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草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァル

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【ビーバ博士のエッセイ集】ヨーゼフ・アイブラー

文:オットー・ビーバ/日本語翻訳:武石みどり

第29回プログラムより(2008年発行)

 ヨーゼフ・ハイドンの弟子だったと主張する者は多いが、本当にそうであった人間はわずかしかいない。その一人がヨーゼフ・アイブラーである。その意味ですでに、我々はアイブラーの名前と音楽について知らなければならない。
 モーツァルトの友人であったと主張する者は多いが、本当にそうであった人間はわずかしかいない。その一人がヨーゼフ・アイブラーである。彼自身、モーツァルトとの関係を「幸運にも彼が亡くなるまで友情を保った」と説明している。モーツァルトが死の床に就いていたとき、彼はコンスタンツェ・モーツァルトが夫の面倒を見るのを手伝った。
 モーツァルトから直々のお墨付きを得たという点で、ヨーゼフ・アイブラー以上に自慢できる作曲家は誰もいない。モーツァルトは1790年にアイブラーについて、自分の弟子とは記さず、室内楽と教会音楽の手堅い作曲家、ピアノとオルガンの完璧な奏者であり、「同じような人がめったにいないのが惜しまれる」ほどの若い音楽家であると証明している。モーツァルトによるこの抜群の評価からしても、アイブラーの名前と音楽について知っておく必要がある。
 アイブラーについては、ヨーゼフ・ハイドンも1790年にすばらしい評価を表明した。彼はアイブラーの卓越した才能と勤勉さを賞賛し、音楽家に必要なあらゆる音楽理論の知識を有し、ピアニスト及びヴァイオリニストとしてあらゆる専門家から喝采を受ける人物であることを証言し、作曲家としても彼に最大の賛辞を表明している。これらすべてを根拠として、ハイドンはアイブラーを宮廷楽団の楽長に推薦した。アイブラーに作曲を教えたのは、若きベートーヴェンが師事したことで知られるヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガーである。モーツァルトが亡くなった2年後、1793年に、アルブレヒツベルガーはアイブラーについてこう記している。「モーツァルト亡き後、彼は今やウィーンが擁する最大の音楽の天才である。」ハイドンの証言に加えて、モーツァルトとも親しかったアルブレヒツベルガーがアイブラーをモーツァルトの音楽の後継者としていることからも、我々はアイブラーの名前とその音楽について是非知っておかなければならない。

アイブラーは1765年にシュヴェッヒャート(ウィーンの東、現在のウィーン空港から遠くないところ)で生まれた。父親は教師兼オルガン奏者で、同地の教会で教会音楽を担当していた。従って少年は非常に音楽的な環境の中で育った。ヨーゼフ・ハイドンとミヒャエル・ハイドンの兄弟と同様、アイブラーも音楽的才能を認められてウィーンのシュテファン大聖堂の聖歌隊員となった。アルブレヒツベルガーはレッスン料免除で彼に作曲を教え、ハイドンとモーツァルトは彼の援助者となった。1793年にはウィーンのカルメル会教会の聖歌隊長となり、1794年には教会音楽の保護奨励で指導的立場にあったウィーンのショッテン修道院の聖歌隊長となった。1801年には皇帝フランツⅡ世の子供たちの音楽教師として招聘された。皇帝一家との関係が深くなるとともに高い評価を受け、1804年には宮廷の副楽長として雇い入れられた。副楽長として、彼は宮廷楽長アントーニオ・サリエリの代理を務め、サリエリが病気で宮廷楽長の職務をまっとうできなくなると、1824年6月に後継者として宮廷楽長の座についた。1835年には、特別な賞賛の証として貴族に列せられた。

アイブラーを貴族へと叙爵するために7年にわたって作成された手続文書をたどってみると、彼は「皆から尊敬される人物」であり、妻と一人息子(娘は生後数ヶ月で亡くなった)とともに「裕福な」生活を送っていたと記されている。1846年に亡くなったとき、アイブラーの遺産は9000グルデンと見積もられた。これは、彼自身の年俸のちょうど6倍に当たる。アイブラーは物静かで控えめな人間であり、演奏旅行をすることもなく、有名になるため自らは何の行動も起こさなかった。そこで彼に代わって語ったのは、彼の作品、その才能と芸術であった。1803年に作曲したレクイエムが1825年に出版されたことによって初めて、アイブラーは突然ヨーロッパ中で有名になった。この時期、人々の興味は常に新しい音楽に向けられていたのであるから、この現象は普通のことではなかった。明らかに、この作品が約四半世紀前の曲であることを誰も気づかなかった(出版譜にも記されていなかった)のである。人々はこのレクイエムを新作として受けとめた。このことはまさに、1803年の作曲の時点でアイブラーがいかに時代を先取りしていたかを示している。
 1825年の段階で、ウィーンでは宮廷楽長ヨーゼフ・アイブラーの名はもちろんすでに有名であった。1826年にウィーン楽友協会がアイブラーをルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンと同時に名誉会員としたことは、当然の決断であった。レクイエム(と数曲の大規模なミサ曲)の出版により、すでに60歳になっていたアイブラーは、ついにヨーロッパ全体でも正当な名声を得ることになった。ストックホルムのスウェーデン王立音楽アカデミーとアムステルダムの「フェリックス・メリティス」音楽協会は、(以前ヨーゼフ・ハイドンにそうしたのと同様に)アイブラーを名誉会員の一人に加え、ローマの聖チェチーリア音楽院のほか、国際的影響力をもつ合計11の音楽・文化団体から栄誉を受けた。アイブラーはこれを喜んだが、しかしこれを自慢して自分の名声の拡大のために利用することもなく、個人的な出世と結びつけようともしなかった。それゆえ彼は誰からも本気で嫉妬されることがなく敵対者もいなかった。1846年7月24日、アイブラーは皆から愛され尊敬される人物、そして芸術家としてウィーンで亡くなった。
 アイブラーは皇帝から特別な栄誉を受けた。シェーンブルン宮殿、すなわち皇帝の家族が夏を過ごす広大な公園の中に建てられた宮殿の中に、アイブラーも自由に使える夏の住居が与えられたのである。このような処遇を受けた宮廷楽長は、後にも先にも彼しかいなかった。彼が高く評価されたのは、おそらく芸術性ばかりでなかったのであろう。アイブラーは、私生活で弦楽四重奏を熱心に演奏した皇帝フランツⅠ世(前出の皇帝フランツⅡ世と同一人物。1804年以降支配領域が縮小し、オーストリア帝国皇帝フランツⅠ世となった)のために室内楽のパートナーをも務めた。
 アイブラーの最初の伝記作家アウグスト・シュミットは、彼が後世になってから初めて賞賛されたという言葉がしばしば引用されていることに反論し、アイブラーの死後、初めて時流にとらわれない正当な評価を与えた。「アイブラーは、すでに存命中から栄冠を受け、活動への報いを自ら刈り取った数少ない幸福な人物の一人であった。」しかし結局、彼はハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンの影に不当にも押しやられることになる。
 だが同時代の人間にとって、彼は影の存在ではなく、―繰り返して言うが特に『レクイエム』により―今風で新しく、未来志向の作曲家でさえあった。このことは、例えばブレーメンのドーム教会で毎年行われる受難日コンサートで、アイブラーのレクイエムが1834年に演奏されたことからも充分に認識することができる。この有名なコンサートは、ブレーメンばかりでなくドイツ語圏全体で注目されており、原則として新作、または少なくとも作曲されて間もない作品が演奏された。一世代後にはヨハネス・ブラームスの『ドイツ・レクイエム』が初演されている。アイブラーの創作を今日の視点から正しく評価しようとするならば、同時代の人々がアイブラーをどのように受容したかを見ておく必要がある。ブレーメンでの演奏会の批評家は、「非常に美しい作品」と評し、この演奏によって「何かすばらしいことが成し遂げられた」と述べている。この34年後、ブラームスのレクイエムが演奏されたとき、聴衆の中にアイブラーのレクイエムを覚えている人はいたのであろうか。
 ヨーゼフ・アイブラーは、すぐれたテクニックと心地よいタッチとアーティキュレーションでピアノを弾いた。オルガン演奏にも優れ、若いときにはウィーンでも卓越したホルン奏者であった。さらにヴァイオリン、ヴィオラ、バリトンを高いレベルで弾きこなし、それ以外にもいくつかの楽器を演奏した。その中にはヴィオラ・ダモーレも含まれていたと思われる。この珍しい楽器を驚くほど知り尽くして書いた作品が残っているからである。
 さまざまな楽器をマスターした個人的経験は、作曲家アイブラーにとって、もちろん室内楽とオーケストラの楽器法の点で役立った。
 作曲様式としては成熟した古典派様式から出発し、それを1830年代初頭まで時間をかけて展開した。ベートーヴェンが死の年1827年に至るまで自分の様式を展開したのと似ている。余談ながら、ベートーヴェンは一般的に、また特に大規模な教会音楽に見られる優れた対位法の扱いのゆえに、アイブラーの作品を非常に高く評価していた。
 宮廷楽長の務めは当時ほとんど教会音楽の分野に集中していたため、宮廷楽長にはもっぱら教会音楽の作曲が期待された。従ってアイブラーは宮廷楽長に任命された後は、実際に教会音楽作品しか作曲しなかった。1833年には脳卒中のために、作曲そのものが医者によって禁じられた。そのため、彼の創作期は生涯全体に及んでいるわけではなく、独立した器楽曲は若い頃、または作曲家として活動した前半の時期にのみ作曲されている。アイブラーの交響曲は1799年以前に作曲されたため、モーツァルトとハイドンの作品と比較しうる。比較を試みると、すぐにこのジャンルにおけるアイブラーの独自の展開を認識することができる。同じことは、例えば弦楽四重奏曲、弦楽三重奏曲、2台のチェロのためのソナタにも通用する。これらはすべて、彼が宮廷副楽長に任命される前に作曲したものである。これに対して、ピアノ・トリオとヴァイオリン・ソナタは任命の直後に作曲された。これらの作品で我々が出会うのは「古典派」アイブラーである。1803年に作曲されたレクイエムとその他のいくつかの教会音楽作品、さらに後期のミサ曲においては、ベートーヴェンの同時代人アイブラーを聴くことができる。これらの曲は、形式的というよりもむしろ和声的に一世代若いフランツ・シューベルトに近づいている。アイブラーのハ短調レクイエムが1825年に出版されたときに新作と受け取られたこと自体が、アイブラーが決して亜流ではなく、音楽様式を常に発展させる自立した巨匠であり、まさにこのレクイエムの作曲ではるか未来に目を向け、ずっと後になって一般的になった多くの特徴を先取りしたことを証明している。もちろん、アイブラーは決して画期的な音楽の革命家ではなかった。ウィーン楽友教会資料室長であったカール・フェルディナント・ポールは、1877年に出版したアイブラーの伝記で、的を射た評価を下している。すなわち、アイブラーはその職務においても芸術創作においても常に落ち着いて高い業績を上げたのであり、その作品は「偉大な才能を証明」しており、「そこには包括的な知識と芸術的教養に裏打ちされた趣味が心地よい総体として一体化されている」のである。
 アイブラーの創作は管弦楽曲、協奏曲、舞曲、オラトリオ2曲、合唱と管弦楽のための教会音楽、あらゆる種類と編成の室内楽曲、ピアノ曲、歌曲、カノン、多声声楽曲、オペラ1曲、およびその他の舞台音楽にまで及んだ。あらゆる音楽ジャンルで成功を収めたが、舞台音楽の作曲家としては成功を得られず、オペラと演劇が自分の世界ではないことを短期間で認識するに至った。

 ヨーゼフ・アイブラーは、1833年に宮廷楽長の職務として宮廷楽団を指揮してモーツァルトのレクイエムを演奏している間に、指揮台の上で脳卒中に倒れた。これは指揮者にとっては珍しい悲劇であるが、アイブラーがモーツァルトとそのレクイエムに特に近い関係にあったため、この作品を指揮する際に特に大きな内的興奮を覚え、通常の演奏で感ずる自然な興奮状態を逸脱して脳卒中に至ったのだと解釈することができよう。

アイブラーは若いときに、自分が職業音楽家になるとは考えていなかった。最初に法律を勉強し、ヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガーの下で作曲を学んでからは、法律の勉強と並行して作曲を進めた。アイブラーが自ら述べているように、この時期、助言と模範を求めてヨーゼフ・ハイドンを訪ねた。彼はハイドンの正式な弟子ではなかったが、ハイドンはアイブラーを好み、やさしく友好的な態度を示し、親しくなればなるほど好意的な助力を惜しまず、まもなく彼を芸術的に自分と同等の作曲家とみなすようになった。
 ヨーゼフ・ハイドンと接触した後、アイブラーは時をおかずにモーツァルトと知りあう機会を得た。モーツァルトが「好意と完璧な信頼」を寄せてくれたことを、アイブラーは感謝に満ち控えめに報告している。「私は幸福にも、モーツァルトとの交友をその死に至るまで続けました。ですから、彼が痛ましい死の病に伏したときにも、彼を抱き上げ、寝かせ、見守りました。私たちは賞賛すべき巨匠たち、特にヘンデルの作品をいったい何曲注意深く一緒に検討したことでしょう。私たちはそこから学び、楽しみました。モーツァルトはまた、私が劇場の仕事から完全に手を引く決意をする原因ともなりました。モーツァルト自身はそのことに気づいていなかったし、またその理由は私自身の素質と性格に基づくことです。それは私自身にも当時は明確ではなく、決心がつかなかったのですが、今やすべてが明らかになり、私も決心がつきました。モーツァルトがオペラ『コシ・ファン・トゥッテ』を作曲する途中で、まだオーケストレーションが出来上がっていなかったとき、彼は時間に追われて私に歌の稽古を依頼し、特にフェラレーゼとヴィレヌーヴの二人の女性歌手に稽古をつけるようにと頼んできました。私はこの経験を通して、落ち着きがなく陰謀やその類に満ちた舞台の生活を知ることとなり、前に述べたように[劇場の仕事からは手を引くことを]決心し、その決心は生涯変わりませんでした。」

 モーツァルトの『コシ・ファン・トゥッテ』は1790年1月26日にウィーンで初演された。オーケストラ付きの練習は1月20日に始まっている。そこから推測すると、アイブラーが歌手に稽古をつけたのはそれより前ということになろう。だが、彼は劇場の仕事から手を引く決心を完全に忠実に守ったわけではなく、その後オペラ1曲、パントマイム1曲、アリアまたはシェーナを数曲作曲した。しかしその結果、彼の芸術世界がここにはないということを確認したにすぎなかった。おそらく彼は、最初の決心に従わなかったことを後悔したであろう。もし従っていたら、余計な失望を味わうことはなかったのであるから。
 アイブラーはモーツァルトの正式な弟子ではなかったが、モーツァルトとともに他の作曲家の作品を勉強したことは一種の授業であり、モーツァルトとの交流を示す短い文章には感謝が満ちあふれている。アイブラーがモーツァルトのレクイエムを完成しようと考えながら、結局敢えてそうしなかったのは、彼の無能力のゆえではなく、常に控えめな彼が抱いていたモーツァルトに対する大きな敬意のためであったのかもしれない。だからこそ、アイブラー自身のレクイエムは非常に未来志向的な偉大な作品となったのでないだろうか。尊敬していたからこそモーツァルトを避け、自らの古典派様式からも離れて将来の展開の先取りを試みたのである。

 アイブラーの平穏な生涯はスキャンダルやその他の不祥事とはまったく無縁であり、持続的な上昇におのずから名声がともない、賞賛を得るために自ら争ったり失望したり反動に苦しむこともなかった。それゆえ、人々が一般に芸術家の伝記に期待するものとはまったく合致しなかった。この順風満帆の人生は、おそらくその後の世代が次第にアイブラーに興味を持たなくなった原因のひとつだったのかもしれない。ベートーヴェン信奉者の多くは、アイブラーがいなければベートーヴェンがもっと大きな名声を得られたはずであると考えてアイブラーを非難し、シューベルトの信奉者たちも同じように考えた。このような理由無き非難は嫉妬に基づくものであり、かえってアイブラーの業績を認めるものでしかない。
 しかし、彼の教会音楽の数曲はオーストリアと周辺国では忘れ去られることなく、今日に至るまで演奏レパートリーの一部として残され、現代版の楽譜も出版されている。コントラバスを伴う弦楽五重奏曲―コントラバスを含む室内楽作品は多くない―は、最近シューベルトの弦楽五重奏曲『ます』と組み合わせて好んでコンサートで演奏されている。室内楽奏者はアイブラーの室内楽曲を取り上げるようになり、交響曲は主にCD録音で再び人々の耳に届くようになった。アイブラーのオラトリオ『最後の四つのこと』(1810年作曲)―同時代の人々がハイドンによる作曲を期待していたテーマ―は、フランスから端を発して再演されるようになった。
 そして、今回草津夏期国際音楽アカデミーにおいてアイブラーのレクイエムと詩篇『深き淵より』が演奏されることは、疑いなく、彼が正当に受けるべき注目の最新の頂点となるであろう。

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