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第44回(2024年)草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァル開催!

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【くさつ エッセイ集】ロマン派の途とブラームス

文・松田智雄

第3回プログラムより(1982年発行)

一、「古典主義」の転換

 19世紀という時代は、世界の歴史的潮流のなかの一つの時間的な区切りにすぎないとしても、この区切りが果していく役割は極めて大きい。精神史の一般的な流れとしては、このときに古典主義の典雅なたたずまいは転換の途を辿っていく変化の時期であった。

 「古典」という言葉への目覚めは、西欧の近代社会がはじめて経験したものである。西欧近代精神史への一つの前提、「ルネサンス」が、古典主義の原型であり、これを継承してフランス文学とフランス古典主義が全ヨーロッパに影響を与えたのである。ドイツ古典主義は、ウィンケルマン(1717~1768)によって形づくられる。ウィンケルマンの言う古典は、ギリシア・ローマの歴史そのものではない。むしろ、それはその時代、18、9世紀の立場で描き出された「理想的」なものであった。そこで追い求められる目的は、「理想的に美なるもの」であり、「典型」であった。雑多な個別的対象のなかから、必要なものであり、「理想的」であるものを選び出して統一し、ひとつの完成した姿として捉えるのである。だから、それは変化すべからざる安定と均衡であり、いわば古典主義の法則である。それは「永遠性」を目指すものであり、完成と無限を憧憬する。

二、ロマン派音楽への途

 「永遠性」とは、実はこのように不達の原理へと向うのであるから、それはある意味では矛盾しているかもしれない。しかし、およそ人間の文化と芸術にはこの二つの理念が、基本的に内包されている、と言ってよい。これこそは、人間の基本的な在り方であり、ここには対極的な二つの理念がある。だからこそ、古典主義ののちには、その変化が二つの対極性のなかに現れてくるのである。18、9世紀の頃に行われる古典主義から、ロマン派への変化は、まさにこのような文化の対極性のなかで考えられるのであるが、しかも、音楽においても文学や思想界の流れとは、本質的に同じ姿が現れてくるであろう。

三、マンハイム音楽を通って

 19世紀には、モーツァルトの死のあと、ハイドン、そしてドイツ古典主義を継承し、ゲーテやシルラーの古典的理念の上にベートーヴェンが巨姿を現した。まさに音楽における「ウァイマル精神」の体現である。18、9世紀の頃、音楽におけるウァイマル精神の役割を果すものは、ひとつの仮説であるにせよ、「マンハイム楽派」の絢爛たる開花であったかもしれない。ヨーハン・シュターミッツを源流として、そこに参加する多数の音楽家の示した共通の特徴は、モーツァルトやハイドン、そしてベートーヴェンさえも受容せざるをえなかった。その側面については、ウァイマル精神に似た歴史的な使命を果した。南ドイツの一宮廷都市マンハイムに、それもけっして長からぬプファルツ選挙侯カール・テオドルの治下、18世紀後半期を繁栄期とするにすぎないが、19世紀に入っても、ドイツ・ロマン派と接触するに至るまで、終始音楽的首都であった。

四、シューマンとロマン派音楽

 さて、古典主義の概念には、二つの原理への矛盾が含まれているが、その通りにベートーヴェンにはすでに明らかな二重構造がある。シューベルトに至っては、ここにドイツ・ロマン派が始まる。音楽のロマン派について、深く貢献したのはシューマンである。ベートーヴェン、カール・マリア・フォン・ウェーバー、フランツ・シューベルトの死後、芸術の世界は低迷に陥る。そのとき新しい音楽を求めて、積極的で活発な音楽の変革運動に入っていった音楽家に、ローベルト・シューマン(1810~1856)がある。この状況をシューマンは、「古典的ともロマン的ともつかない、半眠状態である」と評して変革を計った。そして、シューベルトのためには、「咲く花のように明るいロマン的な生命」を、交響曲のなかに聴きとっている。

 シューマンは、ドイツ音楽の凡俗化を憤って、それを「ペリシテ人=フィリステル」と名づけ、自分の立場を「ダビデ=ダヴィット」同盟と唱えた。その理想は、ドイツ・ロマン派のドイツ的「無限」への憧れであり、そしてまた「言葉は音楽である」という意味で音楽の表現力を文学の表現力と同一視した。シューマンは、中部ドイツ地方のザクセンに生れ、19世紀の前半期、ドイツに生れた典型的な市民階級の代表者であった。彼がつくり出した音楽は、ひろやかな市民的心情から湧き出てきたものであって、自ら言う「音詩の音楽」であり、音楽的=詩的な二重性格を備える。こうして「詩」と「音楽」とは結合することによって、標題音楽への傾斜をましたのである。シューマンが創刊した「新音楽時報」は、ドイツ・ロマン音楽運動のための機関紙であった。

五、「新しき軌道」とともに―ブラームスについて

 シューマン自身が編集者であった「新音楽時報」は、ショパンの作品2「御手を給え」―管弦楽の伴奏をもったピアノ変奏曲―を紹介して、ひとりの天才が現れてきたことを告知した。そして、彼の音楽評論の最後の言葉は、ブラームスへの讃辞で終っている。ここに一人の若者が、彼を訪ねてくる。その名前はヨハネス・ブラームス(1833~1897)であり、ヘートヴィヒ・ザロモンがそのブラームスの印象を描いている―「かれは私の前に座った。色白くきゃしゃなシューマンの救世主は、まだわずかに20才であるけれども、その顔は精神の勝利を示している。純真、無邪気、自然、力強さ、そして深み―これらの言葉が、かれの性格を形容する。おそらくシューマンの予言はかれをむしろ軽侮する気持や、かれを厳しく批判する気持を人に起させるが、人はそれらの全てを忘れてしまって心からかれを愛し讃嘆する」―と。

 ブラームスに対しては、対蹠的な立場からはげしく賛否両論が交されている。ふつう思い出されるのは、ロマン・ローランによる酷評であり、また、バッハ=ベートーヴェン=ブラームスの三大Bを結びつけるビューロウの信条の二つである。

 だが、ブラームスはシューマンの幸福な継承者であった。その音楽はなによりもドイツ風に内面的であった。それは音楽自体を無限の深みにまで追い求める。そして、音楽のために音楽を求めていく立場であるから、音楽形式に関して、とくに新らしい形式を必要とはしない。内面的感情は音楽形式に対して内面からこれを変形しながら、その形式に自らの本質を刻印すればよい。こうして内容は形式とともに守られていくのである。

 ブラームスの音楽が本質的に歌謡的であると言われることについて、ひとつだけ付加えることにしたい。シューマン自身の言葉にも、美しい旋律の宝庫であり、民族性を見ることを許す民謡を多く聴くように、との言葉があった。ブラームスはこれを忠実に遵守しており、その主題には民謡をとり入れ、その音楽の礎石とした。かれもまたロマン派文学運動の後を受けて民謡の価値を高く評価した。民謡はブラームスの音楽の礎石にほかならなかった。ブラームスの音楽は、心にうけとめてともに歌ってみることによって、始めて味わえる音楽である。

松田智雄(1911年~1995年)
日本の経済史学者、近代ドイツ経済史を研究。元図書館情報大学学長、東京大学名誉教授。1979年紫綬褒章受賞。
第2回の当音楽祭プログラム冊子に執筆した「緑の草津に相応しい音を」には、音楽祭の未来に期待する一文を寄せている。

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