日に厳しくなっていた。楽譜の売れ行きは思わしくなくなり、さらに1810年頃になると楽譜の出版数も最低限に落ち込んでしまったのである。ところが1815年以降、楽譜出版は急速に息を吹き返し、好調ぶりを発揮するようになった。そこには、ビーダーマイヤー時代における家庭演奏会と家庭音楽が大きく影響している。もちろん当時、職業音楽家から成るシュパンツィヒ四重奏団も活躍してはいたが、ほとんどの場合、弦楽四重奏や他の弦楽アンサンブルが演奏されるのは、コンサート・ホールではなく家庭だった。同じことは弦楽器とピアノのアンサンブルにも当てはまり、それぞれの家庭で妻や娘がピアノを弾き、夫や息子といった男性がヴァイオリンやその他の弦楽器を奏でたのである。

 教会音楽についても触れておこう。教会音楽はカトリックの礼拝にとって非常に重要だった。にもかかわらず、1792年から1814年にかけての戦時体制下では、教会が充分な経済状況に恵まれず、教会音楽を演奏する音楽家を雇うことが難しくなってしまったのである。というわけで教会音楽を演奏するにあたっては、教会の周辺に住む人や、教会と近しい関係にある者の手に委ねられるようになっていった。結果、家庭音楽、あるいは家庭演奏会や音楽サロンのように、徐々にディレッタントと職業音楽家の混合アンサンブルが教会の礼拝で音楽を奏でるようになり、結果的にビーダーマイヤーの時代になると、かつてよりも数多くの演奏家が教会音楽を演奏するようになったのである。となると、教会音楽のスケールもより贅沢となり、オーケストラの編成は大きくなり、独唱や合唱といった声楽パートに関しても多くのことが要求されるような作品が書かれていった。実際、こうした要素を具えたシューベルトの最後の2つのミサ曲は、ビーダーマイヤー時代に作曲され、演奏されたものなのだ。

 最後に、ダンス音楽についても手短に解説を。ある人物がウィーン会議を揶揄して、会議は踊る、されど進まずと指摘したのは有名だ。もちろん、それはそれで嘘八百というわけではないのだが、当時の音楽が果たしていた事実に即しているかというと、決してそうではない。既に冒頭で述べたように、会議の出席者のために数多の舞踏会が催され――その中にはオーストリア皇帝フランツ1世をはじめ、貴族や大使や会議に関わっていた重要人物たち自身によって催されたものも含まれる――、それらはあるテーマを巡って議論を戦わせている相手と個人的近づきになるために必要不可欠だった。

 さらにいえば、音楽と踊りを通じて互いの先入観を壊し、信頼を打ち立てようとする考え方自体が、ひょっとするときわめてウィーン的だったといえるかもしれない。実際これらの舞踏会のために、作曲家たちは最善を尽くして曲を作り、舞踏会に集った人々を心底魅了した。こうした音楽は、大編成の舞踏会用オーケストラのために書かれるのが常だったが、同時にピアノや小編成の合奏用にも編曲されて出版されることも多かった。民衆の側も、ヨーロッパの重要人物が巨大な舞踏会場で踊っていたのと同じメロディに合わせて自分たちも踊れるということで、舞踏会用音楽の編曲ものは人気だった。さらにより幅広い層の民衆にとっても、ピアノや弦楽アンサンブル用に編曲された舞踏会用音楽は、人気の的だった。

 1814年以前の戦争の時代、人々は様々な労苦に苛まれており、舞踏会やダンスなどというものは日常生活とはほぼ無縁のものであって、関心の対象外と見なされていた。しかしやがて平和が再構築されると、事態はまったく変わったのである。最高のダンス音楽を作って欲しいという要請が生まれ、それは作曲家たちの想像力を掻き立てた。民衆の間には、悩み多い時代が過ぎ去ったことを喜び、ダンスを楽しもうという機運が高まった。舞踏会の時季になると大小様々な舞踏会が開かれたが、そうでなくてもこの頃になると一年中、それも家で家庭舞踏会が開かれるようになったのである。家庭音楽や家庭演奏会も、ダンスで締めくくられた。夕食に客を招いた場合も、食事に続いてしばしばダンスが踊られた。ピアノを弾ける者がいる場合は、1人であるいは交代で、ダンス音楽が演奏された。こうしてダンス音楽は、きわめて重要な音楽の1ジャンルとなったのである。

 ビーダーマイヤー時代が終わる頃には、ヨハン・シュトラウス1世やヨゼフ・ランナーが頭角を現し始めた。こう考えると、これまで述べてきたようなビーダーマイヤー時代の生活水準がなければ、彼らも存在することはなく、またウィーンならではの豊かなダンス音楽もありえなかったかもしれない。しかしウィーンでは、その後もダンス音楽は大輪の華を咲かせ、19世期後半にはヨハン・シュトラウス2世を頂点とするダンス音楽の黄金期がもたらされたのである。

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