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【事務局長のエッセイ集】アーティストたちとの絆~音楽祭の原点 1980年①

草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァルは、1980年、ヴァイオリニストの豊田耕児氏を音楽監督、音楽評論家の遠山一行氏を実行委員長とし、日本で最初の夏の音楽アカデミー(講習会)とフェスティヴァル(演奏会)として始まった。

初年度のアーティスト(講師)陣の顔ぶれは下記の11名。

豊田耕児(ヴァイオリン/音楽監督)、遠山慶子(ピアノ)、ヨーゼフ・グートマン(ヴィオラ)、モーリス・ジャンドロン(チェロ/指揮者)、クラウス・トゥルンプフ(コントラバス)、金 昌国(フルート)、ヘルムート・ヴィンシャーマン(オーボエ/指揮者)、村井祐児(クラリネット/室内楽)、ゴットフリート・ランゲンシュタイン(ホルン)、吉原すみれ(打楽器)、ヴァルデマール・デーリング(チェンバロ)

このグローバルな構想が、群馬県草津温泉で実現できる事に決定したのが1979年10月、翌年8月のオープニングまでわずか9か月の準備期間で、なぜこのような巨匠たちを招聘できたのか。そこには、この企画が持ち上がるさらに10年以上前から培われたアーティストとの絆があった。

文:井阪 紘

 草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァルがスタートした1980年の夏、まだスキー場のレストランとしてもオープンしていなかった天狗山レストハウスに500席ほどの椅子を入れコンサートが行われた。

天狗山レストハウス前でコンサート前の入場を待つ来場者(1980年)。
満員の観客で埋めつくされた天狗山レストハウス内の様子(1980年)。

 実行委員長は音楽評論家の遠山一行さん。音楽監督は、当時まだベルリン芸術大学のヴァイオリン教授だった豊田耕児さん。私は、この2人からの強い信頼をいただき事務局長の職を与えられ、アーティストを音楽祭に招聘する交渉を始めた。音楽祭の話が動き出したのが1979年の10月ということで、開催まで僅か9か月の準備期間しかなかった。

豊田耕児(左)と遠山一行(右)(1991年)。

 遠山一行さんには、やるなら世界でトップクラスの芸術家以外は呼ばないという強い意志があった。看板にはクラシック・ファンなら誰でも知る、しかもアカデミーと言う「教育部門」を担える人格的に立派な人を呼ぶべきだという注文も付いていて、難しい人選課題であった。そのうえ、急な話で半年ほどしかない準備期間、そして現在のような電子メールといった便利な通信手段がない時代、まずは、我々が招きたいアーティスト名を挙げあい、私が電話で連絡を取り詳細は手紙で送るという形で交渉を始めた。

 そのような状態の中、まず初めに連絡を取ったのはオーボエ奏者のヘルムート・ヴィンシャーマン氏であった。日本の音楽家に、ヨーロッパの最高水準を学んでほしい気持ちが強く、自分が何枚か一緒にレコーティングで仕事をしてきた彼に引き受けてもらいたかった。その頃、彼自身が教鞭をとるデトモルトの北西ドイツ音楽院に、宮本文昭君などを推薦し入学させた話など、教育者としての慧眼力の一面も伺えたことは声を掛けるきっかけのひとつとなった。

 ヴィンシャーマンといえば、当時ライプツィヒの聖トーマス教会の元カントル、クルト・トーマス氏や有名なヴァイオリンのラインホルト・バルヒェット氏等とドイツ・バッハ・ゾリステンを率いていて活動しており、古楽があまり盛んでなかった1960年代から70年代にかけて、バッハ作品を最高の解釈で表現するグループと目されて尊敬を集めていた。
 私は、草津の音楽祭の事務局長として動き始める10年前の1969年に、日本ビクター初のバッハの名曲をレコーディングするためこのグループに交渉し、仕事をしていた。

―つづく―

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【くさつ音楽アーカイヴ】シュルツ、吉野直子&キンボー・イシイ 2012年

【事務局長のエッセイ集】アーティストたちとの絆~音楽祭の原点 1980年②

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