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【草津Library】山上のフェスティヴァル

文・宇佐見英治

第3回プログラムより(1982年8月発行)

 私はもう30年近く、毎夏を北軽井沢の山荘で暮している。風呂がないわけでないが、草津の滑らかな沿の香にひかれて、月に3、4度は浅間を下り、真向の白根の山腹にある草津に湯を浴びにゆく。夏の草津は老人の天国だ。町の中央の深々と湯煙がのぼる湯畑の傍のべンチには、爺さん婆さんが何人も腰かけて、周りの立てこんだ旅館の窓や高い宵い空を何の煩いもなく眺めている。焼玉蜀黍を売る声、温泉祭の賑わい、猿の腰掛や山菜の漬物、腰紐が風に吹かれている店の軒先、雑音とひそけさと思いがけぬ音量で呼びかける町のスピーカー。草津は庶民の町である。誰も気取って步いたりはしない。スキーのシーズンを除けば若者やインテリまがいが立ちよらぬ町、しかし一生働きとおした年寄たちにとっては霊験あらたかな古湯、天然の極楽泉池であった。少くとも私が通い始めたころは、そんなところであり、老人が世から見捨られてゆくように、いつかは寂びれてゆく、そんな思いがすることもあった。
 しかしこの数年草津に大きな変化が起こった。それもどこの温泉場にもあるような旅館のビルディング化や施設の合理化といったちゃちな近代化でない。町の古風俚俗は保ちながら、山窪の温泉場をかこむ広大な高地を開発して、ここに一大文化保養地を創出しようとする壮大な夢が中沢清さんを中心に(多分そうだと思う)着々推進された。背後の森を拓いて、まず高級施設をもつホテル・ヴィレッジが建てられ、林間に日本で初のベンションが生れた。いまその数は20を越すという。瀟洒なリゾート・ホテルが天狗山裾からヴィレッジの森にかけ幾館も散見されるようになった。しかし何といっても変化の最大のものは、今や第3年を迎える「草津夏期国祭音楽アカデミー&フェスティヴァル」の開催である。これは一温泉町、一群馬県にとってのみならず日本にとって画期的な出来事である。
音楽は思い出を誘う。匂いが無意識的な追憶を喚起させるのに対して、音楽はそれを聴いた在りし日を彷彿とさせ、それをとおしてどこにもないふるさとへの憧れを募らせる。
 そして本当によい音楽を聰いたときには、神的な息吹が心に吹きこみ、ふるさとはかしこにもどこにもなく、まさにここに、おのが心にあることを、また自分がただ一人ここにあり、すべての死者たち、生者たちとともに戦い進まねばならぬ衝迫であることを何よりも感じさす。音楽は触れうるものをとおして触れえないものの声を聴きとらす。
 私は今も生活に疲れたとき、第1回の「アカデミー&フェスティヴァル」の最終日に奏されたパッハの「管弦楽組曲2番」や「二短調のオーボエとヴァイオリンのための協奏曲」を折々レコードで聴く。するとあのときのレスト・ハウスの壇上で、個性を越えた無私の真摯さで弓を運んでいた豊田耕児の姿やヴィンシャーマンの悠揚たる態度、金昌国の明るい顔、数節を聴いただけでふっと眼に見えてくる。それから満員の補助席の指図に、ワイシャツに汗をふきださせ、落ちつくまもない遠山さんの緊張した顔が―。休憩時間に見た静止したリフトと草山、植込のガーベラと冷えかかった夕べの風が―。
 草津の「音楽アカデミー&フェスティヴァル」の第1回が、これらの人々の卓見によってバッハで始まったことは、当然だが、よいことだった。なぜならバッハこそ音楽そのものであり、その細流(der Bach)には既往のあらゆる形式が流れこみ、そこから繁った森の樹々は「ポリフォニーの大枝をもち」、―演奏されるたびに、聴くごとに、どんな細葉、戦ぎにも、宇宙の気韻と生命の悲劇性が歓びを伴って感じられてくるのだから。
 心に黒雲が重くのしかかったとき、運命の呪いが私の血を濁らせるとき、私はバッハのカンタータやマニフィカトを、ときにはまた軽く深いチュンバロをよく聴く。何ど私はカンタータによって、血を浄められ、心をを洗い、蘇生と愛をめぐまれたことであろう。世界が怪冥で幻に苦しめられるとき、絵画は音楽のように直接心を慰めえない。絵をよく見るためには、不幸からせめて数十歩、遠ざかっていることが必要である。
 トルストイは「幸福な家庭はどれも似通ってているが、不幸な家庭はそれぞれにちがう」といった。自分が生き深め、多くのものを失うにつれ、私は音楽についても、同じようなことを感じるようになった。エモーショナルで楽しい音楽は、もとより個性のちがいがあるとしても畢竟似通っているものだ。それぞれの苦しみを溶かし、それをひそかな、或いは、あてやかな花に咲かせる忍苦に、個性よりも大切な作曲家の心の向きとかたちが表われる。私は限りなくモーツァルトの音楽を愛するが、別のところにも書いたように、モーツァルトは誤ってこの世にまぎれこんできた天人だ。モーツァルトは、私のようにぶざまな苦しみようをしない。彼は天来の迷い子だから、この世で方角を誤ったりはしない。
 自分が道に迷いそうなとき、私はプラームスの晩年の作品、「第四交戰曲」やクラリネット五重奏曲」に折々耳を傾ける。「クラリネット五重奏曲」のあの有名な第2楽章を聴いていると、同じ地上にあって何より自己に忠実であろうとした——また他人や自分を越えたものにつねに謙虚であろうとした、その虔ましい人柄ゆえの心の翳が、そよ風のように優しく、月に照らされた林の空地のように、明るく感じられてくる。その静けさを湛える音声はとっても繊細に推敲しつつ書き継がれた私的な手紙のようだ。
 時代に背を向け、ひたすらおのが内なるものに忠実であろうとしたブラームスを思うと、「人問どこへ行こうと、好きな方へ向うがよい 何を企てようと好きなことをやるがよい、……」というゲーテの言葉が思い浮んでくる。大切なことは、迷いを排してまず試みること、世界に亀裂を与えて、その光を形成することである。
 バッハのカンタータを聴くとき、バッハと信仰を同じくしない私が、なぜあれほど心を洗われ、蘇りと愛の歓喜を覚えるのであろうか。美はついに宗教を越えるのだろうか。恐らく美の存在は、異教であろうとなかろうと、聖なる意志と献身によつて、選ばれた者の上に、同時にまた全人類の上に訪れ、恒存しつづけるのであろう。
 その歓びを爽やかな風の中で感じるためには、今年も夏の草津にどうしても行かねばならない。

宇佐見英治 1918年1月13日 – 2002年9月14日 詩人、フランス文学者、美術評論家、明治大学名誉教授。

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