文・福原匡彦
第4回プログラムより(1983年8月発行)
草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァルも待望の第4回を迎えた。“待望の”というのは、昔から3号雑誌という諺がある通り、続かないものなら3回までに潰れてしまっている筈だからである。いよいよ本格的に定着したものとして第4回を迎える感慨は、主催者たる関信越音楽協会の理事の一員として、ひとしおのものがある。
正式の名称は舌を噛みそうなので、草津音楽祭と呼ばしてもらうが、第4回草津音楽祭が開催されるにあたり、この音楽祭がどのようにして誕生したかを振り返ってみたい。それには、関信越音楽協会常任理事・丸山勝廣氏の名前をどうしても出さねばならない。
丸山勝廣氏は、群馬交響楽団の生みの親であり、育ての親でもあるのだが、異常なくらい東京に文化の集中するこの日本の中にあって、戦後40年近い歳月、地方の灯をともしつづけた、いわば地方文化の旗手である。あの有名な映画「ここに泉あり」(1955年封切)は群響の苦斗を描いたものであり、丸山氏はこの中で“カメさん”と呼ばれて小林桂樹が演じているが、映画は群響創立から7~8年間の苦労ものがたりに過ぎず、その後さらに30年間にわたって、丸山氏は地方文化を取り巻くさまざまな壁に戦いを挑んできた。そのひたむきさはまことに頭の下がるものであり、私などはここ30年ばかり丸山氏の熱烈なファンでありつづけている。
そのうち、高崎市という人口20万程度の都市を根拠地とし、群馬県1県を活動対象として動いているだけでは、一つの交響楽団の財政的基盤としてどうしても無理があると考えた丸山氏は、その活動範囲を関信越という広域圏に拡大することに乗り出す。そして、それを実現するために、1977年、林健太郎前東大総長を理事長とする財団法人関信越音楽協会が設立された。
さて、関信越音楽協会の発足とともに、それを背景に、丸山氏はかねてから懸案であった群響の音楽的水準を高めることに全力を投入するのだが、そのためにはどういう音楽家と結びついたらよいかに腐心し、そこにヴァイオリンの名手豊田耕児氏の名前が挙がってくる。それも、豊田氏の音楽的力量だけでなく、その人間性に惚れこむあたり、丸山氏の面目躍如というところである。
ところが、豊田耕児氏は長くベルリンに在り、ベルリン放送管弦楽団首席コンサートマスター(のちにベルリン芸術大学教授)の地位にある。丸山氏は、豊田氏の古くからの友人で関信越音楽協会の理事でもある遠山一行氏の紹介状を携える形で、生まれてはじめてのヨーロッパへ豊田氏を訪ねるのである。あいにくシーズンが夏休みで、豊田氏はベルギーの音楽講習会に講師として出掛けている。丸山氏はそれを追って、列車からバスに乗り継ぎ、ベルギーのサンユベールという山村に辿り着く。このへんは丸山氏の書いた文章に基づいて書いているのだが、朝、講習会場の近くの霧の深い並木道に不安の面持で豊田氏の現われるのを待つ場面などは、ドラマの1シーンを見るごとき観がある。
もちろん、豊田氏は日本を離れて久しいので、群響など知るよしもない。ただ、ベルギーの山奥まで訪ねてきた丸山氏の熱意にはほだされたらしい。そして、とにかく日本に帰ったとき群響をお訪ねしましょうということになった。翌1979年、豊田氏は群響の指揮棒を振ってみて、群響が恵まれない環境の中で一所懸命に頑張っているその純真さと健気さにうたれる。これは東京などの交響楽団が持っていないすぐれた特性だ。これまで東京の音楽大学や交響楽団から日本に帰って来ないかという数々の誘いを断わりつづけてきた豊田氏は、ここにはじめて、自分の身を置く日本での場所を発見したのである。
邪念のない清らかな人だけが邪念のない清らかな人を見抜くことが出来る、と私は信じている。純粋に音楽ただ一筋にうちこんできた豊田氏だけに、丸山氏の夢と情熱が単なるハッタリなどではなく、真実のものであることを鋭く理解したにちがいない。こうして、豊田氏が群響に手を貸してくれることがきまった。
さて、思いが叶ってみると、今度は丸山の側が大変である。豊田氏のような素晴らしい人を群響に迎えるとなれば、ただ群響だけが独占してはもったいない。ひろく豊田氏に活躍してもらう場を考えなければ、ということになり、かねがね豊田氏が故国日本でも開きたいと切望していた国際的な音楽講習会の計画を急いで具体化することになった。地方の貧しい楽団を選んでくれた豊田氏の並み並みならぬ好意と愛情に報いるせめてものお礼ごころというわけである。
音楽祭を受け止める主体としては、うまい具合に設立されたばかりの関信越音楽協会がある。開催場所は、草津町の前町長中沢清氏、現町長萩原亮氏の熱意と協力によって、日本のチロルと呼ばれる草津高原にきまった。冬のスキー関係の施設が夏期は空いており、音楽のレッスンにも演奏会にも使えるという。経費の方は、補助金や寄付金の見通しが或る程度ついたところで見切り発車だ。中味が良ければ後は何とかなるという丸山氏一流の勘である。
その中味は、豊田氏の采配で着々と進行していた。音楽祭はアカデミーとフェスティヴァルの二本柱から成り、豊田氏の信頼する世界第一級の音楽家たちが講師ならびに演奏家として名を連ねる。1回目であり、準備期間も十分でなかったから、豊田氏の理想通りにはいかなかっただろうが、それにしても立派な講師陣であり、しかも、それらの講師陣から単に技術的な指導だけでなく、人格的な接触による全人的指導が行われるよう配慮された。さらに、個人レッスンにとどまらず、アンサンブルを重視する企画が盛り込まれるなど、さまざまな新機軸が打ち出された。
1980年8月18日、いよいよ第1回草津音楽祭は幕をひらく。日程のなかばに、私も個人レッスン・公開レッスンの教授風景を見たり、ジャンドロンのチェロ演奏会を聴いたりする機会に恵まれた。一流の講師たちが手をとらんばかりに懇切に教える教室は、熱気をはらんでいた。草津のように奥まったところなので入りを心配していた演奏会も、聴衆が一杯はいっており、その仮設の会場も大ホールと違ってかえって演奏者が身近かに感じられ、新鮮だった。
豊田氏の性格そのままに、地味だけれども厚みのある世界的なアカデミー兼フェスティヴァルは、こうしてはじまったのである。第1回目は、それでもはじめての試みだったから、受講する側に戸惑いやためらいが見られたようだが、回を重ねるに従って、それも解消されたと見てよかろう。軌道に乗った草津音楽祭はこれからが楽しみだ。その洋々たる将来に、祝福あれ、と祈るばかりである。
福原匡彦 元国立劇場理事長、元文科省社会教育課長