文:井阪 紘
昔の杉並公会堂は木造建築の良く響くホールで、1000人は入らなかったが、室内楽には最適のホールだった。1969年、日本ビクター初のバッハ名曲盤はここで録音された。室内楽には最適のホールということで、私はバッハのブランデンブルク協奏曲第5番とオーボエとヴァイオリンのための二重協奏曲の2曲に、アンコールのつもりで管弦楽組曲 第3番の中よりG線上のアリアを録音した。
創設時の草津のアカデミーが標榜した音楽的目標の1つに、「日本でまだまだ欠けているバッハ作品への色々な方法やアプローチを学ぶために」というものもあった。そのため、ヴィンシャーマンのようなバッハの作品演奏に対して経験豊かな人たちを招きたかったのだ。
先に述べたように、私がヴィンシャーマン氏にアプローチしたのは1979年の10月に入ってから、その時の話では、夏の8月末の2週間という期間に、ドイツ・バッハ・ゾリステンには2回のコンサートの契約が入っているが、それがキャンセルできるか否か、やってみてから正式に返事ができるという話であった。
その後、彼からはデトモルトの同僚であり、バッハ・ゾリステンの重要なチェンバリスト、ヴァルデマール・デーリングを口説いて一緒に草津に行けるという朗報が届いた。やっと音楽祭のスタートが見えてきた瞬間でもあった。
話はそれるが、先述のレコーディング時、ブランデンブルク第5番のヴァイオリン・ソロをひいたのは、サシコ・ガヴリロフ氏で、彼には、その後ベルリンで再会した際に草津に教えに来てくれないかと説得し、これは第2回目(1981年)に実現した。
チェンバリストとして日本で活躍中の桒形亜樹子さんは、東京藝大で間宮芳生氏に就いて作曲を勉強していたが、草津でデーリングに就いて、バッハの鍵盤楽器の演奏が作曲の知識に直接結びついていると気付いたようだった。草津を受講後、デトモルトに留学しデーリングに師事し、後にフランスにも渡り幾つかのコンクールで優勝し、この楽器やバロックの演奏法をマスターされた。第1回目の優秀なアカデミーの卒業生のひとりとなった。
オーボエのクラスもヴィンシャーマン、その後、彼の弟子ギュンター・パッシンとクラスが受け継がれ、その生徒の中から茂木大輔さんや長岡大輔さんらの演奏家が輩出された。
もうひとり、第1回目の目玉アーティストはチェロのモーリス・ジャンドロン氏であった。彼との関わりは、音楽監督の遠山一行さんも親しい友人の関係であり、豊田耕児さんもフランスで勉強した時代からの知り合いということで、是非とも招きたいアーティストであった。モーリスに、草津に来てほしいと言う話をするため、来日中だった彼を遠山邸に招き、一緒に食事をしたのがつい先日のように思い出される。
モーリスと私は1973年に日本でフォーレのチェロ・ソナタ 第1番を録音して以来、70年代後半にはピアニスト井上直幸氏を伴って、スイス、そしてフランスのモーリスの自宅があるフォンテーヌブローも訪ね、シューベルトのアルペッジョーネ・ソナタやブラームスの2曲のチェロ・ソナタ等、何枚ものレコーディングを重ねていた。
二つ返事で草津の話を引き受けてくれたモーリスと、同じく初回に招聘したピアニストの遠山慶子さんとで初共演のプログラムを組み、彼にとっても、我々にとっても楽しみたっぷりの第1回目を迎えることとなった。
こうして、40年前、クラシック音楽との縁がほとんどなかった草津の地に、強い絆に導かれた名高い巨匠たちが足を運んでくれた。あれから、40年、今もなお、遠山慶子さんやガヴリロフ氏は草津へ来てくれている。この「アーティストたちとの絆」が音楽祭の原点であることは忘れてはならない。
―完―