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草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァル

STAFF BLOG

【くさつ エッセイ集】マンハイム楽派の35年

文・大宮真琴

第8回プログラムより(1987年発行)

 〈マンハイムに行かねばならぬ。生涯にただひとたびであっても、私は音楽を堪能したいし、そうしなければならないからだ。この機会をのがして何時の日に、また、マンハイム以外の何処の地で、音楽を聴くのに、よりよき機会があろうか。〉

 18世紀ドイツの詩人クリストフ・ヴィーラントは、こう書いている。ヨーロッパで最初に卓越したオーケストラをもっていたのは、マンハイムであった。全欧に盛名を馳せたこの宮廷楽団は、1742年に18才でマンハイムの選帝侯を継いだ、音楽好きのカール・テオドールによって育てられた。

 新しい選帝侯は、マンハイムの宮殿をヴェルサイユ風に拡張したばかりでなく、ライン河とネッカー河が合流する三角州にあった町の街衢を整備して、「ラインのフィレンツェ」と呼ばれるほど壮麗なものに作り上げることに貢献した。しかし、この若き君主の名を音楽史に不朽なものとしたのは、何といっても宮廷管弦楽団の育成であった。

 マンハイムの宮廷楽団の名声のためには、もうひとりの人物が必要であった。ヨハン・シュターミッツという名のボヘミア生れの若きヴァイオリニストがそれである。

 シュターミッツがマンハイムの宮廷楽団に僱われたのは、カール・テオドール侯が襲爵する1年前の1741年のことであったと考えられている。24才のシュターミッツが、どんなにすぐれた音楽家であったかは、その翌年(1742年)に、マンハイムからライン河を60キロばかり下ったところにあるフランクフルト・アム・マインで演奏会を開き、「卓越したヴァイオリンの名手」と絶讃された記録によっても明らかである。

 シュターミッツは、イタリア人の楽長グリュアの率いる宮廷楽団の中で、めきめきと頭角をあらわしていった。たちまち首席ヴァイオリン奏者に昇進したばかりでなく、1745年にはコンツェルトマイスター兼音楽指揮者に任命され、900グルデンという高給を支給されるようになった。

 そのころヨーロッパの音楽は、バロックからクラシックへと様式を転換しようとしていた。新しい風は南の国イタリアから吹いてきた。そのころのイタリア・オペラは、例外なくオーケストラによる独立した序曲をもっていた。シンフォニアと呼ばれたイタリアの序曲は、古い対位法の様式を棄て、明快なホモフォニーによる旋律と構造上の段落をもっていた。そのうえ、急―緩―急の3楽章を持ち、弦楽4声部のほかに、2本づつのオーボエとホルンを備えた8声部を基本として作曲されていた。

 当時の序曲と交響曲のあいだに、本質的なちがいはなかった。劇場でオペラの開幕前に演奏されれば序曲であったし、宮廷の大広間において王侯貴族の前で演奏されれば交響曲であった。そのうえ、日本語で序曲と交響曲という用語上の区別もなく、イタリア語ではどちらも同じ「シンフォニア」であった。

 新しい交響曲の時代の到来は、ヨハン・シュターミッツの活動の開始と、時期を同じくしていた。シュターミッツの交響曲の中には3声部や4声部の弦楽だけの編成のものもあり、そのうちの何曲かはフランスで出版されもしたが、様式や筆写楽譜の状態からみて、マンハイムに到着する前、すなわちボヘミア時代の作曲であった可能性が大きい。それに対して、管楽器をもつ交響曲の大部分が2本づつのオーボエとホルンを備えた8声部の曲である。この管弦楽編成は、初期のマンハイムのオーケストラの編成にそのまま適合する。オーボエのほかにフルートやファゴットの独立パートをもつ曲や、ホルンのほかにトランペットやティンパニをもつ交響曲も、ごく少数だが現存している。この事実は、ヨハン・シュターミッツの在任中に、マンハイムの宮廷楽団の規模が大きくなっていったことを示している。

 事実マンハイムの楽団は、しだいに規模を大きくしたばかりでなく、卓越した名手たちを加えていった。

 1747年には、モラヴィア生れで、ウィーンでフックスについて学んだ39才のフランツ・リヒターが、バス歌手と第2ヴァイオリン奏者を兼ねて加わった。ヨハン・シュターミッツは、1757年に39才で没したが、そのあとを継いで第2代のマンハイムの中心的音楽家となったのは、このリヒターだったのである。

 シュターミッツの死のすこし前、1754年にマンハイムに来てチェロ奏者となったのは、同じボヘミア生まれのアントン・フィルツであった。

 1753年にマンハイムにきて、宮廷オペラ指揮者となったのは、ウィーン生れのイグナッツ・ホルツバウアーであった。ウィーンでカルダーラやフックスについて学び、さらにイタリアでオペラの様式を身につけ、ウィーンに戻ったあとはブルグ劇場の指揮者をしていた音楽家である。

 こうしてマンハイムは、ドイツの管弦楽の中心地となった。宮廷楽団には、2部のヴァイオリンは10名づつ、ヴィオラとチェロとコントラバスは4名づつに増大し、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペットを各2管、ティンパニ1対を常備する、ヨーロッパ最大のオーケストラとなった。弦の運弓法は整然と揃っており、管の音色は多彩で、囁くようなピアニッシモから轟くようなフォルティッシモまで、有名なクレシェンドを作り出し、正確で表現力に富んだ演奏をおこなった。

 1772年にこの地に旅行してその演奏を聴いたイギリスの音楽史学者チャールズ・バーニーは、驚嘆の念をかくそうともせず、こう書いている。

  ≪マンハイムの選帝侯のオーケストラは、ヨーロッパ中で最も賞讃に値するものである。並はずれたその力は、たくさんの音楽家の手から、ごく自然に湧きおこる。だがこの力は、良く訓練された結果うまれてくるという、正しい使いかたがなされている。そのうえこのオーケストラの中には、おそらくヨーロッパのどのオーケストラよりも沢山の独奏者がいるし、作曲家もいる。まさに、将軍たちだけから成る軍隊のようなものだ。この並はずれたオーケストラは、演奏会になるとその力のすべてを出しきる。まるで声楽の場合のような繊細な美しさをすこしも損なうことなく、最大の効果を発揮するのである。かのクレシェンドやディミヌエンドを発見したのもこのオーケストラだし、ピアノとフォルテの対照は、まるで絵画での赤や青のように、音楽による色と影の効果を作り出す。演奏の全体を通じて、このオーケストラの不完全さにもとづく欠点を、私は一箇所も発見することができなかった。≫

 モーツァルトがマンハイムを訪れたのは、それから5年後1777年の秋であった。当時モーツァルトは21才で、母親とともにパリに職さがしに行く旅行の途中であった。この時期のマンハイムのオーケストラの楽長は、第3世代のクリスティアン・カンナビッヒであった。たちまちカンナビッヒと親交を結んだモーツァルトは、またマンハイムのオーケストラのスタイルからも深い感銘を受けた。強大なフォルテにつづくピアノのこだま、金管楽器のあとにくる木管楽器の表情ゆたかな旋律、「マンハイムのため息」と呼ばれた連鎖音形、「マンハイムのロケット(打ち上げ花火)」として有名なクレシェンドしながらの上昇する手法など、このオーケストラの様式の特徴は、その後のモーツァルトの音楽に濃い影をおとしたのである。

 しかしモーツァルトが、パリからの帰路、1778年の秋に再びこの町を訪れたときには、宮廷ごと、もぬけの殻になっていた。この年、選帝侯カール・テオドールがバイエルン侯をも兼ねることになり、宮廷をミュンヘンに移したのである。

 こうして、バロックからクラシックへの様式変換に重要な役割を果したマンハイムのオーケストラは、とつぜん35年の栄光の歴史に終止符を打ったのである。しかしマンハイム楽派の伝統は、けっして死に絶えはしなかった。1770年にライン河の下流の町ボンで生れたベートーヴェンは、若いころからマンハイムの様式を知りつくしていた。そのベートーヴェンがウィーンに移住したのは、マンハイムの宮廷楽団がミュンヘンに移った15年ばかりのちの、1792年の秋であった。

大宮真琴(1924年~1995年)
音楽学者、お茶の水女子大学名誉教授。ハイドン研究家。京都音楽賞(研究・評論部門 平成2年)受賞。著書に『ハイドン』(音楽之友社出版)、『ハイドン全集の現場から 新しい音楽学の視点』(音楽之友社)などがある。この他、第5回の当音楽祭プログラム冊子に「ハイドンの音楽 実験と革新」も寄稿。

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