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	<title>くさつエッセイ集 | 草津夏期国際音楽アカデミー＆フェスティヴァル</title>
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	<description>KUSATSU INTERNATIONAL SUMMER MUSIC ACADEMY &#38; FESTIVAL</description>
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	<title>くさつエッセイ集 | 草津夏期国際音楽アカデミー＆フェスティヴァル</title>
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		<title>【くさつ エッセイ集】ウィーンの世紀末―聖なる春</title>
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		<dc:creator><![CDATA[academy-office]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 28 Sep 2020 01:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[くさつエッセイ集]]></category>
		<category><![CDATA[Eine Pause 2020]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>文・池内 紀 第14回プログラムより（1993年8月発行） 　ウィーン歌劇場から歩いて十分ばかりのところ、買い物客でにぎわうヴィーナー・ツァインの市場前の入口のところに奇妙な建物がある。　神殿のような白い四角いつくりで、 [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">文・池内 紀</p>



<p class="wp-block-paragraph">第14回プログラムより（1993年8月発行）</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ウィーン歌劇場から歩いて十分ばかりのところ、買い物客でにぎわうヴィーナー・ツァインの市場前の入口のところに奇妙な建物がある。<br>　神殿のような白い四角いつくりで、正面に飾り文字、その上に金色の大きな球のようなものがのっている。ほぼ百年前に建てられた。出来た当時はその奇妙な形から「金のキャベツ館」などとからかわれた。<br>　ウィーン分離派会館である。通称セツェシォーン。老朽化して、灰色にすすけていた。1986年、建築家アドルフ・クリシャニッツの指導のもとに全面的に修復されて、いまみるとおりの姿で甦った。世紀末ウィーンの生んだ美しい記念物にちがいない。<br>　先に分離派の機関誌「ヴェル・サクルム」のことを述べておこう。<br>　1898年1月に第1号が出た。<br>　上にラテン語のタイトルがあって、鉢植えの若木が表紙絵。その木が青々と繁って木鉢のタガをはじきとばし、木片のあいだから根っこがのびている。右にアール・ヌーボー風の飾り文字で「オーストリア造型家連盟機関誌」とある。<br>　若い画家たちが中心になり、身銭をきって出したものだった。ほんの数年で終ったあと、永らく忘れられていた。復刻版を出そうとして出版社がウィーンの図書館をさがしたところ、全冊そろっているところは一つもなかったという。<br>　ほぼ七十年後に立派な本となったとき、あらためて人々はおどろいた。表紙絵、グラフィック・デザインにわたり、まるきり時代色を感じさせない。どれといわず、拭ったように新しいのだ。つい昨日生まれたばかりの雑誌のように、ういういしい感覚がみなぎっている。<br>　ラテン語のタイトル「ヴェル・サクルム」は「聖なる春」といった意味。その名前、それにタガをはじきとばしてのびようとする若木の表紙からも、この雑誌が若い世代の手になることは推測がつく。前年の1897年、ウィーン分離派が誕生した。旧来の美術家集団はキュンストラーハウスを拠点にしていた。そこから分かれてグループをつくったので分離派とよばれた。「ヴェル・サクルム」は、その分離派の機関誌として創刊された。<br>　グループのなかで比較的年長の画家グスタフ・クリムトを会長に選んだ。旧来の団体をとび出したからには、これまでのキュンストラーハウスは使えない。自分たちの展覧会場をもたなくてはならない。同年はやくもメンバーの一人ヨーゼフ・オルブリッヒの設計による分離派会館が完成した。ローマの神殿のような白々とした外観で、屋上は大きな金色の球がのっている。その球が「金のキャベツ」などとからかわれたのは、先に述べたとおり。<br>　貧乏な画家集団に、こんなに手ぎわよく拠点ができたのは援助者がいたからだ。オーストリア帝国でも指おりの大富豪カール・ヴィトゲンシュタインが資金を出した。のちの哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの父親である。<br>　ローマの神殿風のつくりにせよ、ラテン語の名前にせよ、理由あってのことだった。古代ローマの昔、退廃した皇帝都市に見切りをつけ、城壁の外に出て、自分たちの「永遠のローマ」を建てようとした「分離派市民」にちなんでいる。そういえば、こちらの分離派会館もまたウィーンの旧城壁のリング通りから「外へ出た」フリートリヒ通りに立っている。<br>　誰が「聖なる春」と名付けたのか、いまとなってはわからない。メンバーの理論的支柱となった美術評論家ルートヴィヒ・ヘヴェジーによると、ウーラントの詩「聖春」から思いついたのだろうという。詩の一節に、つぎのようなくだりがある。<br>　「君たちは新しい世界にまかれた種」であり、<br>　「いま聖なる春を待っている……」<br>　分離派会館の企画はヘヴェジーの選んだモットーがかかげられた。<br>　「時代に、その芸術を<br>　　芸術に、その自由を」</p>



<p class="wp-block-paragraph">　分離派展の準備中のひとこまだろう。1枚の写真がのこっている。右手にクリムトがいる。古代ローマ人が身につけていたような、白いゆったりとしたガウンを着て椅子にすわっている。まわりの面々はめいめい勝手な姿勢をとっている。笑っている、横を向いている、片肘ついている、大きな腹を突き出して寝そべっている。そんなところからも、グループの性格がみてとれる。<br>　分離派はいまも述べたように、古い流派に対抗した新しい運動をはじめたグループだった。しかし、彼らは何らかのイディオロギーを旗じるしにして、声高に新思想を言いだしたわけではない。これみよがしに旧世代を断罪したりもしなかった。「時代に、その芸術を。芸術に、その自由を」をモットーにしても、すこぶるおおらかな主張といっていい。そもそも、半ば旧世代に属するクリムトを会長にしたり、帝国きっての大富豪をパトロンにもつなどのこと自体、新しい運動にはいたって異質のことである。<br>　ウィーン分離派のめざしたものをひとことにしていえば、―これはウィーン世紀末に共通した特徴だろうが―新しさよりもむしろ「綜合」の試みだった。創刊号の表紙の若木には、上の茂みの中に三つの空欄がみえる。そこにはあとから、絵画、彫刻、工芸をあらわす三つの紋章が入れられた。ちがったジャンルが重なり合って新しい芸術をつくり出すこと。そのためにも分離派展では、絵だけではなく、彫刻や工芸が同じ場所に展示された。会場設計そのものが、もう一つの芸術であり、そこには目にみえない空間デザイナーの強い意志が働いていた。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ウィーンの夕方。<br>　カフェにやわらかい灯がともる。オペラ座の窓からシャンデリアの光が洩れ落ち、プログラム売りが制服に着かえるころ、酒場のテーブルにコップが並べられ、アコーデオン弾きがハンチングをかぶって出勤してくる。<br>　そんな時刻、リンク通りからそれてフリートリヒ通りに入り、散策するとおもしろい。えんえんと長い市場のおおかたが店を閉めた。明りがついているのは安ビールを飲ませる居酒屋。中ほどの右手、アン・デア・ウィーン劇場の少し先に壁面いっぱい桃色の装飾をもった建物がみえる。となり合って黄金の飾りのあるもう一つの建物。世紀末ウィーンの代表的な建築家オトー・ヴァグナーの作ったものだ。ヴァグナーの青写真では界隈一体を同じような新建築が埋めるはずだったが、ウィーンによくあるとおり、「未完成」で終った。<br>　分離派会館が白い照明のなかで、白亜の船のように浮いてみえる。上の黄金の玉は人工の月だろう。たいていの人は気づかないが、横手に小さな入口があって、「カフェ・ゼツェシオン」の標識。建築家のクリシャニッツが修復の際につくったもので、白で統一したブロック式の壁と白い丸いテーブル。壁面に口をあいて、まっ赤な窓や、まっ黒な飾り棚。その前衛的な色と形は、あきらかにこの世紀の産物であり、現代という「もう一つの世紀末」の申し子にちがいない。顔をくっつけるようにして話しこんでいる仲間がいる。一人ポツンと本を読んでいる女性。なにやらしきりに書きものをしている老紳士。<br>　ウィーンの世紀末は時代とともに消え失せたわけではない。「聖なる春」はスタイルを変え、色どりを取り代えて、何度でも甦る。それは文化モード的ではなく、むしろ文化の質と関係している。<br>　これは軽くて重い文化だ。その重さは多民族のるつぼであった千年の歴史のかさなりに根をもっている。軽さは享楽のかたちをとって、四分の三拍子のリズムにあわせて歌いならされてきた。ここでは哲学者が詩人のような散文で書き、ノラクラ者が意味深い観察の記録をのこし、町の歯医者にチェロを奏かせるとプロ以上にうまいのだ。<br>　いつも「聖なる春」であって、夏の盛りや、秋の実りに立ちいたらない。この軽さは、実をいうと、タダものではないのである。</p>



<p class="has-background wp-block-paragraph" style="background-color:#eceef0"><strong>池内 紀(1940～2019)</strong><br>1965年東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。神戸大学助教授、東京都立大学教授を経て、85年東京大学文学部教授、96年退官。以後、文筆業、翻訳家として幅広く活躍しており、当音楽祭のプログラム冊子へは、第12回「ロマン派音楽・こぼればなし」、第23回「ウィーン昔ばなし」、第24回「影絵の世界」など多数寄稿。</p>



<div style="height:100px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/essay-2/"><img decoding="async" width="100" height="50" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/4c3a107ab8e98f3e66d5675184960f6e.gif" alt="Essayへ戻る" class="wp-image-13619"/></a></figure></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/"><img decoding="async" width="100" height="100" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/fe979e14110c992e9c02c00035a265d6.gif" alt="Eine Pause 2020へ戻る" class="wp-image-10540"/></a></figure></div>



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			</item>
		<item>
		<title>【くさつ エッセイ集】二十世紀の作曲家からみたバッハ</title>
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		<dc:creator><![CDATA[academy-office]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 21 Sep 2020 01:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[くさつエッセイ集]]></category>
		<category><![CDATA[Eine Pause 2020]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>文・樋口隆一 第18回プログラムより（1997年8月発行） 　現代ロシアの作曲家アルフレート・シュニトケが《クアジ・ウナ・ソナタ》という不思議な題名の作品を書いている。本来はヴァイオリンとピアノのための作品らしいが、私の [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">文・樋口隆一</p>



<p class="wp-block-paragraph">第18回プログラムより（1997年8月発行）</p>



<p class="wp-block-paragraph">　現代ロシアの作曲家アルフレート・シュニトケが《クアジ・ウナ・ソナタ》という不思議な題名の作品を書いている。本来はヴァイオリンとピアノのための作品らしいが、私の持っているCDは、1987年に作曲者自身が室内オーケストラ用に編曲したものだ。イタリア語の題名は、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ「月光」の「ソナタ・クアジ・ウナ・ファンタジア」をもじったのだろうが、訳すと「ソナタのように」ということになる。どこかふざけたところのある音楽だから、作曲家本人は「ソナタもどき」くらいの意味で言っているのだろう。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　何がふざけているかといえば、それはもう最初からおかしい。いきなりピアノがト短調の和音をガーンと叩いたかと思うと、4秒ぐらい沈黙があり、こんどはヴァイオリンがおよそ非音楽的な雑音をグシャッとやり、また10秒ほどの沈黙がある。それからもト短調の和音と無調、クラスターが、ストラヴィンスキーのパロディーまで交えながらほとんど妥協なく交錯する。ところがそんなナンセンス（無意味）な世界に、突然きわめて意味深い情報が飛び込んでくるので、聴き手はハッとする。ヴァイオリンが心を込めて弾くのはB-A-C-Hの動機ではないか。その突然の瞑想的境地は、ヴァイオリンの暴力的なパッセージに妨げられながら、さまざまに展開されてゆく。そこから先はシュニトケの独壇場。いわゆる＜多様式＞の万華鏡が始まる。それは彼がマーラーやストラヴィンスキーの影響のうちに編み出した刺激に富んだ音楽である。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　B-A-C-Hの動機といえば思い出すのが、シェーンベルクの《管弦楽のための変奏曲》作品31（1928）である。12音技法による最初の大規模な管弦楽曲として名高いこの傑作では、すでに序奏の部分からトロンボーンがかすかに吹き鳴らすこの動機が印象的だが、この複雑な音の構造物の中にしばしば見え隠れして、最後のフィナーレにおいて決定的な意味を与えられる。まさにそれはこの難解な作品の中で12音技法の本格的な応用に成功したシェーンベルクの勝利の宣言であり、そのことを可能としてくれたバッハという先達に対する深い感謝の表現でもある。<br>　シェーンベルクにかぎらず、新ウィーン楽派の作曲家はバッハに強い関心を抱いていた。アントン・ウェーベルンの場合、バッハの《音楽の捧げ物》の6声のリチェルカーレ（フーガ）を大管弦楽のために編曲した《リチェルカータ》（1935）という作品がある。ウェーベルンはそこで、8小節からなる主題を7つの動機からなるものと分析し、それらをトロンボーン、ホルン、トランペットに交互に演奏させることによって、個々の意味を鮮明に浮き上がらせるように工夫している。これがいわゆる＜音色旋律＞と呼ばれるものである。ウェーベルンの編曲においては、楽器法だけでなく、例えば弦楽器の弓遣いの微細な変化による意味付け、すなわちアーティキュレーションも精緻を極めている。これが何を意味しているかといえば、本来声楽的な形式であったフーガを、器楽的な原理である小さな動機の集積として見直すことにより、より深い理解を可能とすることをめざしているのだとも考えられる。ひとつの有機体を、全体としてとらえると同時に、個々の細胞の集積としてとらえる考え方ということもできよう。<br>　シェーンベルクは1928年に、バッハのオルガンのための《前奏曲とフーガ変ホ長調》BWV552を大オーケストラのために編曲しているが、その2年後の1930年に友人の指揮者フリッツ・シュティードリーに宛てた手紙の中で、彼の一連のバッハ編曲の根拠を説明しているのは興味深い。その一部を紹介しておこう。「今日の音楽の把握法は、水平と同様に垂直の関係における＜動機的な＞進行を明らかにすることを要求します。つまり私たちは、自明の前提である対位法的構造のうちに存する効果への信頼だけでは満足せず、これらの対位法を動機的な連関として知覚することを欲するのです。ホモフォニーはわれわれに、これらの連関をひとつの上声部において追うことを教えました。メンデルスゾーン、ヴァーグナー、ブラームスの＜多声的ホモフォニー＞という中間段階は、より多くの声部を追うことをわれわれに教えました。今日、わたしたちの耳と理解力は、これらの基準をバッハに応用しないでは満足しないでしょう。協和音のみによって見事に進行する声部から生じる＜快い＞効果だけでは私たちはもはや満足しません。私たちが必要とするのは、見通しを得るための明瞭性なのです。これらはみな、フレージングなしには不可能です。しかしながらフレージングは、パトスの時代が行ったように、＜情動を強調するために＞用いてはなりません。そうではなく、フレージングは、1.重さの関係を線の中に正しく配分し、2.動機労作を明らかにしたりぼかしたりし、3.各声部が全声部とすべての響き（明瞭さ）にたいして、格互に強弱関係を顧慮すべきなのです」。もしここでいうフレージングという言葉を適宜アーティキュレーションという言葉に置き換え、しかも著者の名を伏せて掲載したら、アーノンクールが古楽の演奏について語っている言葉かと錯覚する読者も少なくあるまい。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　バッハの音楽の持つ意味論的ないしは象徴的な力に注目した作曲家にアルバン・ベルクがいる。彼が最後に完成した作品である《ヴァイオリン協奏曲》において、バッハのコラールが重要な意味を持っていることは良く知られている。カンタータ第60番《おお永遠よ、汝恐ろしき言葉》BWV60の最終曲をなす死のコラール「いまや足れり」が、第2楽章後半のアダージョで独奏ヴァイオリンによって引用され、それに木管のアンサンブルが応答するあたりから、この協奏曲は鎮魂の調べを奏で始めるのだ。ベルクはこの作品を「あるひとりの天使の思い出のために」書いたのであった。その天使とは、小児麻痺の後遺症で19歳の花の命を散らしたマノン・グロビウスのことである。ベルクはまたこの作品において、マノンの命日に由来する数＜22＞や、ベルク自身の運命数＜23＞、さらには、最後の恋人ハンナ・フックスを示す数＜10＞などを、作曲の際の小節数の割り出しに使っている。こうした数の象徴的用法も、バッハから学んだものに他ならない。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　西洋音楽史を俯瞰すると、バッハという作曲家は中世以来のポリフォニー音楽の集大成を行った人物と考えてよい。ところが1750年に世を去ると、彼の音楽は一般には忘れられた。モーツァルトやベートーヴェンもバッハを高く評価していたが、1829年にメンデルスゾーンが《マタイ受難曲》を復活上演したあたりから、バッハはロマン派の音楽家たちの＜導きの星＞となる。古い音楽伝統を学ぼうとした彼らの目には、かつてその集大成を行ったバッハが、まさにその伝統の具現者と映ったのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　20世紀、それも第1次世界大戦を経た後で、ストラヴィンスキーやヒンデミットのような新古典主義者と、彼らに異議を唱えたシェーンベルクに代表される新ウィーン楽派の双方が、それぞれの意味においてバッハに理想を求めたのも興味深い事実だが、その根底にはやはり19世紀以来のバッハ崇拝の伝統があったことは否めない。つねに新しい芸術を求めてやまないヨーロッパの芸術が、しかもなお意識せざるを得ない伝統の存在。20世紀の作曲家にとっても、バッハこそはまさにその伝統の結晶にほかならないのである。</p>



<p class="has-very-light-gray-background-color has-background wp-block-paragraph"><strong>樋口隆一</strong>（1946〜）<br>専門領域はバッハとシェーンベルクを中心とする西洋音楽史。音楽学研究、指揮、音楽評論と、幅広く活躍している。『新バッハ全集』I/34の校訂でテュービンゲン大学哲学博士。明治学院大学名誉教授。国際音楽学会前副会長。日本アルバンベルク協会常任理事。DAAD友の会会長。第3回京都音楽賞評論研究部門賞、第2回辻荘一賞受賞。『バッハ』（新潮文庫）、『バッハ・カンタータ研究』（音楽之友社）など著書多数。2002年3月オーストリア学術芸術功労十字章が授与された。当音楽祭には第13回「バロックからクラシックへ？」、第40回「バッハが生きた時代」等、長きに渡り寄稿している。ウィーン楽友協会のオットー・ビーバ博士との親交も深い。</p>



<div style="height:100px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/essay-2/"><img decoding="async" width="100" height="50" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/4c3a107ab8e98f3e66d5675184960f6e.gif" alt="Essayへ戻る" class="wp-image-13619"/></a></figure></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/"><img loading="lazy" decoding="async" width="100" height="100" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/fe979e14110c992e9c02c00035a265d6.gif" alt="Eine Pause 2020へ戻る" class="wp-image-10540"/></a></figure></div>The post <a href="https://kusa2.jp/2020/09/21/10-1-2/">【くさつ エッセイ集】二十世紀の作曲家からみたバッハ</a> first appeared on <a href="https://kusa2.jp">草津夏期国際音楽アカデミー＆フェスティヴァル</a>.]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>【くさつ エッセイ集】古典と現代―伝統の継承と超克</title>
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		<dc:creator><![CDATA[academy-office]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 14 Sep 2020 01:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[くさつエッセイ集]]></category>
		<category><![CDATA[Eine Pause 2020]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>文・佐野光司 第20回プログラムより（1999年発行） 　今日の音楽生活のほとんどは18、19世紀の音楽で占められている。今日の演奏家の演奏する音楽も、私達、聴衆が享受する音楽も、そのほとんど―人によっては全て―が18、 [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">文・佐野光司</p>



<p class="wp-block-paragraph">第20回プログラムより（1999年発行）</p>



<p class="wp-block-paragraph">　今日の音楽生活のほとんどは18、19世紀の音楽で占められている。今日の演奏家の演奏する音楽も、私達、聴衆が享受する音楽も、そのほとんど―人によっては全て―が18、19世紀の音楽だろう。もっと具体的に言えばベートーヴェンを中心とした前後約100年、つまりヴィヴァルディ、バッハの後期バロック時代の音楽から、後期ロマン派の音楽か、せいぜいドビュッシー、ラヴェルらの印象主義の音楽までであろう。この印象主義の音楽スタイルが、今日一般に行き渡っている音楽の下限であり、境界のように思える。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　もっともこう言い切ってしまうと、居心地の悪い音楽家達がいるのも確かだ。今日の作曲家である。今日の音楽史を営々と築いている彼等の存在を忘れる訳にはいかないだろう。彼等は18、19世紀の音楽中心の音楽生活の中で、創作の上でこれとどう対峙してきたのだろうか。ここで書く内容はここにある。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　どんな文化も、その文化の持つ伝統と深く結びついている。20世紀の音楽も、その基本を18、19世紀の音楽に負っていることは云うまでもない。毎度「18、19世紀の音楽」と書くのも大変なので、その音楽をここでは「古典」としておこう。今世紀の作曲家にとって、規範とすべき「古典」とはまさしくこの時代の音楽であり、後期バロックより古い音楽を規範としている作曲家はほとんどいない。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ところで20世紀の作曲家でも、第2次大戦前と大戦後とでは、古典に対する態度が大きく異なっている。今世紀の前半の作曲家達の音楽は、古典の伝統を超克しようと試みながら、基本的には古典の発展・継承であったと言えるだろう。見かけ上では、ドビュッシーもシェーンベルクも自分の直前の音楽とは決定的に異なった音楽を作った。しかし彼等の脳裏には、常にヴァーグナーがあり、ベートーヴェンがあった。ドビュッシーがベートーヴェンについて「《田園交響曲》を聴くくらいなら、朝日の昇るのを見ていた方がずっとためになる」と批判したり、「ヴァーグナーは日の出と勘違いされた美しい落日であった」「ヴァーグナーの後につくというのでなく、ヴァーグナー以後を模索しなければならない」と述べた時、彼はベートーヴェンやヴァーグナーのドイツ・ロマン主義の呪縛から脱却出来たと確信したのではないのか。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　確かにドビュッシーの音楽は、ドイツ・ロマン派に対して「フランス国民楽派」とも言いうる音楽を創った。だが、その根底はヴァーグナーによって徹底的に用いられた属7系の和音に、異なった意味を与えたものだ。シェーンベルクがドビュッシーの方法について「彼の和声法は、ヴァーグナーが指し示した道をさらに突き進めたものである」と評したことは、半分は正しい。ただしドビュッシーの真の新しさは、音楽的時間にあると言うべきだろう。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　シェーンベルクはドイツ=オーストリーの文化圏にいたため、もっと深くその伝統に根ざしている。彼は『民族の音楽』（1931）という論文の中で、自分の音楽のオリジンについて、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ヴァーグナー、ブラームスらの名を挙げ、各々の作曲家からどのようなことを学んだかを具体的に記している。たとえばバッハを例にとると、「1）対位法的思考。つまり伴奏づけうる音形を作る技法。2）一つの動機から全てを創りだし、音形同士を関連づける技法。……」等といった具合に、各々の作曲家について3項目から5項目ぐらいその影響を列挙している。これはシェーンベルクが12音技法の完成後、10年ほど経ってから書いたものだが、なお、自らの音楽にある古典からの影響を、むしろ自信と誇りをもって語っている。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　シェーンベルクが破壊した調性とは、主音を中心とした音の階級制のシステムであった。ショースキーによれば、調性とは、ルイ王朝下におけるバロック的身分制度に属したもので、このシステムは階級的文化の下での人間生活を現しており、これに対して12音技法は、この階級制度を破壊し、平等主義的な響きの世界を作ったという。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　この考えは実は筆者も学生時代に友人達と討論したことのある考えだ。調性の確立は18世紀初頭であり、12音技法の考案は第1次大戦後なので、歴史的社会的情況を考えるとうまく当てはまる。ただその並行関係をそのまま結びつけるのはやや安易な観があるので、誰もが思いながら文章にしなかった、といったところだ。さすがにヨーロッパ人は思ったことは自信をもって書く。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ところでシェーンベルクは、12音技法によって新たな響きを獲得したが、その響きの新しさにも拘わらず、彼の音楽構成法は先に引用したように、基本的には古典の延長線上にあった。だがそれは一人シェーンベルクに限らず、ベルク、ヒンデミット、バルトーク等、両大戦間のほとんどの作曲家に当てはまる。K.H.ヴェルナーが「1950年頃までの作法は、基本的には古典・ロマン派の原理と同じである」と言ったのは正しい。彼等の音楽は、音響的な新しさと、形式的な古典性を特徴としている。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　大きな変化は第2次大戦後に起こる。点描音楽と不確定性の音楽である。点描音楽はメシアンが《音価と強度のモード》（49）で始め、弟子のブーレーズが《ストルクチュールI》（52）で継いだ。ここでは音楽を構成する上でこれまで不可欠だったモティーフと認識しうるものが全て破壊された。シュトックハウゼンは《音価と強度のモード》を聴いた時「あたかも天空の星たちをみるかのような幻想的な音楽」と評している。そこでは個々の音は宇宙空間にある星のごとく、モティーフ的な関連なく散らばっていた。ベートーヴェンもヴァーグナーも存在しなかった。<br>　ジョン・ケージを震源とする不確定性の音楽は、もっと大きな衝撃を与えた。点描音楽がまだ残していた12音への依存は、不確定性の音楽では否定され、従来の「音楽作品を構築する」という「創作」の概念そのものが否定された。それはアリストテレスが『詩学』の第7章で述べた起承転結を基本とする劇作法―ヨーロッパの芸術は、全てその延長線上にあったのだが―に対する決定的な否定であった。おそらく1950年代から60年代が、最も古典の伝統を強く否定した時代であろう。この時代はそうすることによって、自己の内に澱のように付着している古典の残滓を洗い落とそうとした。それが新しい音楽を生み出すエネルギーだったと言えなくもない。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　しかし同時に、不確定性と古典的な「詩学・修辞学」とを結びつけた音楽が、新たな響き（トーン・クラスター）の装いをもって現れる。ベンデレツキの《広島の犠牲への哀歌》（61）、武満徹の《テクスチュアズ》（64）等にそれを見ることが出来よう。ここにはモティーフを中心とした伝統的な形式は存在しないが、一つのクライマックスに向かって進む、アリストテレス的な詩学が内在している。そしてさらにベリオの《シンフォニア》（67）を嚆矢とする古典音楽の引用が、現代と古典との関係にあらたなページを開いた。シュニトケが《ピアノ五重奏曲》（75）で始めたポリスタイリズム（多様式主義）は、ベリオの引用音楽の発展であるだけでなく、今日の音楽の基底を成していると言っても過言ではない。彼は自己の《合奏協奏曲》（78）について次のように語っている。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　「この曲は3つの音楽の領域からなっています。その第1はバロック音楽的特徴と形式の見られる領域であり、第2は調性から開放された半音階と微小音程の領域で、最後の第3は陳腐な性格の卑俗な商業実用音楽の領域です。」シュニトケはこの異なった様式の対比を、古典が持っていた調性の対比に替わるものとして考えた。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　引用音楽やポリスタイリズムは、古典を歴史的視座の中で捉えた。そこでは古典を超克すべきものとして、と云うよりはむしろ音楽的素材として対象化したと言えるだろう。ここが今世紀の前半と大きく異なる点である。今日の創作において、古典はドビュッシーやシェーンベルクのように超克すべき対象として内化しているのではない。「今」は、20世紀も含めて過去300年の音楽が音響的に対象化され、古典は「音楽の詩学」として音楽構成の在り方に内在していると云うべきだろう。</p>



<p class="has-very-light-gray-background-color has-background wp-block-paragraph"><strong>佐野光司</strong>（1937～）<br>日本の音楽学者、現代音楽研究の第一人者。スクリャービン研究で名高い音楽学者。桐朋学園大学名誉教授。この他、第21回の当音楽祭プログラム冊子に「「描かれない音への眼差し」も寄稿。</p>



<div style="height:100px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/essay-2/"><img loading="lazy" decoding="async" width="100" height="50" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/4c3a107ab8e98f3e66d5675184960f6e.gif" alt="Essayへ戻る" class="wp-image-13619"/></a></figure></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/"><img loading="lazy" decoding="async" width="100" height="100" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/fe979e14110c992e9c02c00035a265d6.gif" alt="Eine Pause 2020へ戻る" class="wp-image-10540"/></a></figure></div>The post <a href="https://kusa2.jp/2020/09/14/9-1-3/">【くさつ エッセイ集】古典と現代―伝統の継承と超克</a> first appeared on <a href="https://kusa2.jp">草津夏期国際音楽アカデミー＆フェスティヴァル</a>.]]></content:encoded>
					
		
		
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		<title>【くさつ エッセイ集】リヒャルト・シュトラウスの生涯と音楽</title>
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		<dc:creator><![CDATA[academy-office]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 07 Sep 2020 01:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[くさつエッセイ集]]></category>
		<category><![CDATA[Eine Pause 2020]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>文・岡田暁生 第35回プログラムより（2014年発行） 　リヒャルト・シュトラウスについての一般的なイメージといえば、「派手な交響詩や楽劇を書いた後期ロマン派の作曲家」といったところだろう。この後にカッコつきで「ただしマ [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">文・岡田暁生</p>



<p class="wp-block-paragraph">第35回プログラムより（2014年発行）</p>



<p class="wp-block-paragraph">　リヒャルト・シュトラウスについての一般的なイメージといえば、「派手な交響詩や楽劇を書いた後期ロマン派の作曲家」といったところだろう。この後にカッコつきで「ただしマーラーやドビュッシーと比べれば外面的でいささか格落ちだが……」といった保留がつく場合も多かろう。私に言わせれば、こうした俗流シュトラウス像は、三重の意味で間違っている。第一に、シュトラウスは生来極めて室内楽的な発想をする作曲家だったということ（=外面性だけで彼の音楽が割り切れるわけではない）。第二に、彼のメンタリティーにはどこか非ロマン派的なところが、つまり古典的なところがあったということ（=単純に彼を後期ロマン派にカテゴライズしていいわけではない）。そして第三に、シュトラウスはマーラーに比べて格落ちどころか、20世紀音楽の父と呼んでも過言ではない音楽史の巨人であったということ（=例えばマーラーと比べてあまりに音楽史上の役割が過小評価されている）。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　シュトラウスにいかにも世間の誤解を招きがちな言動が多かったのは確かである。「偉大な芸術家」のイメージにつきものの、世の無理解だの、苦悩だの、悲劇など、深い思索だのに、少なくとも一見したところ、彼の人生はまったく無関係であった。オペラ劇場の名ホルン奏者を父に、ビール会社の娘を母にもっていた彼は、ミュンヒェンの「いいところのお坊ちゃん」であり、早くから申し分ない世間からの認知を受け、家庭にも恵まれ、ナチス時代のことはあったものの、総じて幸福な長命を享受した。そこに加えてあの管弦楽の効果上手ぶりである。リヒャルト・シュトラウスは、隙あらば「内容のない外面的な効果」をあげつらいたがる世の音楽通の、格好の非難の的であり続けてきた。こうした世間のステレオタイプなイメージを上書きするような言動が、シュトラウス自身に多かったことも否めない。いわく「私は二流の中では一流の作曲家だ」とか、「観客が誰であれ金さえ払ってくれればいい」だとか、「ワーグナーの偉大さを乗り越える代わりに回避することで、私は何とかやりくりしてきた」といった、いわば「へたれた」発言である。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　しかしながら、シュトラウス音楽を正しく理解するために何より必要なことは、シンプルに作曲することにかけて、彼は比類のない天才だったという点を理解することである。絵画でいえば素描と着色の関係も同じだが、作曲にも曲の骨格をしっかり作る段階と、それに色を塗るそれの、2つのプロセスがある。そして絵画と同じく音楽においても、デッサンの構図がきちんと決まらないと、どれだけそこに色を塗りたくろうが、効果は空回りするばかりだ。世にオーケストレーションは派手だが、効果倒れで終わっている音楽など、いくらでもある。そういうものとシュトラウスは厳格に区別しなければならない。つまり彼はきちんと極めて正確かつ流暢にデッサンが出来る人であった。これはスケッチ帳を見れば一目瞭然である。『ツァラトゥストラ』も『サロメ』も『ばらの騎士』も、スケッチの段階では非常に几帳面に、およそあの怒溝のような響きは想像できないような、端正な四声体で構想されているのだ。曲の基本構図を最小限の音数で描いていく。そのうえでの、いわば客サービスのための余芸としての、あのオーケストレーションの効果なのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　シュトラウスの音楽は、「合奏する歓び」という点でもまた、室内楽的である。幼い頃から彼は、しょっちゅう父フランツの合奏の相手をさせられ、徒弟修業のような形でもって伴奏の極意を教わった。また休日になると父の友人が次々に自宅を訪れ、そんなときはみんなで弦楽四重奏をやったりした（父フランツはヴァイオリンもうまく、もちろんリヒャルトもヴァイオリンを弾いた）。長じて後の彼は、名ソプラノだった妻パウリーネと、しばしばリートのタべを開いた。こうした仲間内で丁々発止と合奏する感覚は、シュトラウスの大オーケストラ曲の中にも脈々と息づいている。私の知る限りリヒャルト・シュトラウスは、オケマンたちが最も嬉々として演奏したがる作曲家であるが（たとえばブルックナーなどが、楽器が響かないとか、合わせにくいといった理由で嫌われるのと、これは対照的である）、それは大管弦楽になっても彼の音楽には常に室内楽的な愉悦があるからだと言っても、あながち的外れではあるまい。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　シュトラウスに室内楽的なところがあるということは、当然ながら彼の音楽の古典性と深く関わっている。父フランツはハイドンやモーツァルトの熱烈な崇拝者で、ベートーヴェンですら、第七交響曲のような作品は「ワーグナーの臭いがする」といって嫌っていた。若い頃のシュトラウスは、父から徹底的に古典派に基づく音楽教育を受けた。もちろん後の彼は大いにワーグナーに熱狂し、交響詩や楽劇を書くに至るわけだが、曖昧さや過剰な主観を嫌う古典性は、これらのワーグナー／リスト的なジャンルにおいても健在だ。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　古典性という点でシュトラウスは、意外なことにメンデルスゾーンととてもよく似ていた。初期のヴァイオリン・ソナタやチェロ・ソナタにおける、大胆な音程跳躍や胸ときめかす情緒と形式の端正さの見事なバランスは、その好例であろう。そして長じて後の『英雄の生涯』にしても、その冒頭主題がメンデルスゾーンの八重奏とそっくりなことに驚かされる。メンデルスゾーンのピアノ三重奏第2番の終楽章には、『ばらの騎士』第2幕とそっくりのパッセージが現れる。メンデルスゾーンもシュトラウスも、ロマンチックな時代の古典的な天才であった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　いたずらにゴテゴテさせず、シンプルかつ優美に曲の骨格を組み立てるシュトラウスの天賦の才能が遺憾なく発揮されているのが、初期の室内楽の類である。初期の彼のヒット作であった木管合奏のための「セレナード」や「組曲」など、古典派的な機知と簡潔と優美の点で、センスのかたまりのような作品である。大オーケストラによる交響詩や楽劇で成功する以前の、こうしたモーツァルト的な室内楽の方が、はるかにシュトラウスの天才がピュアな形で輝いていると、私は考えている。大オーケストラを使うようになってからの彼は、曲の構図=デッサンは相変わらず極めて流麗かつシンプルに書けているのに、いわば書けすぎてしまう自らの技量の故に、つけ加えずもがなの色彩の重ね塗りをしてしまう悪癖があった。才能がありすぎて、余計なことをしてしまうのだ。いずれにせよ、交響詩に進出する以前の古典派的なシュトラウスの輝きが、後の作品があまりにもプレゼンスが強すぎるせいで、何か習作のような扱いを受けていることは残念である。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　なおシュトラウスは、第二次大戦が始まって以後の晩年の作品群において、「シンプルに、流暢に、優雅に、楽々と書く」という彼の最良の資質を、再び取り戻した。例えばオーボエ協奏曲における古典的な均衡と自由なファンタジーの広がりは、ただ驚嘆するほかない。例えば第1楽章では冒頭主題が何と15回もオーボエによって繰り返される。そのうちただの繰り返しは1回もない。毎回少しずつ旋律に変化をつけ、和声を変え、色彩を変えている。すべては一筆書きのような簡潔さで楽々と展開され、そして何度繰り返されようとも、まったく人を飽きさせることがない。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　周知のようにシュトラウスは、第二次大戦の最中の1940年あたりから、再び驚くべき創作力の高まりを見せるようになる。その結実が『カプリッチョ』、「メタモルフォーゼン」、オーボエ協奏曲、そして「最後の4つの歌」といった「傑作の森」である。あまたの大作曲家の中でも、晩年になって再びこれほどの数の記念碑的な作品を残し得た人は、そうはいない。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　サイモン・ラトルは20世紀音楽を辿るドキュメンタリー番組『リーヴィング・ホーム』の第二次大戦後の巻を、確かシュトラウスの「最後の4つの歌」で始めていた。多くの人が時代と完全にずれたアナクロニズムと考えがちなシュトラウスの晩年作を、第二次大戦後の音楽史の幕開けに使う。これは卓見だ。彼とともに1900年前後の音楽史を支えた人々のうち、1945年を超えてなお生きていて、しかもこれほどの大傑作を書いた人は、ただの一人もいない。これを偉大と言わずして何と言おう。しかも、多くの人が忘れているが、シュトラウスがいなければシェーンベルクの無調もなかったし、ハリウッドの映画音楽もなかったのは間違いない。これだけでもシュトラウスは文句なしに「大作曲家」の名に値すると、私は考えている。</p>



<p class="has-very-light-gray-background-color has-background wp-block-paragraph"><strong>岡田暁生</strong>（1960〜）<br>大阪大学文学部音楽学研究室助手を経て神戸大学助(准)教授、1996年「R・シュトラウス〈バラの騎士〉研究」で、大阪大学から博士（文学）。2001年『オペラの運命』でサントリー学芸賞受賞。その後、京都大学人文科学研究所助教授、07年准教授を経て現在は教授。09年『ピアニストになりたい！』で芸術選奨新人賞、『音楽の聴き方』で吉田秀和賞受賞。第30回草津夏期国際音楽アカデミー＆フェスティヴァルの鼎談「今日の演奏、むかしの演奏」にて講師を務める。</p>



<div style="height:100px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/essay-2/"><img loading="lazy" decoding="async" width="100" height="50" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/4c3a107ab8e98f3e66d5675184960f6e.gif" alt="Essayへ戻る" class="wp-image-13619"/></a></figure></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/"><img loading="lazy" decoding="async" width="100" height="100" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/fe979e14110c992e9c02c00035a265d6.gif" alt="Eine Pause 2020へ戻る" class="wp-image-10540"/></a></figure></div>The post <a href="https://kusa2.jp/2020/09/07/8-1-3/">【くさつ エッセイ集】リヒャルト・シュトラウスの生涯と音楽</a> first appeared on <a href="https://kusa2.jp">草津夏期国際音楽アカデミー＆フェスティヴァル</a>.]]></content:encoded>
					
		
		
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		<title>【くさつ エッセイ集】華やかさの陰に</title>
		<link>https://kusa2.jp/2020/08/31/7-1/?utm_source=rss&#038;utm_medium=rss&#038;utm_campaign=7-1</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[academy-office]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 31 Aug 2020 01:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[くさつエッセイ集]]></category>
		<category><![CDATA[Eine Pause 2020]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>文・福田 弥 第32回プログラムより（2011年発行） 　フランツ・リスト（1811~86）は、19世紀ロマン主義のヨーロッパを駆け抜け、ヴィルトゥオーゾ・ピアニストとして空前の成功を収めた音楽家です。しかしその一方で、 [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">文・福田 弥</p>



<p class="wp-block-paragraph">第32回プログラムより（2011年発行）</p>



<p class="wp-block-paragraph">　フランツ・リスト（1811~86）は、19世紀ロマン主義のヨーロッパを駆け抜け、ヴィルトゥオーゾ・ピアニストとして空前の成功を収めた音楽家です。しかしその一方で、寒村に平民として生まれたこと、一般の高等教育を受けられなかったこと、生涯にわたって永住の地をもたなかったことなど、少なからぬコンプレックスを抱えていたと思われます。彼の生涯を概観すれば、ヨーロッパのさまざまな地域や人物と繋がりがあることがお判りになるでしょう。ヴィルトゥオーゾとして、文字通り、全ヨーロッパに足跡を残し、パリ、ヴァイマル、ローマ、ブダペストなど複数の国に居を構えました。これは別の言い方をすれば、「根無し草」のような人生とも言えるかもしれません。あくまで推測ですが、異邦人であり続けた彼は、自らのアイデンティティを確かめる必要があったのではないでしょうか。だからこそ、彼はことあるごとに自らが「ハンガリー人」であることを強調し、「ハンガリー狂詩曲」を演奏したのでしょう。ただしここでは、ハンガリー以外のリストについて述べてみます。</p>



<p class="wp-block-paragraph">パリ<br>　19世紀、パリを制すること、それはヨーロッパを制することでした。ロッシーニ、ヴェルディでさえパリ進出を図ったのです。その意味では、シューマンやワーグナーは、生前はあくまでもドイツの作曲家に過ぎませんでした。そのパリで、音楽の中心といえば、宮廷やオペラ座と並んで、サロンを挙げなくてはなりません。音楽家にとって重要なことは、貴族のサロンで名声を掴むことであり、そのためにはまずは紹介状が必要で、リストの場合はウィーンでもらったメッテルニヒからの紹介状が功を奏したことでしょう。サロンは、なんの補償もなかった音楽家たちにとって、人的交流、マネージメント、食事や宿泊場所の提供など、福利厚生、社会保険としての重要な役割を担っていました。反面、バルザックの小説や「椿姫」などにも描かれているように、快楽主義に浮かれた、移り気なこの街で確固たる人気を掴むためには、さまざまなかけひきも必要でした。たとえばショパンが、ポーランド系移民の貴族たちのコミュニティを足場にしていたことはよく知られています。<br></p>



<p class="wp-block-paragraph">　9歳からピアニストとしてもてはやされ、パリへやってきたリストの精神的土壌はこの地で培われていきました（ちなみにリストの第一言語はフランス語となります）。しかし幼少期のリストにとって、パリでの生活が順調に始まったわけではありませんでした。パリ音楽院からの入学拒否、1827年の父の死（15歳にして母親を養う生活）、そして翌年の貴族令嬢との失恋は、リストの精神に大きな打撃を与えたと考えられます。とくに後者は、階級による差別という社会の現実を強く認識させたことでしょう。<br></p>



<p class="wp-block-paragraph">　1830年の七月革命以後、ラムネー神父の自由主義カトリシズムやサン=シモニズムの思想からも影響を受けたことで、天才は社会に対して大きな役割を担うべきであるという思想を身につけていったと考えられます。そんななか、パガニーニ、メンデルスゾーン、ショパン、ベルリオーズたちとの接触を通じて、さまざまな刺激を受けました。とくにショパンとは1832年から35年にかけてたびたび共演しています。一方で、オペラ座やイタリア座では、ベッリーニやマイアベーアの華やかなオペラが上演されていました。今にして思えば、なんと贅沢な音楽シーンだったことでしょう。<br></p>



<p class="wp-block-paragraph">　パリを代表するサロニエール（サロンの経営者）であったマリー・ダグー伯爵夫人との出会いもまた、大きな経験でした。彼女は一時期、ジョルジュ・サンドと共同してサロンを開いていました。この時代のパリでは、先前にも述べたように、喜びや快楽を第一義とする享楽的な風潮があり、結婚後の恋愛はわりと普通であったようです。しかし、遺産相続の問題が生じるために、通常は子供を作りませんでした。それに対して、リストとマリーがとった行動は例外的と言えるでしょう。3人もの子供（そのうちのひとりが、のちにワーグナー夫人となるコジマ）に恵まれたことは、ふたりの愛情の深さを物語っています。しかし、3人の父親はリストですが、ふたりの母親の名は偽名で、ひとりは不明となっています（「母親不明」とはありえない話です）。<br></p>



<p class="wp-block-paragraph">　しかし、1844年にマリーと別れてからの後半生、リストとパリの関係は疎遠になっていきます。とりわけ1866年3月15日、パリで行われた「グランのミサ・ソレムニス」の演奏は、リストの心に大きな傷を残しました。このミサ曲には少なからぬ自信をもっていただけに、旧友のベルリオーズやドルティグから酷評されたことで、リストは深く傷つき、ますますパリから遠ざかることになってしまったようです。15年以上経った1882年2月27日にマイエンドルフ夫人に宛てた書簡から引用しましょう。「ベルリオーズが『グランのミサ』を攻撃し、「芸術の否定」とまで非難した時、私のふたりの旧友、ベルリオーズとドルティグは、……私との関係を否定しました。……私には才能がなく、ピアニストとしての成功にとどまっていればよいのだから、作曲にかかわるなどまったくもって間違いである、と結論付けたのです」。</p>



<p class="wp-block-paragraph">ヴィルトゥオーゾ時代<br>　1839年から47年にかけてのツアーは、訪れた地域と、その人気や演奏会の数、レパートリーなどの点で、まさに空前の規模であり、それによってリストはヨーロッパを席巻していきました。鉄道が未発達であったにもかかわらず、北はサンクトペテルブルク、グラスゴー、南はジブラルタル、東はイスタンブール、西はリスボンと、文字通り全ヨーロッパの主要都市に足跡を残しています。こうした華やかな面ばかりが強調されますが、10年近くにわたって、落ち着く暇も場所もなく、演奏会のために移動し続ける生活を送ったリストが、どれほど精神的に充足していたか、それは判りません。というのも、当時の公開演奏会で演奏されていた曲と言えば、オペラや民謡のパラフレーズ、技巧的作品などが中心でした。ベートーヴェンのソナタなどは、リストは折に触れて弾いていましたが、当時、弾いていた人はほとんどいませんでした。イタリアではエチュード（練習曲）をリストが弾いたとき、「勉強しに来たんじゃない」という野次が飛んだとリストは書いています。貴族のようにサーベルを持って舞台に上がり、失笑されたこともありました。ルイ14世をまねて「朕は演奏会なり」と言ってみせたこともありました。一方で、「大衆の喝采が私に何をしてくれるというのか。空虚で他愛のない祝福に自問している」と憂いています。聴衆と音楽家の乖離。これは、当時の（そして現代の）多くの音楽家が抱えている問題です。</p>



<p class="wp-block-paragraph">ヴァイマル<br>　1848年から宮廷楽長としてヴァイマルに居を構えます。ヴァイマルは小さな街ですが、文化都市として全ヨーロッパに知られた街です。イルム川を渡った高台にあるアルテンブルク荘に、カロリーヌと住んでいました。若き日に、反体制的ともいえる思想を持っていたリストが、なぜに宮廷楽長という体制に従属した職に就いたのでしょうか。宮廷側としては、ゲーテ亡きあと、もう一度、文化的に復興させたいという思惑があり、オーケストレーションの修練を積んだことのないリストにとっては、自由に使える管弦楽団があることは大きな魅力でした。つまり、音楽家としての実利を優先したと考えられます。<br></p>



<p class="wp-block-paragraph">　この地で、交響詩などの管弦楽作品に取り組むと同時に、教育活動にも力を注ぎました。その結果、ヴァイマルは革新的な新ドイツ派の中心地となり、多くの若い音楽家がリストの取り巻きとなりました。以降、リストは無料で多くの弟子を育てましたが、それは、若き日に身につけた思想、すなわち才能ある者は社会に貢献すべきであるという考えを実践していた結果であると思われます。宮廷楽長を辞めてローマに住んで8年、再びリストは1869年から1年の数ヶ月をヴァイマルで過ごすようになります。その際、宮廷から与えられた家Hofgärtnereiが、現在のリスト博物館です（今年、リニューアル・オープンしました）。同じ通りには、晩年のリストを撮影した写真家ルイス・ヘルトの店舗があります。</p>



<p class="wp-block-paragraph">ローマ<br>　1837年夏から約2年間、リストとマリーはイタリアに滞在し、各地でさまざまな文学や美術、民謡に接します。ヴィルトゥオーゾ時代にも、イタリア各都市を訪れています。とくに1839年3月、ローマでは史上初となるピアノ・リサイタルを敢行しました。当時の演奏会は、多くの音楽家がさまざまなジャンルを演奏することが当たり前でしたから、一人で演奏会を行うなど考えられない冒険であったはずです（初の公開リサイタルは翌40年6月にロンドンで行われました）。<br></p>



<p class="wp-block-paragraph">　1861年以後、リストはローマに生活の拠点を置きます。カロリーヌ・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人との婚礼はキャンセルとなりますが、リストはそれほど落胆していたようにはみえません。むしろ、ヴァイマルの宮廷楽長としての煩わしさから解放されたことを喜び、精力的に作曲活動にいそしんでいます。それまでのリストの集大成とも言うべきオラトリオ「キリスト」を書いていた1865年には、聖職者の資格を得ています。そのために、彼は昵懇であった枢機卿のもとで修練を積み、一時期、ヴァチカンにも住んでいました。<br></p>



<p class="wp-block-paragraph">　1869年からは、1年をヴァイマル、ブダペスト、ローマで住み分けるようになります。とくに亡くなるまでの十数年は、噴水と糸杉で有名なローマ近郊のエステ荘で生活をしていました。「エステ荘の噴水」は、晩年の獄作のなかでもよく知られた作品です。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　彼の多彩な活動や思想は、現在でも充分には知られているとは言えません。華麗なヴィルトゥオージティーへの反動だけでなく、リスト自身の矛盾した性格も、誤解を招く一因となっているのかもしれません。たとえば、人間の救済を主張する聖職者でありながら、しばしば女性問題を引き起こしました。また、自由主義の傾向を示しながらも貴族趣味を表に出すこともありました。失言や大仰な言動も少なからずあり、ハンガリーを祖国と主張しつつも、必ずしもハンガリー人から手放しで受け入れられていたわけではありません。国際的活動が、日和見主義や根無し草のような印象を与えたことも否めないでしょう。こうした矛盾して見える言動には、彼なりのコンプレックスが背景としてあったためとも考えられるのです。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　生誕200年を契機に、彼の実像に光が当てられ、ピアノ曲以外にもより多くの作品が演奏されることを願ってやみません。</p>



<p class="has-very-light-gray-background-color has-background wp-block-paragraph"><strong>福田 弥</strong>（1966年～）<br>慶応義塾大学文学研究科後期博士課程満期終了。音楽学（西洋音楽史学）専攻、フランツ・リスト研究。1995〜97年にハンガリー政府給費生（特別研究員）としてブダペシュトのリスト音楽院に留学。武蔵野音楽大学専任講師を経て、現在、慶応義塾大学文学部准教授。おもな著作は『「リスト」作曲家 人と作品シリーズ』（音楽之友社2005年）。</p>



<div style="height:100px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/essay-2/"><img loading="lazy" decoding="async" width="100" height="50" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/4c3a107ab8e98f3e66d5675184960f6e.gif" alt="" class="wp-image-13619"/></a></figure></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/"><img loading="lazy" decoding="async" width="100" height="100" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/fe979e14110c992e9c02c00035a265d6.gif" alt="" class="wp-image-10540"/></a></figure></div>The post <a href="https://kusa2.jp/2020/08/31/7-1/">【くさつ エッセイ集】華やかさの陰に</a> first appeared on <a href="https://kusa2.jp">草津夏期国際音楽アカデミー＆フェスティヴァル</a>.]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
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		<title>【くさつ エッセイ集】シューベルトとウィーン―あるいは、旅びとのふるさと？―</title>
		<link>https://kusa2.jp/2020/08/24/6-1-3/?utm_source=rss&#038;utm_medium=rss&#038;utm_campaign=6-1-3</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[academy-office]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 24 Aug 2020 01:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[くさつエッセイ集]]></category>
		<category><![CDATA[Eine Pause 2020]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://kusa2.jp/?p=14341</guid>

					<description><![CDATA[<p>文・前田昭雄 第15回プログラムより（1994年発行） 　シューベルトとウィーン。この題のもとに、ひとは何度文章を書いてきたことだろう。シューベルトといえば、その生まれと終焉の地、楽都ウィーンを度外視することは出来ないし [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">文・前田昭雄</p>



<p class="wp-block-paragraph">第15回プログラムより（1994年発行）</p>



<p class="wp-block-paragraph">　シューベルトとウィーン。この題のもとに、ひとは何度文章を書いてきたことだろう。シューベルトといえば、その生まれと終焉の地、楽都ウィーンを度外視することは出来ないし、反対にウィーンといえば、ゆかりの大作曲家あまたあるなかで、シューベルトの名を逸することは出来ない。シューベルトとウィーンの関係は、だから二重に密接だ。シューベルトの音楽芸術はウィーンならではの味を持ち、反面でウィーン音楽は―（「そんなものあるんですか？」と半畳を入れるあなたとは、この原稿を書き終わった後で、ホイリゲにでも行きましょう）―ええと、ともかく「ウィーン音楽」のイメージは、シューベルトとヨハン・シュトラウスに支えられているのだから。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　しかしシュトラウスとウィーンというときは、すべてが明るく、朗らかに幸せだ。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　それなのにシューベルトとウィーンというときは、そうはゆかない。翳るのは何か？</p>



<p class="wp-block-paragraph">　たしかにシューベルトというひとの人生は、ウィーンでも決して幸せではなかった。ウィーンという都は、楽都だというのに、これほどの天才に然るべき場所を結局与えはしなかったのだから。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　音楽的伝統をもって知られるウィーンの宮廷は、シューベルトを楽長にしなかった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　音楽的教養をもって知られるウィーンの貴族たちは、シューベルトを援助したろうか。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ウィーンのなにがシューベルトを育てたのか。グルック・ハイドン・モーツァルト以来の音楽伝統を第一に考えよう。またその背後には、バロック時代以来ウィーンに根を張っていた、イタリア音楽の伝統があった。シューベルトの少年時代の師がほかならぬサリエリだったということも、ウィーンならではのことだ。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　シューベルトの同時代にはベートーヴェンという存在があった。シューベルトの生まれた1797年にはベートーヴェンは27才で、ハ短調ピアノ・ソナタ「悲愴」作品13に着手、巨匠への道をすでにはっきりと踏み出していた。シューベルトのものごころのついた年を10才とするなら、1807年のベートーヴェンは第五交響曲を作曲中だったのだ。ベートーヴェンは1827年にウィーンで没したのだったから、シューベルトは翌年1828年に31才の若さで後を追ったことになる。ということは、シューベルトのウィーンとは音楽史上、ベートーヴェンのウィーンだったといってもよい。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　しかし待て、当時のウィーンはベートーヴェンのウィーンだったといえるだろうか？</p>



<p class="wp-block-paragraph">　音楽の実質からいえば、そういってもよいのだが、ウィーン音楽界の実情からは、そういえない面もあった。たとえばロッシーニ！その軽快なドラマティズムは、新たなイタリアニズムとしてウィーン楽壇を席巻する。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　シューベルトのウィーンを音楽から見て、ベートーヴェンとロッシーニのウィーンと言ってみることは、そう間違いでもない。尊敬はベートーヴェンに、その他の殆どすべてがロッシーニに集まったというような状況―。シューベルトには何が残っていたろうか。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　それはさておいても、シューベルト芸術の方向づけは、この二つの「磁極」から逃れられないかのようだ。ベートーヴェンの場合は、交響曲・弦楽四重奏・ピアノ・ソナタなど、「ウィーン本格芸術」とでもいいたい系列―シューベルトはそのすべてに、正面から取り組んで立派な成果を上げている。ハイドン・モーツァルト以来の、ウィーン楽派ともいいたい本格性だ。ウィーンならではの、晴朗にして流暢、影も深みもある本格音楽。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　他方サリエリ・ロッシーニの方向、イタリア風、オペラというジャンルの方向にも、終生意外な程の努力が注がれた。シューベルトの本領の「歌曲」にも、ヴォーカル・イタリアニズムは、かなり浸透している。これも、ウィーン特有の「二重の土壌」に由来する。サリエリ対モーツァルト、ロッシーニ対ベートーヴェンというのも、その表れだった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　シューベルトはしかし、土壌のままには育たない。第二のロッシーニや第二のベートーヴェンになるのには、その天才はあまりに独自だった。その音楽はあまりに純粋だった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ということは、劇場的な才覚も、思想的音響世界の構築も、シューベルトの真髄ではなかったということか。これらがシューベルトと全く無縁だったわけではない。ただその本質は、あまりに純粋に、「歌」にあったのだ。シューベルトは、器楽作品でも、その心を「歌」に託している点で、ロマン派の魂を率先して実現している。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ならばこの、「歌」とウィーンとの関係は？</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ウィーンのあの時代、歌は「文化的なら」劇場に、でなければ民衆の集いにあった。庶民文化は、ウィーンでは音楽的水準も高かったとはいえ、結局は酒場の娯楽音楽という面を脱却出来ない。そこでシューベルトの歌曲はウィーンでも、いうならば「劇場」と「酒場」の間に、小さな場所を持つに過ぎなかった。シューベルト歌曲を世に広めるに、オペラ歌手フォーグルの「余技」にまつところが大きかったのは、劇場から来ている。そしてシューベルトの友人たちが催した「シューベルティアーデ」の集いはといえば、結局は文化的・芸術的に優雅化された、ワインの席でもあったのだ。しかし、こういう場がこの早い時点で、これほど高い趣味のレヴェルで生まれたのは、やはりウィーンであった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　そこでシューベルトはワルツやレントラー、エコセーズを奏き、歌曲も披露した。そこで披露することが、場違いでない限りでは。「シルヴィアに」はいい「魔王」はすごい。友人ショーバーの詩による「楽に寄す」はシューベルティアーデの信仰告白といえるかも知れない。しかし「冬の旅」となると、作曲家はこういう集いの遙か彼方へと脱却してしまっていた。一同は凄惨さに打たれ、声なく沈黙したという。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　「冬の旅」と「白鳥の歌」―これら最後の歌曲集には、小乗のウィーンを越えた、大乗のウィーンがある。ウィーンと無縁であるとする意見は、当たらない。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　「美しき水車小屋の娘」なら、普通の意味でのウィーンともかなりピッタリだ。街的ではないが、一歩出ればウィーンの森という、そのウィーンのイメージに。メードリングからヒンターブリュールへ。ヘルドリッヒの水車のあたり、そこに立つ「菩提樹」がほんものでなくたって構わない。風景は充分、「Das Wandern ist des Müllers Lust」と歌いながら歩ける！思えばシューベルトは、こういう快活な旅人でも、あったろう。しかしその歌曲のなかには、Der Wanderer―旅人のモティーフがいかに多く、その表現はいかに深く孤独であることか。ウィーンという故郷にあって、シューベルトという芸術家は絶えず孤独な旅人であったのだ。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　「冬の旅」と「白島の歌」をここからみると、ウィーンのふところがひときわ深まるようだ。シューベルトはウィーンでその短いが充実した人生を送った。その「冬の旅」は、ウィーンでのみ、成立し得たのかもしれない。ウィーンという都会は、充実した孤独を可能にする。このまちは表面的な幸福も可能にするが、歴史を生き延びるのは、孤独の集中だけが突破する、あの実存の境位であるらしい。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　「白鳥の歌」を旅の歌と読むことは、普通ではないかもしれないが、上のコンテクストからは意味を持つ試みだ。旅人はどこへ行くのか。冬の旅は「辻󠄀音楽師」にめぐりあい、白鳥の歌は、「影法師」の絶唱に立ち尽くす。このような終わりは、劇場にも酒場にも、どんなまちにも場所を持たない。ウィーンをも超越する、この終わりを、ウィーンはウィーンらしく、非凡な趣味で吸収する。初版のさいに、「鳩の便り（詩・ザイドル）」を最終曲として収めたのは、シューベルト自身の処置ではなかったとしても、後世はこの「付録」に救いを見出してきた。シューベルトはあまりにも感動的で、所栓は表面的なわれわれには、その美しさが救いである。（―ウィーンにも同じことが言えようか？―）</p>



<p class="wp-block-paragraph">　シューベルトの一生は、ウィーンという不思議な楽都にあっての、非凡な「旅」ではなかったか。ウィーンを離れる旅は何度かはしたが、それぞれ束の間の「春の旅」だったといえるだろう。それに比べればウィーンの中を転々とする移動は、小著「シューベルト」（新潮文庫）の巻末にも表示したように、まこと著しいものがあった。「冬の旅」を作曲した時期の住居も特定できない。この境地にあった作曲家が、孤独であったことは理解できるとしても、「かれはどこにいたのか」という問いに答えられないということは！</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ウィーンでも彼は旅人であった。ふるさとにあって旅人であったひと―それはシューベルトの特性のみならず、ひと名付けて楽都というウィーンのプロフィールをも、ある方向から照らし出す一つの見方ではないだろうか。</p>



<p class="has-text-align-right wp-block-paragraph">（スイス・1994年7月）</p>



<p class="has-very-light-gray-background-color has-background wp-block-paragraph"><strong>前田昭雄</strong>（1935年～）<br>音楽学者、指揮者、ウィーン大学名誉教授。シューマン研究の第一人者。1958年東京大学大学院修士課程修了。61年よりウィーン大学哲学科で音楽学を専攻。これまでにチューリヒ大学講師、ベルン大学、バーゼル大学、ミュンヘン大学で教鞭を執り、1997年よりハイデルベルク大学教授。大阪芸術大学教授、国立音楽大学招聘教授、上野学園大学教授・学長を務める。当音楽祭にはシューベルト、シューマン像に迫るエッセイを第4，7，15，23，26回と多数執筆。ウィーン楽友協会のオットー・ビーバ博士との親交も深い。</p>



<div style="height:100px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/essay-2/"><img loading="lazy" decoding="async" width="100" height="50" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/4c3a107ab8e98f3e66d5675184960f6e.gif" alt="" class="wp-image-13619"/></a></figure></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/"><img loading="lazy" decoding="async" width="100" height="100" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/fe979e14110c992e9c02c00035a265d6.gif" alt="" class="wp-image-10540"/></a></figure></div>The post <a href="https://kusa2.jp/2020/08/24/6-1-3/">【くさつ エッセイ集】シューベルトとウィーン―あるいは、旅びとのふるさと？―</a> first appeared on <a href="https://kusa2.jp">草津夏期国際音楽アカデミー＆フェスティヴァル</a>.]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>【くさつ エッセイ集】ベートーヴェンの時代</title>
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		<dc:creator><![CDATA[academy-office]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 17 Aug 2020 01:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[くさつエッセイ集]]></category>
		<category><![CDATA[Eine Pause 2020]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>文・西原 稔 第19回プログラムより（1998年発行） 　ベートーヴェンの生まれた1770年は様々な意味でまさにヨーロッパ社会の変革期であった。ここではとくに音楽面での出来事を中心に論じながら、ベートーヴェンがどのような [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">文・西原 稔</p>



<p class="wp-block-paragraph">第19回プログラムより（1998年発行）</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ベートーヴェンの生まれた1770年は様々な意味でまさにヨーロッパ社会の変革期であった。ここではとくに音楽面での出来事を中心に論じながら、ベートーヴェンがどのような時代に生きたのかを取り上げてみることにしたい。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　1770年前後は、音楽活動を支える社会環境が大きく変貌しつつあった時代であった。啓蒙主義の浸透によって、これまでのバロック時代の精神構造が急変していった。すでに1730年代から始まっていた啓蒙主義の運動は、単に精神的な運動だけではなく、同時に経済構造の変革とも呼応していた。宮廷社会を軸とした社会から次第に都市を軸とした社会に変化するにつれて、やがて宮廷そのものも変貌を余儀なくされる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　とくにドイツ語圏では宮廷文化に占める音楽の比重は高かった。宮廷楽団の他にオペラ劇場と歌手を抱え、歳入の限られていた宮廷にあってはその財政的な負担は想像以上のものであった。すでに18世紀前半には財政的に逼迫して来ていたが、ドイツ語圏の宮廷では宮廷としてのステイタスの確立と財政の二重の課題に直面せざるを得なくなっていた。さらに国際政治状況の緊張は軍事費の増大をも余儀なくし、ますます宮廷経済は逼迫の度合いを強くしていく。ウィーンの宮廷を例にとると、1730年では11万フロリンを音楽のために費やしていたが、しかしこのハプスブルク家の宮廷は極端な財政逼迫と、その後頻発する継承戦争や領士を巡る戦争、そしてあのナポレオン戦争によってもはや音楽に資金を投入できる状況にはなかった。その結果としてマリア・テレジア、さらにヨーゼフ二世の代になると予算の削減のために宮廷劇場を国民劇場の名前でその運営を民間に委ねるほか、宮廷楽団の年金捻出のために、「貧民と孤児のための演奏会」など楽団活動のいわゆる民営化を推し進め、さらに他の諸都市に先駆けて民間の劇場の建設を推奨して、音楽活動を維持するための宮廷の負担を軽減していった。ハプスブルク家のウィーンはさらに、ナポレオン戦争によってさらに戦費の捻出を迫られていく。ナポレオンのウィーン侵攻は、厳密にいえばフランスとオーストリアの戦争ではなくて、ハプスブルク家との戦争であった。この侵攻に対抗するためにハブスブルク家は戦費の調達のために、ハンガリーを含む有力貴族に領地を提供する代わりに、そこから資金を調達したのである。その結果、ウィーンには奇妙な現象が起こる。つまり、先の貧民と孤児の演奏会はウィーンの公開演奏会の先駆けとなり、劇場の民営化は劇場都市ウィーンを現出せしめ、モーツァルトの「魔笛」の初演の舞台ともなった庶民のための劇場活動が促進された。さらにナポレオン戦争によって領地を得た有力貴族たちは、ハプスブルク家の窮乏を横目に豊かな財力を蓄え、その結果としてベートーヴェンやシューベルトらの芸術家のパトロンとして音楽文化の促進に貢献することになったのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　このような宮廷文化の変貌は各地で起こり、それぞれの事情で宮廷は音楽活動の主役の地位を降りなければならなくなっていった。たとえばシュトゥットガルトの宮廷では、カール・オイゲンは、ヴェルサイユ宮殿の栄華を夢見て、音楽に金に糸目を付けない支出を行った。当時、楽長クラスでも年収が500、600ターラー程度であったところに、1754年にニコロ・ヨメッリを3000ターラーで迎え、1767年には給料を倍の6000ターラーに増額している。マンハイムの宮廷も同様で、超一流の楽団を構えることを夢見たカール・テオドールも破格の給料で楽団員を募ったのである。モーツァルトもその高給ぶりに羨望を隠さず、ここでの就職を強く希望したことはよく知られている。彼は手紙にこのように書いている。「まったく話にならないひどい歌手やずぶの初心者でも600グルデン（フロリン）はもらえるのです。オーケストラの楽団もいい給料がもらえ、指揮者のカンビヒさんは1800、コンサート・マスターのフレンツルさんは1400、楽長のホルツバウアーさんは3000グルデンももらうのです。」ちなみにモーツァルトがザルツブルクの大司教のもとでもらっていた給料は、彼がそこを辞める時で450グルデンであった。こうした宮廷楽団への支出はそのほかの宮廷でも同様であった。しかし、その結果は目に見えていた。社会が大きく変貌しつつある時代にあって音楽にのみこれほどの資金をつぎ込むことはもはや許されるものではなかった。シュトゥットガルトではオイゲンは、彼の統治するヴュルテンブルク公国の予算の10分の1を音楽につぎ込んだ結果、国家財産は極端に逼迫して、オペラの解散と宮廷楽団員の解雇をせざるを得なくなる。イギリスの音楽史で、資料収集のためにこの地を訪れたチャールズ・バーニーは、「音楽はこの国にとっては有害である」と日記にしたためており、この国の半分は俳優とヴァイオリン弾きと兵隊で、残りの半分は乞食であると述べている。そのほか、ドレスデンの宮廷やハイドンの勤務したエステルハージの宮廷も、ディッタースドルフの務めたヨハニスベルクでも、楽団の解散が相次ぐ。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ベートーヴェンがボンで音楽活動を始めた時はまさに宮廷文化が最後の華を咲かせていた時期であった。ボンの宮廷でも、モーツァルトを楽長に迎えて、ヨーロッパ一の宮廷楽団にすべくさまざまな団員をスカウトして小都市にもかかわらず、きわめて質の高い楽団を維持していた。少年ベートーヴェンもその団員に名前をつらねていた。しかし、ほどなく財政的な理由で楽団を維持することは困難になる。1792年、ベートーヴェンがウィーンに出た時期のヨーロッパはフランス革命に象徴される大きな歴史の節目を迎えていたのである。その当時のウィーンは、上にも述べたようにハプスブルク家の宮廷は音楽的なパトロンの役割を担うことはできなかった。それに代わって、裕福な都市貴族がパトロンとして芸術を擁護していたのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ベートーヴェンの生きた1770年から1827年は歴史における大きな変換期を体験していた。1770年代は宮廷文化が最後の華を咲かせていた時代であると同時に、いくつかの出来事が同時に進行していた。バッハの再評価の運動が起こったのもこのころで、フォルケルがバッハの作品収集に乗り出した。また今日のピアノに連なる楽器の技術革新がさかんになるのもこのころからである。ベートーヴェンはこれらふたつの運動と密接な関連をもっていた。1801年より現在のペータース社よりバッハの鍵盤音楽集が刊行されるが、ベートーヴェンは真っ先に全巻予約を行っただけではなく、その後の創作でバッハから強い影響を受けるのである。ピアノについては、ベートーヴェンのとくにピアノ・ソナタの創作の歩みは、ピアノの改良の歴史であったと言ってもよいほどに、ピアノの技術革新にベートーヴェンは大いに貢献したのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　この時期のヨーロッパの諸都市はどうであったのであろうか。ロンドンは音楽の消費都市として大衆文化が開花していたが、重要なのはピアノの技術革新がこの都市を中心に始まったことであった。ブロードウッド社他によってウィーン・アクションとは異なるイギリス・アクションという機構が確立され、それはやがてベートーヴェンの創作にも変革をもたらした。そしてイギリス・アクションは19世紀後半になるとウィーン・アクションを圧倒していくのである。一方、パリではフランス革命の影響で、革命式典音楽のための巨大編成の合唱付きの吹奏楽がさかんになり、ゴセックやメユールといった作曲家が1000名以上の編成の作品を作曲した。さらにケルビーニやグレトリー、ボワエルデューらのフランス・オペラが新しい伝統を形成していた。ウィーンではフランスおよび革命を連想させるものは厳しく検視されていたはずであるが、実際にはこれまでのジングシュピールに飽きて、もっと劇構成のしっかりとしたオペラを求めていたウィーンでは、フランスのオペラの翻訳物が舞台の主役をしめていた。ベートーヴェンがブーイ原作のフランス語の戯曲にオペラを作曲したのもその影響であり、今日、彼の交響曲にもメユールなどのフランスの作曲家の影響が指摘されている。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ベートーヴェンがウィーンに移り住んだ1792年からウィーン会議が始まった1815年頃までが彼の創作活動の大きな時期になるが、これはほぼ、フランス革命からナポレオン戦争終結までの時期に当たっている。この時期のベートーヴェンの作品はほとんどすべて貴族に献呈されているが、これは芸術を擁護する貴族が金銭的な援助を行ったことと関連がある。この時期はロッシーニがウィーンでも人気を博したのみならず、イギリスで活躍した作曲家でピアノ製造業や出版業などを手掛ける実業家でもあったクレメンティが、事業の拡大をねらってベートーヴェンと面識をもち、イギリスでの彼の作品の出版交渉を行い、イギリス・アクションのメーカーのエラールやプロードウッドなどが、ベートーヴェンに楽器を献呈して自社の楽器の拡販を図るなど、とくに経済面で活況を呈していた。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　しかし1815年以降になると、ウィーンの経済は非常なインフレに見舞われ、すべてが一変するのである。ウィーンは経済不振によって、度重なる通貨切り下げを余儀なくされ、かつてパトロンとして名を連ねた貴族はたちまち零落していった。ベートーヴェンの年金の出資者のキンスキーやロプコヴィッツもまた同様であった。ベートーヴェンが作品出版の交渉相手をマインツのショットなどウィーン外の出版社に求めたのもそういう理由によっていた。ベートーヴェンが孤高の後期様式に入っていったのはこのような時代背景をもっていたのである。</p>



<p class="has-very-light-gray-background-color has-background wp-block-paragraph"><strong>西原 稔</strong>（1952年～）<br>東京藝術大学大学院博士課程満期修了。現在、桐朋学園大学音楽学部教授。18,19世紀を主対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻。「音楽家の社会史」（音楽之友社）、「ピアノの誕生」（講談社）、「ブラームス」（音楽の友社）などの著書のほかに、共著・共編では「ベートーヴェン事典」（東京書籍）などもある。作曲家+ピアノ作品演奏法などの講演会も多数行っている。</p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<div style="height:100px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/essay-2/"><img loading="lazy" decoding="async" width="100" height="50" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/4c3a107ab8e98f3e66d5675184960f6e.gif" alt="" class="wp-image-13619"/></a></figure></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/"><img loading="lazy" decoding="async" width="100" height="100" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/fe979e14110c992e9c02c00035a265d6.gif" alt="" class="wp-image-10540"/></a></figure></div>The post <a href="https://kusa2.jp/2020/08/17/5-4/">【くさつ エッセイ集】ベートーヴェンの時代</a> first appeared on <a href="https://kusa2.jp">草津夏期国際音楽アカデミー＆フェスティヴァル</a>.]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>【くさつ エッセイ集】ロマン派の途とブラームス</title>
		<link>https://kusa2.jp/2020/08/10/4-2/?utm_source=rss&#038;utm_medium=rss&#038;utm_campaign=4-2</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[academy-office]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 10 Aug 2020 01:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[くさつエッセイ集]]></category>
		<category><![CDATA[Eine Pause 2020]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://kusa2.jp/?p=13906</guid>

					<description><![CDATA[<p>文・松田智雄 第3回プログラムより（1982年発行） 一、「古典主義」の転換 　19世紀という時代は、世界の歴史的潮流のなかの一つの時間的な区切りにすぎないとしても、この区切りが果していく役割は極めて大きい。精神史の一般 [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">文・松田智雄</p>



<p class="wp-block-paragraph">第3回プログラムより（1982年発行）</p>



<p class="wp-block-paragraph"><strong>一、「古典主義」の転換</strong></p>



<p class="wp-block-paragraph">　19世紀という時代は、世界の歴史的潮流のなかの一つの時間的な区切りにすぎないとしても、この区切りが果していく役割は極めて大きい。精神史の一般的な流れとしては、このときに古典主義の典雅なたたずまいは転換の途を辿っていく変化の時期であった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　「古典」という言葉への目覚めは、西欧の近代社会がはじめて経験したものである。西欧近代精神史への一つの前提、「ルネサンス」が、古典主義の原型であり、これを継承してフランス文学とフランス古典主義が全ヨーロッパに影響を与えたのである。ドイツ古典主義は、ウィンケルマン（1717～1768）によって形づくられる。ウィンケルマンの言う古典は、ギリシア・ローマの歴史そのものではない。むしろ、それはその時代、18、9世紀の立場で描き出された「理想的」なものであった。そこで追い求められる目的は、「理想的に美なるもの」であり、「典型」であった。雑多な個別的対象のなかから、必要なものであり、「理想的」であるものを選び出して統一し、ひとつの完成した姿として捉えるのである。だから、それは変化すべからざる安定と均衡であり、いわば古典主義の法則である。それは「永遠性」を目指すものであり、完成と無限を憧憬する。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><strong>二、ロマン派音楽への途</strong></p>



<p class="wp-block-paragraph">　「永遠性」とは、実はこのように不達の原理へと向うのであるから、それはある意味では矛盾しているかもしれない。しかし、およそ人間の文化と芸術にはこの二つの理念が、基本的に内包されている、と言ってよい。これこそは、人間の基本的な在り方であり、ここには対極的な二つの理念がある。だからこそ、古典主義ののちには、その変化が二つの対極性のなかに現れてくるのである。18、9世紀の頃に行われる古典主義から、ロマン派への変化は、まさにこのような文化の対極性のなかで考えられるのであるが、しかも、音楽においても文学や思想界の流れとは、本質的に同じ姿が現れてくるであろう。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><strong>三、マンハイム音楽を通って</strong></p>



<p class="wp-block-paragraph">　19世紀には、モーツァルトの死のあと、ハイドン、そしてドイツ古典主義を継承し、ゲーテやシルラーの古典的理念の上にベートーヴェンが巨姿を現した。まさに音楽における「ウァイマル精神」の体現である。18、9世紀の頃、音楽におけるウァイマル精神の役割を果すものは、ひとつの仮説であるにせよ、「マンハイム楽派」の絢爛たる開花であったかもしれない。ヨーハン・シュターミッツを源流として、そこに参加する多数の音楽家の示した共通の特徴は、モーツァルトやハイドン、そしてベートーヴェンさえも受容せざるをえなかった。その側面については、ウァイマル精神に似た歴史的な使命を果した。南ドイツの一宮廷都市マンハイムに、それもけっして長からぬプファルツ選挙侯カール・テオドルの治下、18世紀後半期を繁栄期とするにすぎないが、19世紀に入っても、ドイツ・ロマン派と接触するに至るまで、終始音楽的首都であった。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><strong>四、シューマンとロマン派音楽</strong></p>



<p class="wp-block-paragraph">　さて、古典主義の概念には、二つの原理への矛盾が含まれているが、その通りにベートーヴェンにはすでに明らかな二重構造がある。シューベルトに至っては、ここにドイツ・ロマン派が始まる。音楽のロマン派について、深く貢献したのはシューマンである。ベートーヴェン、カール・マリア・フォン・ウェーバー、フランツ・シューベルトの死後、芸術の世界は低迷に陥る。そのとき新しい音楽を求めて、積極的で活発な音楽の変革運動に入っていった音楽家に、ローベルト・シューマン（1810～1856）がある。この状況をシューマンは、「古典的ともロマン的ともつかない、半眠状態である」と評して変革を計った。そして、シューベルトのためには、「咲く花のように明るいロマン的な生命」を、交響曲のなかに聴きとっている。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　シューマンは、ドイツ音楽の凡俗化を憤って、それを「ペリシテ人＝フィリステル」と名づけ、自分の立場を「ダビデ＝ダヴィット」同盟と唱えた。その理想は、ドイツ・ロマン派のドイツ的「無限」への憧れであり、そしてまた「言葉は音楽である」という意味で音楽の表現力を文学の表現力と同一視した。シューマンは、中部ドイツ地方のザクセンに生れ、19世紀の前半期、ドイツに生れた典型的な市民階級の代表者であった。彼がつくり出した音楽は、ひろやかな市民的心情から湧き出てきたものであって、自ら言う「音詩の音楽」であり、音楽的＝詩的な二重性格を備える。こうして「詩」と「音楽」とは結合することによって、標題音楽への傾斜をましたのである。シューマンが創刊した「新音楽時報」は、ドイツ・ロマン音楽運動のための機関紙であった。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><strong>五、「新しき軌道」とともに―ブラームスについて</strong></p>



<p class="wp-block-paragraph">　シューマン自身が編集者であった「新音楽時報」は、ショパンの作品2「御手を給え」―管弦楽の伴奏をもったピアノ変奏曲―を紹介して、ひとりの天才が現れてきたことを告知した。そして、彼の音楽評論の最後の言葉は、ブラームスへの讃辞で終っている。ここに一人の若者が、彼を訪ねてくる。その名前はヨハネス・ブラームス（1833～1897）であり、ヘートヴィヒ・ザロモンがそのブラームスの印象を描いている―「かれは私の前に座った。色白くきゃしゃなシューマンの救世主は、まだわずかに20才であるけれども、その顔は精神の勝利を示している。純真、無邪気、自然、力強さ、そして深み―これらの言葉が、かれの性格を形容する。おそらくシューマンの予言はかれをむしろ軽侮する気持や、かれを厳しく批判する気持を人に起させるが、人はそれらの全てを忘れてしまって心からかれを愛し讃嘆する」―と。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ブラームスに対しては、対蹠的な立場からはげしく賛否両論が交されている。ふつう思い出されるのは、ロマン・ローランによる酷評であり、また、バッハ＝ベートーヴェン＝ブラームスの三大Bを結びつけるビューロウの信条の二つである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　だが、ブラームスはシューマンの幸福な継承者であった。その音楽はなによりもドイツ風に内面的であった。それは音楽自体を無限の深みにまで追い求める。そして、音楽のために音楽を求めていく立場であるから、音楽形式に関して、とくに新らしい形式を必要とはしない。内面的感情は音楽形式に対して内面からこれを変形しながら、その形式に自らの本質を刻印すればよい。こうして内容は形式とともに守られていくのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ブラームスの音楽が本質的に歌謡的であると言われることについて、ひとつだけ付加えることにしたい。シューマン自身の言葉にも、美しい旋律の宝庫であり、民族性を見ることを許す民謡を多く聴くように、との言葉があった。ブラームスはこれを忠実に遵守しており、その主題には民謡をとり入れ、その音楽の礎石とした。かれもまたロマン派文学運動の後を受けて民謡の価値を高く評価した。民謡はブラームスの音楽の礎石にほかならなかった。ブラームスの音楽は、心にうけとめてともに歌ってみることによって、始めて味わえる音楽である。</p>



<p class="has-very-light-gray-background-color has-background wp-block-paragraph"><strong>松田智雄</strong>（1911年～1995年）<br>日本の経済史学者、近代ドイツ経済史を研究。元図書館情報大学学長、東京大学名誉教授。1979年紫綬褒章受賞。<br>第2回の当音楽祭プログラム冊子に執筆した<a href="https://kusa2.jp/40thanniversary/library/004-6/">「緑の草津に相応しい音を」</a>には、音楽祭の未来に期待する一文を寄せている。</p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<div style="height:100px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/essay-2/"><img loading="lazy" decoding="async" width="100" height="50" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/4c3a107ab8e98f3e66d5675184960f6e.gif" alt="" class="wp-image-13619"/></a></figure></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/"><img loading="lazy" decoding="async" width="100" height="100" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/fe979e14110c992e9c02c00035a265d6.gif" alt="" class="wp-image-10540"/></a></figure></div>



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		<title>【くさつ エッセイ集】マンハイム楽派の35年</title>
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		<dc:creator><![CDATA[academy-office]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 03 Aug 2020 01:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[くさつエッセイ集]]></category>
		<category><![CDATA[Eine Pause 2020]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>文・大宮真琴 第8回プログラムより（1987年発行） 　〈マンハイムに行かねばならぬ。生涯にただひとたびであっても、私は音楽を堪能したいし、そうしなければならないからだ。この機会をのがして何時の日に、また、マンハイム以外 [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">文・大宮真琴</p>



<p class="wp-block-paragraph">第8回プログラムより（1987年発行）</p>



<p class="wp-block-paragraph">　〈マンハイムに行かねばならぬ。生涯にただひとたびであっても、私は音楽を堪能したいし、そうしなければならないからだ。この機会をのがして何時の日に、また、マンハイム以外の何処の地で、音楽を聴くのに、よりよき機会があろうか。〉</p>



<p class="wp-block-paragraph">　18世紀ドイツの詩人クリストフ・ヴィーラントは、こう書いている。ヨーロッパで最初に卓越したオーケストラをもっていたのは、マンハイムであった。全欧に盛名を馳せたこの宮廷楽団は、1742年に18才でマンハイムの選帝侯を継いだ、音楽好きのカール・テオドールによって育てられた。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　新しい選帝侯は、マンハイムの宮殿をヴェルサイユ風に拡張したばかりでなく、ライン河とネッカー河が合流する三角州にあった町の街衢を整備して、「ラインのフィレンツェ」と呼ばれるほど壮麗なものに作り上げることに貢献した。しかし、この若き君主の名を音楽史に不朽なものとしたのは、何といっても宮廷管弦楽団の育成であった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　マンハイムの宮廷楽団の名声のためには、もうひとりの人物が必要であった。ヨハン・シュターミッツという名のボヘミア生れの若きヴァイオリニストがそれである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　シュターミッツがマンハイムの宮廷楽団に僱われたのは、カール・テオドール侯が襲爵する1年前の1741年のことであったと考えられている。24才のシュターミッツが、どんなにすぐれた音楽家であったかは、その翌年（1742年）に、マンハイムからライン河を60キロばかり下ったところにあるフランクフルト・アム・マインで演奏会を開き、「卓越したヴァイオリンの名手」と絶讃された記録によっても明らかである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　シュターミッツは、イタリア人の楽長グリュアの率いる宮廷楽団の中で、めきめきと頭角をあらわしていった。たちまち首席ヴァイオリン奏者に昇進したばかりでなく、1745年にはコンツェルトマイスター兼音楽指揮者に任命され、900グルデンという高給を支給されるようになった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　そのころヨーロッパの音楽は、バロックからクラシックへと様式を転換しようとしていた。新しい風は南の国イタリアから吹いてきた。そのころのイタリア・オペラは、例外なくオーケストラによる独立した序曲をもっていた。シンフォニアと呼ばれたイタリアの序曲は、古い対位法の様式を棄て、明快なホモフォニーによる旋律と構造上の段落をもっていた。そのうえ、急―緩―急の3楽章を持ち、弦楽4声部のほかに、2本づつのオーボエとホルンを備えた8声部を基本として作曲されていた。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　当時の序曲と交響曲のあいだに、本質的なちがいはなかった。劇場でオペラの開幕前に演奏されれば序曲であったし、宮廷の大広間において王侯貴族の前で演奏されれば交響曲であった。そのうえ、日本語で序曲と交響曲という用語上の区別もなく、イタリア語ではどちらも同じ「シンフォニア」であった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　新しい交響曲の時代の到来は、ヨハン・シュターミッツの活動の開始と、時期を同じくしていた。シュターミッツの交響曲の中には3声部や4声部の弦楽だけの編成のものもあり、そのうちの何曲かはフランスで出版されもしたが、様式や筆写楽譜の状態からみて、マンハイムに到着する前、すなわちボヘミア時代の作曲であった可能性が大きい。それに対して、管楽器をもつ交響曲の大部分が2本づつのオーボエとホルンを備えた8声部の曲である。この管弦楽編成は、初期のマンハイムのオーケストラの編成にそのまま適合する。オーボエのほかにフルートやファゴットの独立パートをもつ曲や、ホルンのほかにトランペットやティンパニをもつ交響曲も、ごく少数だが現存している。この事実は、ヨハン・シュターミッツの在任中に、マンハイムの宮廷楽団の規模が大きくなっていったことを示している。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　事実マンハイムの楽団は、しだいに規模を大きくしたばかりでなく、卓越した名手たちを加えていった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　1747年には、モラヴィア生れで、ウィーンでフックスについて学んだ39才のフランツ・リヒターが、バス歌手と第2ヴァイオリン奏者を兼ねて加わった。ヨハン・シュターミッツは、1757年に39才で没したが、そのあとを継いで第2代のマンハイムの中心的音楽家となったのは、このリヒターだったのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　シュターミッツの死のすこし前、1754年にマンハイムに来てチェロ奏者となったのは、同じボヘミア生まれのアントン・フィルツであった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　1753年にマンハイムにきて、宮廷オペラ指揮者となったのは、ウィーン生れのイグナッツ・ホルツバウアーであった。ウィーンでカルダーラやフックスについて学び、さらにイタリアでオペラの様式を身につけ、ウィーンに戻ったあとはブルグ劇場の指揮者をしていた音楽家である。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　こうしてマンハイムは、ドイツの管弦楽の中心地となった。宮廷楽団には、2部のヴァイオリンは10名づつ、ヴィオラとチェロとコントラバスは4名づつに増大し、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペットを各2管、ティンパニ1対を常備する、ヨーロッパ最大のオーケストラとなった。弦の運弓法は整然と揃っており、管の音色は多彩で、囁くようなピアニッシモから轟くようなフォルティッシモまで、有名なクレシェンドを作り出し、正確で表現力に富んだ演奏をおこなった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　1772年にこの地に旅行してその演奏を聴いたイギリスの音楽史学者チャールズ・バーニーは、驚嘆の念をかくそうともせず、こう書いている。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　　≪マンハイムの選帝侯のオーケストラは、ヨーロッパ中で最も賞讃に値するものである。並はずれたその力は、たくさんの音楽家の手から、ごく自然に湧きおこる。だがこの力は、良く訓練された結果うまれてくるという、正しい使いかたがなされている。そのうえこのオーケストラの中には、おそらくヨーロッパのどのオーケストラよりも沢山の独奏者がいるし、作曲家もいる。まさに、将軍たちだけから成る軍隊のようなものだ。この並はずれたオーケストラは、演奏会になるとその力のすべてを出しきる。まるで声楽の場合のような繊細な美しさをすこしも損なうことなく、最大の効果を発揮するのである。かのクレシェンドやディミヌエンドを発見したのもこのオーケストラだし、ピアノとフォルテの対照は、まるで絵画での赤や青のように、音楽による色と影の効果を作り出す。演奏の全体を通じて、このオーケストラの不完全さにもとづく欠点を、私は一箇所も発見することができなかった。≫</p>



<p class="wp-block-paragraph">　モーツァルトがマンハイムを訪れたのは、それから5年後1777年の秋であった。当時モーツァルトは21才で、母親とともにパリに職さがしに行く旅行の途中であった。この時期のマンハイムのオーケストラの楽長は、第3世代のクリスティアン・カンナビッヒであった。たちまちカンナビッヒと親交を結んだモーツァルトは、またマンハイムのオーケストラのスタイルからも深い感銘を受けた。強大なフォルテにつづくピアノのこだま、金管楽器のあとにくる木管楽器の表情ゆたかな旋律、「マンハイムのため息」と呼ばれた連鎖音形、「マンハイムのロケット（打ち上げ花火）」として有名なクレシェンドしながらの上昇する手法など、このオーケストラの様式の特徴は、その後のモーツァルトの音楽に濃い影をおとしたのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　しかしモーツァルトが、パリからの帰路、1778年の秋に再びこの町を訪れたときには、宮廷ごと、もぬけの殻になっていた。この年、選帝侯カール・テオドールがバイエルン侯をも兼ねることになり、宮廷をミュンヘンに移したのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　こうして、バロックからクラシックへの様式変換に重要な役割を果したマンハイムのオーケストラは、とつぜん35年の栄光の歴史に終止符を打ったのである。しかしマンハイム楽派の伝統は、けっして死に絶えはしなかった。1770年にライン河の下流の町ボンで生れたベートーヴェンは、若いころからマンハイムの様式を知りつくしていた。そのベートーヴェンがウィーンに移住したのは、マンハイムの宮廷楽団がミュンヘンに移った15年ばかりのちの、1792年の秋であった。</p>



<p class="has-very-light-gray-background-color has-background wp-block-paragraph"><strong>大宮真琴</strong>（1924年～1995年）<br>音楽学者、お茶の水女子大学名誉教授。ハイドン研究家。京都音楽賞(研究・評論部門 平成２年)受賞。著書に『ハイドン』(音楽之友社出版)、『ハイドン全集の現場から 新しい音楽学の視点』（音楽之友社）などがある。この他、第５回の当音楽祭プログラム冊子に「ハイドンの音楽　実験と革新」も寄稿。</p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<div style="height:100px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/essay-2/"><img loading="lazy" decoding="async" width="100" height="50" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/4c3a107ab8e98f3e66d5675184960f6e.gif" alt="" class="wp-image-13619"/></a></figure></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/"><img loading="lazy" decoding="async" width="100" height="100" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/fe979e14110c992e9c02c00035a265d6.gif" alt="" class="wp-image-10540"/></a></figure></div>The post <a href="https://kusa2.jp/2020/08/03/3-2/">【くさつ エッセイ集】マンハイム楽派の35年</a> first appeared on <a href="https://kusa2.jp">草津夏期国際音楽アカデミー＆フェスティヴァル</a>.]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
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		<title>【くさつ エッセイ集】バッハの息子たち</title>
		<link>https://kusa2.jp/2020/07/27/02-2/?utm_source=rss&#038;utm_medium=rss&#038;utm_campaign=02-2</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[academy-staff]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 27 Jul 2020 07:05:50 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[くさつエッセイ集]]></category>
		<category><![CDATA[Eine Pause 2020]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>文・久保田慶一 第25回プログラムより（2004年発行） 　バッハの息子たちと呼ばれる音楽家は4人である。まずは生年の順に挙げてみよう。最初の妻マリア・バルバラとの間に生れた長男ヴィルヘルム・フリーデマン（1710年生ま [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">文・久保田慶一</p>



<p class="wp-block-paragraph">第25回プログラムより（2004年発行）</p>



<p class="wp-block-paragraph">　バッハの息子たちと呼ばれる音楽家は4人である。まずは生年の順に挙げてみよう。最初の妻マリア・バルバラとの間に生れた長男ヴィルヘルム・フリーデマン（1710年生まれ）と次男カール・フィーリップ・エマヌエル（1714年生まれ）、そしてマリアの突然の死（1720年）から1年数ヶ月後に後妻となったアンナ・マクダレーナとの間に生れたヨハン・クリストフ・フリードリヒ（1732年生まれ）と末息子のヨハン・クリスティアン（1735年生まれ）である。上の二人と下の二人は母親の血筋も異なり、年齢も20歳以上離れていた。そのため偉大な音楽家であった父ヨハン・セバスティアンとの関係も大いに違った。また兄弟のそれぞれが異なる資質や性格をもって生れたことは、いつの世でも同じである。4人が互に異なる人生を歩んだことは、誰にも想像に難くない。そして彼らが住んだ国や土地の政治や社会の状況と18世紀という激動の時代が、いっそう各人の人生や存在を特異なものにした。これら4人は順に「ハレのバッハ」「ベルリン・ハンブルクのバッハ」「ビュッケブルクのバッハ」「ミラノ・ロンドンのバッハ」と呼ばれたりするのだが、このニックネームもただただ各人が活躍した町を言い表しただけのものではないのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　これまで「バッハの息子たち」について話されるとき、そのほとんどが父セバスティアンとの関係においてであった。そこで今回は息子たちどうしの関係、要するに「父親抜き」の兄弟関係について、お話してみようかと思う。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　父親が生きた18世紀前半、社会において音楽家の地位は低く、市民権すらも認められていなかった。そのため音楽家たちは〈ギルド〉のような職業団体を作り、代々音楽家という職業が世襲され、音楽一族なるものも形成されていた。バッハ家はそのなかで最も長く続いた、そして最も優れた音楽家を輩出した一族として知られている。一族のつながりは固く、ある町のポストが死亡や転出で空くと、必ずや一族のメンバーが後釜に就いたし、家長が亡くなれば、長兄や他の一族が遺児の養育をした。例えば、エマヌエルは父を失った弟ヨハン・クリスティアンをベルリンに引取り、音楽の教育を施したし、そのクリスティアンもロンドンにいて、決して亡くなったわけではなかったが、ビュッケブルクの兄ヨハン・クリストフ・フリードリヒの息子ヴィルヘルム・フリードリヒ・エルンストを亡くなるまで預かった。またエマヌエルは、未亡人となってライプツィヒで暮らした義母のアンナ・マクダレーナや夫アルトニコルを亡くした義妹のエリザベト・ユリアーネ・フレデリカ、さらにはその娘夫婦にも経済的援助を続けたりしたが、これもごく自然なこととして行われたのであった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　今紹介した例からもわかるように、父セバスティアンが亡くなってから、バッハ家のまとめ役を担ったのは、長男のフリーデマンではなく、次男のエマヌエルであった。長男はドレスデンの教会オルガニスト、ハレの音楽監督となった。音楽の才能も父親譲りで天才的な閃きに満たされていた。ポツダムのフリードリヒ大王を訪れた父に同行したのも、前年からハレにいた兄だった。しかし父親の寵愛も人並み以上で、この愛情が長男の人格的な成長を阻んだものと考えられる。ハレの音楽監督を突然辞任し、それ以後定職に就くことなく、ベルリンで不遇の一生を終えたのである。ベルリンではユダヤ人銀行家のダニエル・イツィヒの娘で、フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディの大叔母にあたるレヴィを教えた。彼女はエマヌエルの支援者のひとりで、フリーデマンの作品の姉妹曲として、『チェンバロとピアノフォルテのための協奏曲』やフルート、ヴィオラ、クラヴィーア、バスという、これまた特異な編成の『四重奏曲』3曲の作曲を依頼していた。しかしエマヌエルが残した数多くの手紙に、兄フリーデマンの消息を案じる言葉はひとつもなかった。もっともハンブルクの教会では、兄のカンタータ『地獄の罪業を我らから取り除き給え』を聖霊降臨祭に演奏したりはしていたのだが。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　エマヌエルが最も親しくしたのが、義弟のヨハン・クリストフ・フリードリヒだった。ビュッケブルクの宮廷に雇われたのも、エマヌエルのおかげであった。ベルリンの騎士アカデミーに学んだシャウムブルク・リッペ伯爵ヴィルヘルムは、フリードリヒ大王とも親しく、エマヌエルにクラヴィーアの教えを請うたこともあったからだ。エマヌエルは「陽気な人と憂鬱な人との対話」と呼ばれる〈標題トリオ〉を含む2曲の『トリオ・ソナタ』を、義弟を採用してもらったことへの返礼として献呈した。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　エマヌエルがハンブルクのカントル（音楽監督）に志願したとき、競争相手の3人のなかにも義弟がいた。ビュッケブルクはハンブルクにもさほど遠くなく、かつてハンブルクの隣町アルトナでオルガン演奏を披露し、当地の主要教会のオルガニストに選出されたこともあった。何らかの理由で彼はそれを辞退してしまったのだが、カントル職には関心をもち続けていたのである。結局は義兄がハンブルクのカントルとなってしまうのであるが、エマヌエルは何かとこの義弟を頼りにもした。ハンブルクに来てからしばらくしての『音楽さまざま』の楽譜出版では、ピアノ・ソナタ、歌曲、トリオ・ソナタなど本当に「さまざま」な曲、75曲をエマヌエルが編集したが、編集者の22曲についで、最も多い15曲を提供したのも、この義弟であった。また1771年のミヒャエル祭では、ビュッケブルクの宮廷牧師に就任したヨハン・ゴットフリート・ヘルダーの詩に義弟が作曲した新作カンタータ『ミヒャエルの勝利』を演奏したし、1778年のミヒャエル祭では、このカンタータのコラール、合唱、レチタティーヴォ（歌詞のみ）、アリアに、自身が作曲したレチタティーヴォ2曲、コラール、「ハイリヒ」合唱、さらにゲオルグ・ベンダのアリアを加えて、3人の作曲家の作品による「パスティッチョ」を作り演奏したのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　さて、最後のクリスティアンとの関係について述べておこう。父ヨハン・セバスティアンがライプツィヒで亡くなったとき、前述した3歳上の兄は亡くなる半年前にビュッケブルクにいたが、クリスティアンはまだ15歳であった。この少年を引き取ったのも、エマヌエルだった。ベルリンではピアノや作曲を教え、義弟も写譜の仕事などを手伝った。またすでに「個人レッスンだけをやっている音楽家」の筆頭として名前が挙げられ、協奏曲のソリストとしても活躍した。4年半ほどしてクリスティアンはミラノに行き、やがてはオペラ作曲家として時代の寵児となり、7年後にはロンドンのキングス劇場で華々しいデビューを飾ることにもなる。時代の音楽ジャーナリズムの関心も、この流行の作曲家に向かった。ハンブルクの「アドレス・コムトワール新聞」の新米記者であったマティアス・クラウディウスは、エマヌエル宅にたびたび訪問しては、義弟についての感想を求めた。エマヌエルはショーベルトともどもこう評した。「彼らの音楽は耳に入って満たしてくれるが、心を満たしてはくれない。これが最近の音楽、かつてガルッピが私に話をしてくれたような、イタリアで流行している最近の軽薄な音楽に対する私の考えです。人目をひくために大きな咳払いをしているようなアレグロばかりで、アダージョはまったく聴こえてきません。せいぜい聴こえても、アンダンティーノぐらいです。…音楽は高い目的をもっていて、耳を満たすのではなく、心を動かすべきなのだよ。…」</p>



<p class="wp-block-paragraph">　父親ヨハン・セバスティアンとハイドンやモーツァルトという大作曲家の狭間を埋めたのが、前古典派の作曲家、とりわけ「バッハの息子たち」であったとよく言われる。だが直接的な影響関係は、ロンドンでのクリスティアンとモーツァルトぐらいであろう。それにクリスティアンに対する21歳年長の義兄エマヌエルの評価も手厳しかった。モーツァルトは1788年の2月と3月に、ウィーンでエマヌエルのオラトリオ『イエスの復活と昇天』を演奏して大成功を収めた。演奏会場には作曲者の肖像画が高々と掲げられたという。しかしモーツァルトは演奏に際して、楽器の追加や移調など、ヘンデルの『メサイア』に対してと同じような「化粧直し」を施していたのだ。この演奏の9ヵ月後、エマヌエルは北の町ハンブルクで74年の生涯を閉じるが、時代の「狭間」は「バッハの息子たち」の間にあったと言わなくてはならない。</p>



<p class="wp-block-paragraph">（参考文献）久保田慶一　「エマヌエル・バッハの音楽の近代を切り拓いた《独創精神》」東京書籍　2003年</p>



<p class="has-very-light-gray-background-color has-background wp-block-paragraph"><strong>久保田慶一（1955年～）</strong><br>西洋音楽史、特に古典期の音楽研究の第一人者。カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの研究で東京芸術大学より博士号取得（音楽学）。東京学芸大学教育学部音楽・演劇講座教授を経て、2010年度より国立音楽大学教授。著書に「バッハの四兄弟：フリーデマン、エマヌエル、フリードリヒ、クリスティアン―歴史と現代に響く音楽」（オルフェ・ライブラリー）、「C・P・E バッハ研究―改訂と研究― 」（音楽之友社）等、多数あり。</p>



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<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/essay-2/"><img loading="lazy" decoding="async" width="100" height="50" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/4c3a107ab8e98f3e66d5675184960f6e.gif" alt="" class="wp-image-13619"/></a></figure></div>



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