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【くさつ エッセイ集】バッハの息子たち

文・久保田慶一

第25回プログラムより(2004年発行)

 バッハの息子たちと呼ばれる音楽家は4人である。まずは生年の順に挙げてみよう。最初の妻マリア・バルバラとの間に生れた長男ヴィルヘルム・フリーデマン(1710年生まれ)と次男カール・フィーリップ・エマヌエル(1714年生まれ)、そしてマリアの突然の死(1720年)から1年数ヶ月後に後妻となったアンナ・マクダレーナとの間に生れたヨハン・クリストフ・フリードリヒ(1732年生まれ)と末息子のヨハン・クリスティアン(1735年生まれ)である。上の二人と下の二人は母親の血筋も異なり、年齢も20歳以上離れていた。そのため偉大な音楽家であった父ヨハン・セバスティアンとの関係も大いに違った。また兄弟のそれぞれが異なる資質や性格をもって生れたことは、いつの世でも同じである。4人が互に異なる人生を歩んだことは、誰にも想像に難くない。そして彼らが住んだ国や土地の政治や社会の状況と18世紀という激動の時代が、いっそう各人の人生や存在を特異なものにした。これら4人は順に「ハレのバッハ」「ベルリン・ハンブルクのバッハ」「ビュッケブルクのバッハ」「ミラノ・ロンドンのバッハ」と呼ばれたりするのだが、このニックネームもただただ各人が活躍した町を言い表しただけのものではないのである。

 これまで「バッハの息子たち」について話されるとき、そのほとんどが父セバスティアンとの関係においてであった。そこで今回は息子たちどうしの関係、要するに「父親抜き」の兄弟関係について、お話してみようかと思う。

 父親が生きた18世紀前半、社会において音楽家の地位は低く、市民権すらも認められていなかった。そのため音楽家たちは〈ギルド〉のような職業団体を作り、代々音楽家という職業が世襲され、音楽一族なるものも形成されていた。バッハ家はそのなかで最も長く続いた、そして最も優れた音楽家を輩出した一族として知られている。一族のつながりは固く、ある町のポストが死亡や転出で空くと、必ずや一族のメンバーが後釜に就いたし、家長が亡くなれば、長兄や他の一族が遺児の養育をした。例えば、エマヌエルは父を失った弟ヨハン・クリスティアンをベルリンに引取り、音楽の教育を施したし、そのクリスティアンもロンドンにいて、決して亡くなったわけではなかったが、ビュッケブルクの兄ヨハン・クリストフ・フリードリヒの息子ヴィルヘルム・フリードリヒ・エルンストを亡くなるまで預かった。またエマヌエルは、未亡人となってライプツィヒで暮らした義母のアンナ・マクダレーナや夫アルトニコルを亡くした義妹のエリザベト・ユリアーネ・フレデリカ、さらにはその娘夫婦にも経済的援助を続けたりしたが、これもごく自然なこととして行われたのであった。

 今紹介した例からもわかるように、父セバスティアンが亡くなってから、バッハ家のまとめ役を担ったのは、長男のフリーデマンではなく、次男のエマヌエルであった。長男はドレスデンの教会オルガニスト、ハレの音楽監督となった。音楽の才能も父親譲りで天才的な閃きに満たされていた。ポツダムのフリードリヒ大王を訪れた父に同行したのも、前年からハレにいた兄だった。しかし父親の寵愛も人並み以上で、この愛情が長男の人格的な成長を阻んだものと考えられる。ハレの音楽監督を突然辞任し、それ以後定職に就くことなく、ベルリンで不遇の一生を終えたのである。ベルリンではユダヤ人銀行家のダニエル・イツィヒの娘で、フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディの大叔母にあたるレヴィを教えた。彼女はエマヌエルの支援者のひとりで、フリーデマンの作品の姉妹曲として、『チェンバロとピアノフォルテのための協奏曲』やフルート、ヴィオラ、クラヴィーア、バスという、これまた特異な編成の『四重奏曲』3曲の作曲を依頼していた。しかしエマヌエルが残した数多くの手紙に、兄フリーデマンの消息を案じる言葉はひとつもなかった。もっともハンブルクの教会では、兄のカンタータ『地獄の罪業を我らから取り除き給え』を聖霊降臨祭に演奏したりはしていたのだが。

 エマヌエルが最も親しくしたのが、義弟のヨハン・クリストフ・フリードリヒだった。ビュッケブルクの宮廷に雇われたのも、エマヌエルのおかげであった。ベルリンの騎士アカデミーに学んだシャウムブルク・リッペ伯爵ヴィルヘルムは、フリードリヒ大王とも親しく、エマヌエルにクラヴィーアの教えを請うたこともあったからだ。エマヌエルは「陽気な人と憂鬱な人との対話」と呼ばれる〈標題トリオ〉を含む2曲の『トリオ・ソナタ』を、義弟を採用してもらったことへの返礼として献呈した。

 エマヌエルがハンブルクのカントル(音楽監督)に志願したとき、競争相手の3人のなかにも義弟がいた。ビュッケブルクはハンブルクにもさほど遠くなく、かつてハンブルクの隣町アルトナでオルガン演奏を披露し、当地の主要教会のオルガニストに選出されたこともあった。何らかの理由で彼はそれを辞退してしまったのだが、カントル職には関心をもち続けていたのである。結局は義兄がハンブルクのカントルとなってしまうのであるが、エマヌエルは何かとこの義弟を頼りにもした。ハンブルクに来てからしばらくしての『音楽さまざま』の楽譜出版では、ピアノ・ソナタ、歌曲、トリオ・ソナタなど本当に「さまざま」な曲、75曲をエマヌエルが編集したが、編集者の22曲についで、最も多い15曲を提供したのも、この義弟であった。また1771年のミヒャエル祭では、ビュッケブルクの宮廷牧師に就任したヨハン・ゴットフリート・ヘルダーの詩に義弟が作曲した新作カンタータ『ミヒャエルの勝利』を演奏したし、1778年のミヒャエル祭では、このカンタータのコラール、合唱、レチタティーヴォ(歌詞のみ)、アリアに、自身が作曲したレチタティーヴォ2曲、コラール、「ハイリヒ」合唱、さらにゲオルグ・ベンダのアリアを加えて、3人の作曲家の作品による「パスティッチョ」を作り演奏したのである。

 さて、最後のクリスティアンとの関係について述べておこう。父ヨハン・セバスティアンがライプツィヒで亡くなったとき、前述した3歳上の兄は亡くなる半年前にビュッケブルクにいたが、クリスティアンはまだ15歳であった。この少年を引き取ったのも、エマヌエルだった。ベルリンではピアノや作曲を教え、義弟も写譜の仕事などを手伝った。またすでに「個人レッスンだけをやっている音楽家」の筆頭として名前が挙げられ、協奏曲のソリストとしても活躍した。4年半ほどしてクリスティアンはミラノに行き、やがてはオペラ作曲家として時代の寵児となり、7年後にはロンドンのキングス劇場で華々しいデビューを飾ることにもなる。時代の音楽ジャーナリズムの関心も、この流行の作曲家に向かった。ハンブルクの「アドレス・コムトワール新聞」の新米記者であったマティアス・クラウディウスは、エマヌエル宅にたびたび訪問しては、義弟についての感想を求めた。エマヌエルはショーベルトともどもこう評した。「彼らの音楽は耳に入って満たしてくれるが、心を満たしてはくれない。これが最近の音楽、かつてガルッピが私に話をしてくれたような、イタリアで流行している最近の軽薄な音楽に対する私の考えです。人目をひくために大きな咳払いをしているようなアレグロばかりで、アダージョはまったく聴こえてきません。せいぜい聴こえても、アンダンティーノぐらいです。…音楽は高い目的をもっていて、耳を満たすのではなく、心を動かすべきなのだよ。…」

 父親ヨハン・セバスティアンとハイドンやモーツァルトという大作曲家の狭間を埋めたのが、前古典派の作曲家、とりわけ「バッハの息子たち」であったとよく言われる。だが直接的な影響関係は、ロンドンでのクリスティアンとモーツァルトぐらいであろう。それにクリスティアンに対する21歳年長の義兄エマヌエルの評価も手厳しかった。モーツァルトは1788年の2月と3月に、ウィーンでエマヌエルのオラトリオ『イエスの復活と昇天』を演奏して大成功を収めた。演奏会場には作曲者の肖像画が高々と掲げられたという。しかしモーツァルトは演奏に際して、楽器の追加や移調など、ヘンデルの『メサイア』に対してと同じような「化粧直し」を施していたのだ。この演奏の9ヵ月後、エマヌエルは北の町ハンブルクで74年の生涯を閉じるが、時代の「狭間」は「バッハの息子たち」の間にあったと言わなくてはならない。

(参考文献)久保田慶一 「エマヌエル・バッハの音楽の近代を切り拓いた《独創精神》」東京書籍 2003年

久保田慶一(1955年~)
西洋音楽史、特に古典期の音楽研究の第一人者。カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの研究で東京芸術大学より博士号取得(音楽学)。東京学芸大学教育学部音楽・演劇講座教授を経て、2010年度より国立音楽大学教授。著書に「バッハの四兄弟:フリーデマン、エマヌエル、フリードリヒ、クリスティアン―歴史と現代に響く音楽」(オルフェ・ライブラリー)、「C・P・E バッハ研究―改訂と研究― 」(音楽之友社)等、多数あり。

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