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	<title>ビーバ博士のエッセイ集 | 草津夏期国際音楽アカデミー＆フェスティヴァル</title>
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	<description>KUSATSU INTERNATIONAL SUMMER MUSIC ACADEMY &#38; FESTIVAL</description>
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	<title>ビーバ博士のエッセイ集 | 草津夏期国際音楽アカデミー＆フェスティヴァル</title>
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		<title>【ビーバ博士のエッセイ集】オーストリアの作曲家が作った自然の音楽～選りすぐりの事例から考える～</title>
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		<dc:creator><![CDATA[academy-office]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 30 Sep 2020 01:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ビーバ博士のエッセイ集]]></category>
		<category><![CDATA[Eine Pause 2020]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>文：オットー・ビーバ／日本語翻訳：小宮正安 第39回プログラムより（2018年発行） 　500年来というもの、自然は作曲家に様々な霊感を与えてきた。だが、自然から生じる要素をどのように音楽に当てはめればよいのか？まず思い [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">文：オットー・ビーバ／日本語翻訳：小宮正安</p>



<p class="wp-block-paragraph">第39回プログラムより（2018年発行）</p>



<p class="wp-block-paragraph">　500年来というもの、自然は作曲家に様々な霊感を与えてきた。だが、自然から生じる要素をどのように音楽に当てはめればよいのか？まず思い浮かぶのは、自然の音や響きそのものであって、動物の鳴き声、鳥のさえずり、風や波の音、小川のせせらぎ、雷の轟きといったところ。そこから時代が徐々に下って来ると、自然から喚起される雰囲気、例えば寒さに震えたり、暑さで消耗したりといった状態が描写されるようになってゆく。日の出、日の入り、夜の静けさといったものもまた然り。いわゆる、音による絵画に他ならない。<br>　こうした音による絵画の中で、今日もっとも有名なのが、アントニオ・ヴィヴァルディによる4つのヴァイオリン協奏曲「四季」である。ちなみにこの作品は、たしかにヴェネツィア出身のヴィヴァルディによって作曲されてはいるものの、とあるオーストリアの人間が曲を依頼したことから生まれたという経緯がある。ヴィヴァルディは当作品を、ヴェンツェル・モルツィン伯爵と彼の宮廷楽団に捧げているのだが、この伯爵はウィーンの皇帝カール6世に仕える人物だった。またこの協奏曲の直接的後継といえるのが、ヨーゼフ・ハイドンのオラトリオ『四季』である。じっさいこのオラトリオでは、テキストに自然現象（例えば雷）や自然の音（例えば動物の鳴き声）が出てくる箇所で、音楽がそれらを模倣しているのだ。「雷雨」は、モーツァルトもコントルダンス KV.534に取り入れている。また動物の鳴き声という点では、やはりハイドンによるオラトリオ『天地創造』が、『四季』以上の模倣を聴かせてくれる。それどころかわざわざこの箇所にだけ、ハイドンはオーケストラの楽器の1つとして、コントラファゴットを用いているのだ。ちなみにコントラファゴットは、古典派のオーケストラではほとんど用いられなかった楽器である。<br>　また、音楽に特にしばしばとり入れられたのが自然からの挨拶であり、とりわけ鳥の鳴き声である。たとえばすぐに思い浮かぶところでは、ハイドンの弦楽四重奏曲「ひばり」（Hob. III:63） やオルガン小曲「うずらの鳴き声」（Hob. XIX:8）、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ作品79の第1楽章におけるかっこうの鳴き声、モーツァルトのミサ曲「雀」KV. 220 のベネディクトゥスにおける雀のさえずりといったところ。特に最後の例の場合、神を讃えるテキストの箇所で鳥の鳴き声が模倣されるのは古くからの伝統であり、鳥たちも神を讃えるという旧約聖書の詩篇の記述に拠る。他の動物を用いて自然が描写されているケースについても、4つの例を挙げるにとどめておこう。まずは、ハイドンの弦楽四重奏曲「蛙」（Hob. III:49）と、シューベルトのピアノ五重奏曲「ます」D 667である。シューベルトはこの曲の第4楽章に自らの歌曲「ます」の旋律を引用し、ハイドンは蛙特有の鳴き声を彷彿させる主題を用いていることから、こうした呼び名が付けられた。ハイドンの交響曲「めんどり」（Hob. I:83） の第1楽章や、交響曲「熊」（Hob. I:82）の最終楽章にも同様のことが当てはまり、後者では聴き手が熊の踊りを想像できるという次第。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ただしここでは、話題をもう一度四季に戻そう。四季というものは、作曲家たちにしばしば霊感を与え……少なくとも彼らの多くの作品が四季と関係している。例えばモーツァルトのピアノ・ソナタKV.331 やベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ作品24がそうで、それらは後に「春」と呼ばれるようになった。対照的に作曲者本人が名付けた例が、ローベルト・シューマンによる交響曲第1番で、文字通り「春の交響曲」と命名されている。あるいはヨハン・シュトラウス2世はワルツ「春の声」、彼の父親であるヨハン・シュトラウス1世はワルツ「真夏の夜」、弟のヨーゼフ・シュトラウスはポルカ・シュネル「冬の喜び」を作曲している。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　田舎における生活、つまり自然の中における生活も、音楽によって模倣された。もっとも有名で秀逸な例を2つ挙げるならば、ハイドンの「四季」、ベートーヴェンの交響曲第6番となるだろう。それらに耳を傾ければ、自然の中における、あるいは自然を相手にした、田舎の人々の労働や喜びや気苦労を共に体験できる。しかも単なる雰囲気の描写ではなく、まるでそこに居合わせているかのような、ほとんどルポルタージュといってもよいような特徴がそれらには具わっている。田舎の生活の雰囲気を描いたダンス音楽としては、ヨーゼフ・シュトラウスの「オーストリアの村つばめ」を挙げておこう。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　多くの作曲家が、自然の中で何を体験できるかを聴き手に思い起こさせてくれる。例えばフランツ・シューベルトの「さすらいびと幻想曲」では彼の歌曲「さすらいびと」が引用されているが、幻想曲を聴くと歌曲のテキストが頭に浮かぶという仕掛けだ。モーツァルトのドイツ舞曲「そり遊び」KV.605が描くのは、冬の楽しみ。馬が引くそりに乗って、様々な風景の中を走ってゆくのだが、普通は馬の頭に鈴が付けられており、その澄んだ響きが乗っている人々を幸せにし、逆にそりの前を横切ったり、橇の真正面から来たりするものに対しては警告音となるという次第である。（音楽による「そり遊び」は、モーツァルトの父親のレオポルトも作曲している）。このように自然の体験を音楽に拠って表現しようという行為を、多くの作曲家がおこなっている。狩の体験を音楽で描く際に、狩猟ホルンを関連付けるのもそのひとつだ。モーツァルトの弦楽四重奏「狩」KV.458、ハイドンの交響曲「狩」（Hob. I:73）はその一例であり、あるいはやはりハイドンの交響曲（Hob. I:31）は「狩人の見張り小屋」とか「ホルン信号」などと呼ばれている。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　自然の雰囲気を克明に描写するという特別な形式のひとつとしては、一日の移り変わりを音楽で表現するという方法がある。それが特に成功しているのが、ハイドンの交響曲 （Hob. I:6, 7 ,8）の三部作であって、それぞれに「朝」「昼」「晩」と呼ばれている。他にもこのように、一日の推移に寄せる感情を表現した作品は多数存在しているが、必ずしも一日のうちに何が起きたかという具体的な事例を描いている訳ではない。そうした意味では、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ「月光」も、こうした自然の雰囲気の描写のひとつに属している。また、ヨハネス・ブラームスのヴァイオリン・ソナタ作品78も、雰囲気を描写した形式の典型といえよう。というのも当作品の最終楽章に、彼は自作の「雨の歌」作品 53-3を引用しているからだ。雨は、太陽や霧や嵐や雷のように自然現象である。ただしブラームスはそれを、音による絵画のように表現するのではなく、雨の気分と関連付けており、それはそもそも彼の歌曲のテキストに記されているものなのである。となると、シューベルトやブラームスをはじめ、数えきれないほどの歌曲も、自然そのものや自然に関係する事柄に捧げられていることが分かる。ただしその数はあまりにも多いため、ここではその例を挙げる余裕すらないほどだ。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　クリスマスを迎えると、キリスト教の教会では、イエス・キリストがベツレヘムの馬小屋で生まれた際、焚火を囲んで羊の群れの番をしていた羊飼いたちが天使からキリストの降誕を知らされた、という聖書の記事が取り上げられる。またそれを人々の脳裏に刻んでもらうべく、様々な工夫が重ねられてきた。そのひとつが、音楽でこの出来事を分かり易くかつ深く、人々に伝えるというもの。それが、いわゆるパストラール音楽（パストラーレ）を生み出すこととなった。パストラールとは、ラテン語のパストール、つまり上で説明したような、聖書で重要な役割を果たしている羊飼に由来する。そこから転じて羊飼の音楽ということになり、羊飼いの音楽のメロディが、羊飼いの楽器（とりわけ様々な種類の<ruby>角笛<rp>(</rp><rt>ホルン</rt><rp>)</rp></ruby>）さらには田舎の民俗音楽に登場する楽器を用いて演奏される、ということが一般化していった。またこうした『自然楽器』は限られた音しか出せず、そのため非常に特殊な旋律しか奏でられないという事情を抱えていることから、パストラール音楽の旋律も非常に特徴的なものとなった。しかも、ベツレヘムの馬小屋に眠る生まれたばかりのキリストを前に、羊飼が音楽を奏でている情景を模倣しようと思うと、いきおい子守唄のリズムが用いられることとなり、それが独特の旋律と相まって、パストラール音楽が形作られていった。<br>　なおこうしたパストラール音楽は、古典派の時代に絶頂を迎える。とりわけ、ヨーゼフ・ハイドンおよびミヒャエル・ハイドンの兄弟のパストラール音楽は見逃せない。モーツァルトもパストラール音楽をしばしば用い、またベートーヴェンは交響曲第6番（『<ruby>田園交響曲<rp>(</rp><rt>シンフォニア・パストラーレ</rt><rp>)</rp></ruby>』というタイトルが与えられている）の最終楽章「牧人の歌」に、パストラール音楽の要素を反映させている。<br>　逆に言えばパストラール音楽は、単にクリスマスの出来事を思い出す行為とのみ結びついているわけではなく、ほぼ田舎の生活の象徴という意味合いで発展を遂げた。つまり、この手の旋律やハーモニーを聴けば、自然の中の生活に立ち会ったような気分に浸れるようになったのである。そこでは羊飼や農民が、自然音列しか出せない楽器を演奏しているわけだが、作曲家たちはそんな単純かつ特徴的なメロディに手を加えて行ったのだった。またパストラール音楽の響きとしては、民俗音楽の楽器の典型ともいえるバグパイプが往々にしてイメージされており、そこでは完全五度のみで低音の伴奏が付けられた。<br>　ところでパストラール音楽に関して、もう少し細かだが、重要な情報も付け加えておこう。イタリアにもパストラール音楽は存在したのだが、そこでは子守唄のような3拍子とは異なる別のリズム、つまり6/8拍子に基づく付点リズムが用いられている。なぜか？それはイタリアの民俗音楽における子守唄がこのリズムに則っているためであり、そうしたリズムに基づいて馬小屋のイエスを前にした羊飼いたちの音楽を人々が想像したためである。まさにイタリアの民俗音楽が生んだ独特のパストラール音楽というわけで、バッハやヘンデルも―ドイツやオーストリアではなく―イタリアのパストラール音楽を引き継いだのだった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　田舎の楽器や、それらによって奏でられる典型的な旋律を取り入れるのは、何もパストラール音楽に限られた手法ではない。既に述べたように、例えば自然の中での狩を思い起こさせる曲においても、狩猟ホルンが典型的な旋律を奏でる。モーツァルトの「ポストホルン・セレナード」も、郵便馬車の御者がポストホルンを独特の旋律で吹いて、馬車が村に着いたことを知らせるという、自然豊かな風景を思い起こさせてくれる。コントルダンスKV.611のトリオでは、モーツァルトはライアーの音を真似ている。ライアーは民俗音楽で用いられる楽器の1つであり、その軋むような音色ゆえ、戸外でのみ、つまり自然の中でのみ用いられるのが特徴だ。田園的なテーマを選んだ例と言えば、カール・チェルニーのピアノ曲「ロンド・パストラーレ」もそうで、そこでもいかにも田舎の楽器が奏でそうな旋律が基となっている。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　田舎のダンス音楽、つまり器楽による民俗音楽は、弦楽器によって演奏される場合が多かった。なお弦楽器は、自然音での演奏になる管楽器に比べて音域が広く、それゆえダンス音楽も音域が広い。それでも、田舎の人々のダンス音楽には、特定の伝統というものが具わっており、主題の型や、また当然のことながらダンスの形式によって、様々に異なる特徴的なリズムが聴かれる。そしてこのような田舎のダンス音楽は、いわゆるウィーン古典派の夥しい作品の中に現れることとなった。<br>　ただし今日の我々にとっては、どの部分が実際のダンス音楽から引用され、どの部分に作曲者自身のアレンジが加えられているのかを聴き分けることは難しい。というのも、それらは様式化されている場合が多く、元々のダンス音楽よりも少しだけ洗練され、工夫が施されているいっぽうで、きわめて単純かつ粗野である場合も少なくないからだ。とまれこれらの田舎のダンス音楽は―オリジナルのままか、あるいは作曲者のアイディアが加えられたり様式化されたりしているかということを別にして―、聴き手を自然の中へと誘ってくれる。田舎でおこなわれる屋外のダンス、あるいは悪天候や冬には屋内で踊られるダンス。つまるところ、田舎の生活は、自然の中での生活そのものなのだ。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　これとよく似ているのが、民謡である。田舎のダンス音楽と同様、民謡もまた既にバロック時代から芸術音楽に引用されていた。ただしバロック音楽において、こうした手法は珍しかったのだが、古典派音楽では非常にしばしば用いられるようになってゆく。結果、やはりどこまでがオリジナルの引用で、どこからが作曲家のアイディアを反映したメロディなのかを判断するのが難しくなってしまったのも事実である。もちろん交響曲、弦楽四重奏、ピアノ曲で民謡が登場するケースの全てではないにせよ、 それがオリジナルか、そうでないのかを判別できる可能性もまたきわめてまれなのだ。だがここでも、引用がおこなわれたのか、あるいは民謡風に曲が作られたのかという問題を一旦棚上げするならば、これらのメロディが私たちを田舎の生活や自然に誘ってくれることもたしかなのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ハプスブルク家は、様々な国々を支配下に置いて巨大な帝国を形作っていた。それゆえ、ウィーン古典派の芸術音楽に登場する民俗舞踊や民謡には、ドイツ語圏にかぎらず、ハンガリー、ボヘミア、クロアチア等々で生まれたものが数多く存在する。そのことに注意して作品を聴けば、なるほど、その違いが分かって来るだろう。特に「他と違う」のがハンガリーの民俗音楽。理由としては、ハンガリーの風景が他の地域と特に異なっており、それがこの地域における音楽に新たな形式を与える理由になったから…、と説明できよう。山岳地域では、平地におけるのとはまた異なる音楽が奏でられ、それがまったく異なる民族の個性を育むものだが、ハンガリーではそれが特にはっきりと現れている。たしかに「ハンガリー風」と題されたハイドンの弦楽四重奏曲の最終楽章に耳を傾ければ、ハンガリーの風景が思い起こされる。ブラームスのハンガリー舞曲や、彼の盟友ヨーゼフ・ヨアヒムのヴァイオリン協奏曲「ハンガリー風」もまた然りである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　数えきれないほどの作品が、自然に囲まれた場所や地域を特定して書かれている。そうした例が豊富に見られるのが、シュトラウス・ファミリーのダンス音楽の場合。「ウィーンの森の物語」や「クラプフェンの森で」だけを例に挙げても、そこにはウィーン近郊の森や、ウィーンの森にある特別の場所の雰囲気が、ダンスの形式を通じて、音楽による輝かしい記念碑のように立ち現われている。温泉や山や湖や河川も、音楽の中に取り入れられた。じっさい、ヨハン・シュトラウス2世のワルツ「美しく青きドナウ」が、ベドルジヒ・スメタナの交響詩「モルダウ」ほど具体的に自然を描写していないとしても、もしもドナウ河なかりせばこのワルツも存在しなかったにちがいない。またドナウ河を具体的にイメージして作られた曲には、当時のハンガリー、現在のルーマニアのティミショアラに生まれたヨシフ・イヴァノヴィチのワルツ「ドナウ河のさざなみ」もある。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　様々な種類の花々を幾つものピアノ曲に顕現させたのが、イグナーツ・アスマイアー。彼はシューベルトのサークルの一員であり、後にウィーンの宮廷楽団楽長に就任した人物だ。例えば彼の作品は、ローベルト・シューマンが「ミルテの花」作品25で表現したような手法を用いている。そして多種多様な花々を、それらの名前や特徴によって描こうとする姿勢は、たとえばヨハン・シュトラウス2世が作ったワルツ「南国のばら」や「レモンの花咲くところ」、ポルカ・マズルカ「ひまわり」や、ヨーゼフ・シュトラウスによるワルツ「秋のばら」、さらにはヨハン・シュトラウス1世のワルツ「野の花々」「刺のないばら」「ばらの葉」に現れている。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　自然を描くにあたっての別の方法は、オペラの世界に存在する。モーツァルトの「魔笛」1つをとっただけでも、そこには小鳥売りが登場し、危険な大蛇が殺され、太陽が歌い、夜の女王が主役を務め、さらなる別の主人公2人が火の試練と水の試練を受けて自分たちの決意を証明する、といった次第。小鳥売りが他にも登場するのは、カール・ツェラーが作った、その名も『小鳥売り』という題名のオペレッタで、その中のもっとも有名なナンバーではバラが扱われ、オーストリアのティロルの風景が歌われる（『ティロルのバラを贈る時』）。そうでなくてもオペレッタには、この小文のテーマと関係する作品がたくさんある。ヨハン・シュトラウス2世の「くるまば草」では、全ての場面が森の中だけで展開するようになっている。森というものが自然の風景として重要だったからという理由だが、だからといってそれがどこの森か、ということが具体的に示されることはない。いっぽう筋書きの中で、上部オーストリアのヴォルフガング湖が具体的な舞台として用いられているのが、ラルフ・ベナツキーのオペレッタ『白馬亭にて』。これを観れば、例えば雨が降る様子ひとつをとっても、この湖特有の自然現象が分かるというものだ。何しろ当作品のもっとも有名なナンバーのひとつは、ヴォルフガング湖の自然や人々や風景を歌い上げたものなのだから（『ザルツカンマーグートでは、みんな愉しくすごせるね』）。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　以上、自然が音楽の中にどのように現れたのかについて、そうした音楽に関する選りすぐりの例を取り上げながら、ごく手短に概説してみた。だがこの小文が読者の皆様の中に、そうした作品に親しみたいという好奇心を喚起し、あるいは既に曲そのものをご存じの場合でも、自然に対する親近感という視点から、それらの作品により親しみを持っていただける機会となれば幸いである。もちろん今回扱ったのは、有名な作曲家の例がほとんどだった。もしも、今日あまり顧みられる機会のない彼らの同時代人のことを話題にできたのであれば、取り上げた例の数がさらに増えたことは、火を見るより明らかである。</p>



<div style="height:100px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/essay-2/"><img decoding="async" width="100" height="50" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/4c3a107ab8e98f3e66d5675184960f6e.gif" alt="Essayへ戻る" class="wp-image-13619"/></a></figure></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/"><img decoding="async" width="100" height="100" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/fe979e14110c992e9c02c00035a265d6.gif" alt="Eine Pause 2020へ戻る" class="wp-image-10540"/></a></figure></div>The post <a href="https://kusa2.jp/2020/09/30/12-1/">【ビーバ博士のエッセイ集】オーストリアの作曲家が作った自然の音楽～選りすぐりの事例から考える～</a> first appeared on <a href="https://kusa2.jp">草津夏期国際音楽アカデミー＆フェスティヴァル</a>.]]></content:encoded>
					
		
		
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		<title>【ビーバ博士のエッセイ集】ウィーンのリヒャルト・シュトラウス</title>
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		<dc:creator><![CDATA[academy-office]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 23 Sep 2020 01:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ビーバ博士のエッセイ集]]></category>
		<category><![CDATA[Eine Pause 2020]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>文：オットー・ビーバ／日本語翻訳：小宮正安 第35回プログラムより（2014年発行） 　リヒャルト・シュトラウスは、様々な場所で活躍した人物である。ざっと眺めただけでも、まずは21歳の折、マイニンゲンの公爵の宮廷音楽監督 [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">文：オットー・ビーバ／日本語翻訳：小宮正安</p>



<p class="wp-block-paragraph">第35回プログラムより（2014年発行）</p>



<p class="wp-block-paragraph">　リヒャルト・シュトラウスは、様々な場所で活躍した人物である。ざっと眺めただけでも、まずは21歳の折、マイニンゲンの公爵の宮廷音楽監督に就任した。マイニンゲンはドイツ中部のチューリンゲン地方の小さな街で、当時は公爵が居城を構えた上、宮廷楽団が設けられていた。それは例えば、モーツァルトの時代におけるザルツブルクや、ハイドンの時代におけるエステルハーザやウィーンやアイゼンシュタットのような光景であり、前者においては大司教が、後者においてはエステルハージ侯爵家が支配していたのである。（なおマイニンゲンに次いで、シュトラウスはミュンヒェン、ワイマール、ベルリンでこれも宮廷管弦楽団を指揮するようになる。宮廷管弦楽団とは、その土地々々の君主の宮廷によって組織運営され、宮廷の名声を高める重要任務を負ったオーケストラのことだ。）<br>　マイニンゲン時代、シュトラウスはきわめて幸福な環境にあったが、およそ１年以上そこに留まった後、ミュンヒェン宮廷管弦楽団の第3楽長として彼の地へと赴いた。地位的に見ればワイマールよりもおよそ格下のポストだが、ミュンヒェンは彼の故郷だったこともあり、このような決断をしたのだろう。またそうした事情も手伝って、3年後にワイマールから宮廷楽長として招聘を受けると、それを受諾。1894年には再びミュンヒェンへ、今度は宮廷楽長として返り咲くも、1898年にはベルリンの宮廷楽長となり、10年後には音楽総監督の地位にまで登り詰め、ベルリンのオペラに責任を負う立場となった。しかも音楽総監督となった1908年、シュトラウスはバイエルン南部のガルミッシュに新築になったばかりの邸宅へと引っ越す。というのも彼はベルリンを仕事の中心としてはいたものの、到底この街に住む気にはなれなかったからだ。実際1917年にはベルリン芸術大学の作曲科の教授となるも、3年後にこの職を辞することとなった。何しろ1918年から19年にかけて、シュトラウスはベルリンでの仕事を少しずつ減らしていったほどなのだから。<br>　1918年、シュトラウスは妻とともにウィーンへ引っ越し、1919年にはフランツ・シャルクとともにウィーン国立歌劇場の監督を務めはじめる。そして1924年にこのポストを辞めた後、彼が何か決まった地位に就くことはもはやなくなった。<br>　当時シュトラウスは60歳。無理に専任のポストを手に入れなくても、そこかしこから客演要請の声がかかり、さらに彼自身作曲活動に充分な時間を割きたいと望むようになっていた。逆に言えば驚くべきことに、彼はこの年齢に至るまで、指揮活動を十二分におこなうだけでなく、管理職も兼ねた地位で仕事をし続けていたのである。というのもシュトラウス曰く、豊かな市民にふさわしい生活を送るためには、作曲活動だけでは金銭的に足りず、そのため生活の多くを指揮活動に割かなければならなかった。またそれゆえに、作曲活動に少しでも専念できる時間を確保すべく、日常業務のかたわら充分な休暇がとれるよう気を付け、とりわけベルリン時代にはこれまで以上の充分な休暇を取得できるよう努めたのだった。<br>　1922年、シュトラウスはウィーンに大邸宅を建て始め、1924年そこへ引っ越した。それはガルミッシュの邸宅よりも大きく、一家の本拠地となるはずだった。ところがこれが完成したまさにその年、シュトラウスはウィーン国立歌劇場の監督を辞めてしまう。それでも彼としては新築になったウィーンの邸宅に住みたいと願い、家族ともども１年の大半はここに、そして夏だけガルミッシュに行くというスタイルがとられることとなった。「ガルミッシュは元々、夏の住まいでした」とシュトラウスの孫も語っているほどである。<br>　ところが第二次世界大戦が勃発し、ウィーンでも空爆の危機が迫り始めた1944年から45年にかけて、シュトラウス一家はガルミッシュに引き上げ、この地で敗戦を知ることとなる。そして敗戦後間もなくシュトラウスはスイスへ赴くが、敗戦処理で進駐してきた連合国側の命令により、ドイツやオーストリアに入国することができなくなってしまった。1947年、度重なる働きかけの結果、オーストリアに進駐している4ヵ国による許可を得ることが必要という条件付きで、シュトラウスにオーストリアの国籍が与えられた。当時のウィーンは激しい空爆に晒された直後であり、食糧や日用品もほとんど手に入らないような状況だったにもかかわらず、シュトラウスはそこまでしてこの街へ戻りたかったのである。ところがウィーンの邸宅は進駐軍によって召し上げられ、他の人間が住んでいた。しかもそれをシュトラウスに返却するというような話は、ついぞ出なかった。<br>　1949年、シュトラウスに対し、スイスを出てドイツのガルミッシュへ入国してもよいとの許可が出された。そしてこの年の6月11日、85歳の誕生日を迎えた彼は、ウィーン楽友協会から祝福のメッセージをもらった返礼として、ウィーンで「敬愛する会員の皆様に、間もなくお目にかかり直接ご挨拶したい」としたためている。だがその機会は、もはや巡って来なかった。1949年9月8日、シュトラウスはガルミッシュで息を引き取った。</p>



<p class="has-text-align-center wp-block-paragraph">＊</p>



<p class="wp-block-paragraph">　シュトラウスとウィーンとの関係は、彼が1924年にこの街に邸宅を完成させる遥か以前の青年時代にまで遡り、しかもそれはきわめて緊密で多岐にわたっていた。以下、ウィーンにおける彼の多彩な芸術活動を眺めて行こう。<br>　1882年12月、18歳のシュトラウスは初めてウィーンへとやって来た。彼は街を観光し、宮廷歌劇場（国立歌劇場の前身）やブルク劇場を訪ねた。さらにウィーン・フィルハーモニー管弦楽団（以下「ウィーン・フィル」と略）の演奏会にも足を運び、オーケストラの素晴らしさに感嘆して次のように述べた。「僕たちのところでもこのように素晴らしい演奏ができるのならば、演奏会もより優れたものとなるだろうに。」つまり彼はウィーンへやって来ることで、ウィーン・フィルと、地元のミュンヒェンの宮廷管弦楽団とを比較できるようになったのである。<br>　なお比較ということでいえば、シュトラウスは当初、こと管楽器に関してはウィーンの音色を気に入らなかった。というのも彼の父親はミュンヒェンの宮廷楽団のホルン奏者だったこともあり、シュトラウス自身、ミュンヒェンの管楽器の音色に慣れ親しんでいたからである。その点ウィーンでは、ホルンやトランペットの楽器そのものからして異なっており、それが大きな違和感を覚える原因となったのだろう。逆に後年になると、シュトラウスはこのウィーン独特の響きをきわめて高く評価するようになったのだが。<br>　1892年、ウィーン・フィルはシュトラウスの交響詩『ドン・ファン』を初めて取り上げ、これをきっかけに、折に触れて彼の交響詩を演奏することとなった。ただしオーケストラや聴衆はシュトラウスに好意的だったものの、一部の新聞の批評は否定的だった。そうした状況の中、シュトラウスを積極的に評価したのが、ヨハネス・ブラームスだったのである。ちなみにブラームスは、マイニンゲン時代のシュトラウスと既に個人的に知り合っていた。<br>　1902年、シュトラウスのオペラ『火の消えた街』がウィーン宮廷歌劇場で上演される。これは、この劇場で彼のオペラが取り上げられた最初の出来事だった。<br>　それから4年後の1906年8月17日、シュトラウスは初めてウィーン・フィルを指揮した。これはカール・ムックの代役であり、現在のザルツブルク・フェスティヴァル（通称ザルツブルク音楽祭）の先駆的存在であるザルツブルク音楽フェスティヴァルでの出来事だった。結果、オーケストラは彼の指揮に熱狂し、その後も演奏会を是非指揮してほしいと懇願。それに対し、シュトラウスはすぐに首を縦にふるようなことはせず、まずはギャラに関する条件を出した。ここからも分かるように、彼は常に商売熱心であり、しかも実利的で交渉上手だった。<br>　1906年12月16日、シュトラウスは指揮者として、ウィーン楽友協会大ホールで開催されたウィーン・フィルの定期演奏会にも満を持してデビューする。そしてそれからというもの、ウィーンで、あるいは演奏ツアーで、彼はウィーン・フィルを合計98回も指揮したといわれており、指揮者とオーケストラの間に相思相愛の関係が築かれることとなった。1910年に故郷のミュンヒェンで「リヒャルト・シュトラウス・フェスティヴァル」が開かれた際にも、彼はわざわざウィーン・フィルを呼び寄せているほど。そしてウィーン・フィルはこのフェスティヴァルで主要なプログラムを担当し、シュトラウスの指揮で3回演奏会に出演した他、多くの室内楽の演奏会にも登場した。<br>　なおこの演奏会に際し、シュトラウスはウィーンでリハーサルをおこなったのだが、その間を縫って1910年6月19日、ウィーン宮廷歌劇場でも初めて指揮をしている。そしてその時の演目に選ばれたのが、自作の『エレクトラ』だった。<br>　シュトラウスとウィーン・フィルとの共同作業における更なるハイライトはというと、例えば1923年におこなわれた南アメリカ・ツアーが挙げられるだろう。また1924年にウィーン・フィル主催による記念すべき第1回目の舞踏会のために、彼はオープニング用のファンファーレを作曲し、それ以来、楽友協会大ホールでおこなわれるウィーン・フィル舞踏会では毎年この曲が響いている。<br>　70歳の誕生日には、ウィーン・フィルの名誉会員に指名された。75歳と80歳の誕生日を迎えた1939年と1944年には、家族や親戚の間でおこなわれるような親しい雰囲気の祝賀パーティがウィーン・フィルによって催され、楽友協会大ホールではシュトラウスが指揮をして2度にわたる演奏会が開かれた。なお80歳記念の演奏会では、シュトラウスとウィーン・フィルによる数々の録音の中でも最後となる録音がおこなわれ、これがコンサートホールにおける両者の最後の共演となった。というのもこれに続き、やはりシュトラウスの80歳を祝し、ウィーン国立歌劇場でおこなわれた彼の自作オペラ『ナクソス島のアリアドネ』の上演が、シュトラウスと彼の愛するオーケストラ（同歌劇場のオーケストラ団員が自主運営している演奏会用のオーケストラがウィーン・フィルである）の本当に最後の共演機会となってしまったからである。<br>　いずれにしても、シュトラウスがいかにウィーン・フィルに満足していたかは、彼がオーケストラの創立100周年を祝った手紙にはっきりと記されている。その中で彼は、自分がこのオーケストラの弦楽器の音色に惚れ込んでいると述べた後、次のように書いた。「それに勝るとも劣らず私が評価しているのが、管楽器の弱音、ハープの輝かしさ、常に優雅さを失わない打楽器です。皆さんの芸術的な功績は、世界中の聴衆に熱狂を巻き起こし、称賛の的となっています。皆さんに対する賛辞を、私はごく手短に2つの文章にまとめてみたいと思います。『ウィーン・フィルを指揮した者だけが知っている。あなた方が何者であるかということを！』。しかしこれは、私たちだけの秘密です。何しろ皆さんは私のことをよく分かっていらっしゃるのですから。この祝いの場でも、また譜面台を前に演奏をする時も！」<br>　シュトラウスは、ウィーン・フィルの団員の幾人かとは個人的な友達付き合いもおこなった。名コンサートマスターとして知られるアルノルト・ロゼ、彼よりはるかに若い年代のヴォルフガング・シュナイダーハン、チェリストのフリードリヒ・ブクスバウム、ヴァイオリニストのヴァルター・ヴェラー1世やオットー・シュトラッサー……。<br>　さらにティンパニストのハンス・シュネラーは、シュトラウスの自伝的作品ともいえる「家庭交響曲」で、シュトラウスが楽譜に書いていたのとは異なる演奏を即興的におこなった。しかもシュトラウスはそれをいたく気に入り、この箇所をいつもそのように叩いてくれるようシュネラーに頼んだのである。というわけで、シュトラウスのこのきわめて個人的な作品がウィーンで演奏される場合は、他の場所で演奏される時と異なって、作曲者当人のお墨付きをもらったいわばウィーン・フィル・バージョンを今もなお聴くことができるのである。</p>



<p class="has-text-align-center wp-block-paragraph">＊</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ブラームスやグスタフ・マーラー同様、シュトラウスも自作をウィーンで初演することには、きわめて慎重だった。そのため、ウィーンをはじめとする重要都市で新作を取り上げる以前に、どこか別の街でいわば試演をおこなうのが常だったのである。<br>　例えばオペラを初演するにあたっては、ドレスデンは理想的な都市だった。そこには優れたオペラハウスがある一方で、音楽の中心地という点ではウィーンとはまったく比べ物にならず、世界中の音楽界に圧倒的な影響力を持つような評論家もいなかったからである。聴衆にしても、ウィーンのように仮借ない批判をする者は少なかった。<br>　というわけで、シュトラウスがウィーンで初演した舞台作品と言えば、オペラ『影のない女』とバレエ『泡立ちクリーム』の2曲だけだった（前者は1919年、後者は1924年）。『ナクソス島のアリアドネ』については、1912年にシュトゥットガルトで初演がおこなわれた後、シュトラウスは改訂の必要性を痛感し、1916年に第2稿にあたる改訂版のウィーン初演を敢行した。さらにウィーン国立歌劇場のためのベートーヴェンとモーツァルト作品の編曲版（『アテネの廃墟』と『イドメネオ』）の初演も、ここでおこなっている。<br>　シュトラウスにとってもっとも重要なオペラの台本作家も、ウィーンの人間だった。具体的には、フーゴー・フォン・ホーフマンスタール、シュテファン・ツヴァイク、ヨーゼフ・グレゴールであり、彼らはウィーン人ならではの人生観を台本の中に織り込んだ。またそれゆえに、シュトラウス自身、芸術的にも人間的にも、彼らへの理解を深めることができたのである。<br>　同じことは、やはりウィーン人だった演出家のマックス・ラインハルトやロタール・ヴァラーシュタイン、天才的な舞台美術家のアルフレード・ロラーにも当てはまる。ウィーン出身だったり、ウィーン在住だったりした音楽家ともシュトラウスは親しく交際し、彼らを高く評価していた。マーラー、エミール・ニコラウス・フォン・レズニチェク、ヴィルヘルム・キーンツル、フェーリクス・ワインガルトナー。フランツ・シャルク（ただし彼とは後に仲違いすることとなる）、クレメンス・クラウス、ルドルフ・モラール、カール・ベーム、イゾルデ・アールグリム。またここでは名前を記すスペースがないが、男性女性を問わず数々の歌手たち……。<br>　シュトラウスが、若き日のアルノルト・シェーンベルクを賛美し、支援したことも忘れてはならない。もっとも後年、シェーンベルクがさらなる進歩を遂げ新たな道を歩んでゆくにおよび、シュトラウスは彼に対して失望するようになったのだが。<br>　シュトラウスはウィーンで、文学者のサークルとも親しく付き合い、何人もの文学者と友達になった。その中には、ホーフマンスタール、ツヴァイク、グレゴールのように、直接彼のオペラのために台本を書いた者もいたが、それ以外にもアルトゥール・シュニッツラー、リヒャルト・ベーア・ホフマン、アントン・ヴィルドガンスといった著名人も含まれていた。またルートヴィヒ・カルパート、マックス・グラーフ、ハインリヒ・クラリックといった音楽評論家と交友を結んだのも注目に値する。なおこのように評論家と音楽家が親しく交際した例といえば、カルパートとマーラー、あるいはエドゥアルト・ハンスリックとブラームスを思い出される向きも多いだろう。<br>　さらにウィーンでの交友関係は、芸術家以外にも、例えば大工場経営者として有名だったマンフレード・フォン・マウトナー＝マルクホーフにまでおよんでいる。シュトラウスはマウトナー＝マルクホーフを心から理解しており、また非常に信頼していた。実際1947年、マウトナー＝マルクホーフはシュトラウスがオーストリア国籍を獲得したいと願った際、それが迅速に滞りなくゆくよう取り計らったのである。<br>　なおマウトナー＝マルクホーフの妻は、ウィーンの画家として名高いレオポルト・クーペルヴィーザーの子孫に当たる。クーペルヴィーザーといえば、1826年に彼が結婚式を挙げるに当たって、フランツ・シューベルトがピアノのためのワルツを贈った人物だ。ちなみにこのワルツ、未出版のままマウトナー＝マルクホーフ家に保存されていた。それをシュトラウスはマウトナー＝マルクホーフ夫妻の家で演奏し、1943年にはこの作品が失われることのないよう、またあらゆる人が目にすることができるよう、楽譜を書き写す作業までおこなったのである。これぞウィーンの音楽的な伝統における素晴らしい一例であって、シュトラウスがシューベルトの作品のプロモーターとしても活躍したことを物語るエピソードといえよう。<br>　ウィーンの音楽的な伝統は、作曲家としてのシュトラウスにもインスピレーションを与え続けた。「もしも何かよいメロディが欲しくなった時には、よくシューベルトの歌曲を1ダースほど弾いてみることにしている。」このようにシュトラウスは述べている。<br>　もちろんシュトラウスの場合、シューベルト作品のメロディをそのまま引っ張って来るのではなく、シューベルトがメロディを考えつくにあたっての秘密を丹念に追い、シューベルトが用いたのと同じ技術の上に、独自のメロディを創造してゆくのだった。これもシュトラウス曰く、彼はどこか遠くからシューベルトのことを考えるのではなく、シューベルトをひたすら「慕い、演奏し、口ずさみ、感嘆」していたのである。<br>　シュトラウスはモーツァルトについても、その「劇場に関する偉大な本能」について感嘆の念を隠さなかった。当然のことながらシュトラウス自身、オペラを書くにあたっては台本作家と協議を重ね、どのようにして道を切り拓いてゆけばよいかを探り、そのための努力を惜しまなかった人物である。その彼が、モーツァルトこそ「人間が生きてゆく上での感情をあらゆる角度から描きつくし」「人間の感情の表現をあますところなく」音楽的に表現できた究極の存在である、と述べているのだ。<br>　ベートーヴェンに関しても、彼がオペラ『フィデリオ』を作曲する際、台本の成立に積極的に関わったという経緯を、シュトラウスは積極的に参考にした。そしてモーツァルトやベートーヴェンがおこなったように、ホーフマンスタールやツヴァイクやグレゴールが台本を作製してゆく過程において、シュトラウス自身、熱心にそれに関与していったのである。<br>　有名な『〈ばらの騎士〉のワルツ』がヨーゼフ・シュトラウスのワルツを下敷にしているのも、けっして偶然ではない。シュトラウスが述べているように、それは意図的におこなわれたものだった。何しろ彼は、ヨーゼフの兄であるヨハン・シュトラウス2世と「個人的に会い、言葉を交わした」ことを生涯自慢にしていたほどなのである。またシュトラウス兄弟をそこまで尊敬するようになったのも、ウィーンの伝統の中に彼が身を置くようになったからこそだったからともいえる。「目にするもの耳にするもの、何でも複雑に難しく考えようとする時代のただなかにあって、ヨハン・シュトラウスの天賦の才能は、森羅万象を汲み上げて創造できる能力に満ちていた。彼はまさに、原初的な閃きに溢れた最後の人物の1人なのだ。原初的で、根源的で、メロディ以前のもの……まさに彼はそれらを具えていた。」</p>



<p class="has-text-align-center wp-block-paragraph">＊</p>



<p class="wp-block-paragraph">　シュトラウスはウィーンで、この街に住む友人たちのホーフマンスタール、ラインハルト、バールらとともに、長年温めてきた構想についての議論を重ね、ついにそれを実現させた。これぞ先述したザルツブルク・フェスティヴァルの創設であり、同フェスティヴァルの事務所は当初はザルツブルクではなく、ウィーンの楽友協会会館の中に置かれていた。しかもフェスティヴァルの組織作りに当たっては、楽友協会の組織がモデルにされた。<br>　この事実もまた、ウィーンにおけるシュトラウスを語る際には見逃せないものである。シュトラウスは生涯にわたってザルツブルク・フェスティヴァルのことを気にかけていたが、それもこれも楽友協会というウィーンに生まれ育った組織が手本になっていたのだから。<br>　もちろんシュトラウスは、他にもウィーンの様々な音楽団体と密接な関係を持っていた。1914年にウィーン・コンツェルトハウスがオープンした際には、オルガンと管弦楽のための『祝典前奏曲』を作曲している。楽友協会会館も彼の指揮活動にとって、いわばホームグラウンドであり、生前からその作品が幾度となく上演された。また彼にとっては楽友協会資料館も重要な存在であった他、1916年には協会から名誉会員の称号を受けている。さらに1924年にはウィーン名誉市民の称号を得た他、晩年にオーストリア国籍を与えられたことは、ウィーンに根差し活動してきたことへの褒美ともいえる出来事だった。<br>　実際シュトラウスは国籍授与の通知を前に、次のように述べている。「これは私にとって、魂の故郷であるオーストリアと愛すべきウィーンに長年携わってこられたことの特別な象徴なのだ。」</p>



<div style="height:100px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/essay-2/"><img decoding="async" width="100" height="50" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/4c3a107ab8e98f3e66d5675184960f6e.gif" alt="Essayへ戻る" class="wp-image-13619"/></a></figure></div>



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<p class="wp-block-paragraph"></p>The post <a href="https://kusa2.jp/2020/09/23/11-1-2/">【ビーバ博士のエッセイ集】ウィーンのリヒャルト・シュトラウス</a> first appeared on <a href="https://kusa2.jp">草津夏期国際音楽アカデミー＆フェスティヴァル</a>.]]></content:encoded>
					
		
		
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		<title>【ビーバ博士のエッセイ集】ヴェルディ、ワーグナー、そしてウィーン</title>
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		<dc:creator><![CDATA[academy-office]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 16 Sep 2020 01:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ビーバ博士のエッセイ集]]></category>
		<category><![CDATA[Eine Pause 2020]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>文：オットー・ビーバ／日本語翻訳：小宮正安 第34回プログラムより（2013年発行） 　ジュゼッペ・ヴェルディはワーグナーの天賦の才を認め、何の嫉妬もなくそれを受け入れた作曲家のひとりである。ワーグナーの芸術的な方向性に [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">文：オットー・ビーバ／日本語翻訳：小宮正安</p>



<p class="wp-block-paragraph">第34回プログラムより（2013年発行）</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ジュゼッペ・ヴェルディはワーグナーの天賦の才を認め、何の嫉妬もなくそれを受け入れた作曲家のひとりである。ワーグナーの芸術的な方向性については時に付いてゆけない場合もあったものの、それでもワーグナーの作品を研究し、―意識的にせよ無意識的にせよ―彼から多くの影響を受けた。「私だって、音楽とドラマとの融合を試みてきた」、これはヴェルディの言葉の中でもよく引用される一節だ。「オペラ『マクベス』においてもそうしたのだが、ワーグナーがおこなっているように自分で台本を書くことはやはりできなかった。」あるいは今日、ヴェルディのオペラ『ファルスタッフ』に、ワーグナーからの明らかな影響を見て取ろうとする動きもある。<br>　だがそれでも、両者の類似性や影響を逐一探ってゆくことは、さほど重要とは思えない。大事なのは、ヴェルディがワーグナーをライヴァル視したり、芸術上の敵などとはけっして見なしていたりしなかったということ。むしろヴェルディにすれば、ワーグナーは作曲家仲間であって、畏敬すべき存在に他ならなかった。<br>　いっぽうワーグナーの場合は、まったく逆である。彼はヴェルディに近づこうともしなければ、近づくこともなかった。何しろヴェルディに対して、公式には何もコメントを残していないほどである。もちろん裏を返せば、それは彼なりにヴェルディを認めていた証でもあったのだろう。というのもワーグナーの場合、他の作曲家に対して否定的な見解を述べたり書いたりする場合が非常に多かったからだ。1875年11月、ワーグナーはウィーンの宮廷歌劇場でヴェルディの『レクイエム』を聴く機会に恵まれたが、終演後ついにそれについての見解を口にすることはなかった。ウィーン中がかたずを飲んで見守っていたものの、結局は徒労に終わった。<br>　それでもウィーンの聴衆は、この2人の作曲家を同じように受け入れ、称賛し、敬愛した。何しろ当の本人たちがウィーンに足を踏み入れるはるか以前から、彼らの作品はこの街でつとに知られていたのだから。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><strong>ジュゼッペ・ヴェルディ</strong><br>　1843年、ヴェルディ29歳の折のこと。彼は人生初となる外国旅行に出かけ、ウィーンへ足を踏み入れる。そして4月4日、5日、1年前にミラノで世界初演されたオペラ『ナブッコ』のウィーン初演を、みずからの指揮でおこなった。彼はこの街の宮廷歌劇場管弦楽団（それに先立つこと数年前、オットー・ニコライの指揮の下、楽団のメンバーが集まってウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が創設されていた）に熱狂し、オペラ上演も成功を収めた。人々は家庭でもこのオペラを楽しめるよう、ピアノ独奏用、ピアノ連弾用、さらには弦楽四重奏用等に編曲された楽譜を買い求め、オペラの中に登場する有名なメロディーはすぐさま巷に広まった。<br>　ところで『ナブッコ』には、当時北イタリアを占領していたオーストリアに対する抵抗心が描かれているということが、今日さかんに唱えられている。さらには囚人たちの合唱曲として有名な「行け、わが想いよ、黄金に翼に乗って」が、オーストリアに支配された北イタリアの人々の心情を描いたものだ、ということも。だがそれらははっきり言って間違いだ。そもそも国家政治というものに対し、ヴェルディは常に一定の距離をとっていた。またヴェルディはオペラ『ナブッコ』を、当時のオーストリア皇帝フランツ1世の姪にあたるアーデルハイト大公妃に捧げている。しかも、もしもこのオペラが反オーストリア的なテーマを素材としていたならば、それがウィーンの宮廷歌劇場で上演されることなどなかったろう。というわけで、『ナブッコ』における反オーストリア的要素云々といった話は、後世の人々が考え出したものにすぎない。<br>　いずれにしても『ナブッコ』は成功を収めた。またその後もヴェルディの新作オペラは宮廷歌劇場で上演され、批評家たちは彼がロッシーニやドニゼッティの跡を継いでイタリア・オペラの未来を担う偉大な作曲家になれるか否かを議論し合った。こうしてヴェルディのオペラは、世界初演から程なくして、ウィーンでも定期的に初演されるようになった。またそれを受けて、多くの作曲家がヴェルディのオペラの主題に基づいて変奏曲を作るようになった。<br>　ヨハン・シュトラウス2世も1850年代から60年代にかけて、ヴェルディのオペラに登場するメロディーを用いたダンス音楽を作曲し、ヴェルディの音楽をウィーンだけではなく世界中に広める役割を果たしている。シュトラウスのダンス音楽が世界各地で演奏されていたためで、例えば「『仮面舞踏会』のカドリール」作品271などは典型的な作品といえるだろう。その他にもシュトラウスはウィーンはもとより、パヴロフスクやサンクト・ペテルブルクの夏の演奏会で、ヴェルディの作品そのものをしばしば取り上げた。<br>　1875年6月3日、ヴェルディは妻のジュゼッピーナを連れて、2度目となるウィーン滞在をおこなった。彼らはホテル・ムンシュ（ここには現在、ホテル・アンバッサダーが建っている）に投宿。ヴェルディは新装だった宮廷歌劇場（現在の国立歌劇場）で、『アイーダ』と『レクイエム』の上演を指揮した。いわばそれは世界的に有名になった人物の凱旋公演であって、その将来的な資質に疑問を差し挟む者などもはやひとりもいなかった。ヴェルディはこれらの上演に大変な満足と感動を覚え、ウィーン宮廷歌劇場のために新作オペラを1曲書く約束をおこなった。―ただしそれが実現することは、残念ながらなかったのだが。<br>　いずれにせよヴェルディがウィーンに滞在した出来事は、きわめてセンセーショナルであり、ヨーロッパ中の新聞がそれについて書き立てた。何しろヴェルディ指揮の公演を訪れる人々のために、ウィーンの南部から出発する鉄道には特別列車が仕立てられ、彼らが終演後深夜に無事帰宅できるよう便宜が図られたほど。<br>　ヴェルディはウィーン滞在中、ウィーン楽友協会の資料室と音楽院を訪問している。資料室では、当時の室長だったカール・フェルディナント・ポールの出迎えを受けた。居合わせた人々の証言のおかげで、ヴェルディが資料室でどのような時間を過ごしたかが今でもよく分かる。<br>　ヴェルディは、彼にとって「唯一の偉大な作曲家」であるベートーヴェンの直筆や遺品を見たいと希望した。そこでポールはまず、ベートーヴェンのデスマスクを見せたところ、ヴェルディはそれを感慨深げに長い間眺めていた。また「英雄交響曲」の有名な直筆総譜（表紙にはナポレオンに宛ててしたためられた献呈の辞をベートーヴェンがこすり取った跡が残されている）をポールが持ってきたところ、ヴェルディはその前で帽子をとり、畏敬の念を示した後、およそ半時間もの間それをじっくり研究した。『新自由新聞』の記事によれば、ヴェルディが「この素晴らしい作品のあらゆる音符を知り尽くしている」ことが、その様子からは分かったそうである。あるいは別の新聞に曰く、ヴェルディが「作品の隅から隅まで理解しているのは一目瞭然だった」。さらにジャーナリストで評論家でもあったテオドール・ヘルムの記憶によれば、ヴェルディは総譜を「深い感動を身体一杯に湛えながら研究していた」。<br>　またヴェルディの興味を特に引いたのが、ベートーヴェンがボン時代に作曲し、断片としてしか残されていないヴァイオリン協奏曲ハ長調の直筆譜だった。この曲は当時未出版の状態だったのだが、ヴェルディはその場に一緒にいたウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターであり、楽友協会音楽院のヴァイオリン科教授でもあったヨゼフ・ヘルメスベルガーとあれこれ議論をした結果、その4年後ヘルメスベルガーは当協奏曲を自ら補完し、第1楽章を初出版することとなる。いずれにしてもヴェルディはベートーヴェンのことを「あらゆる時代や国々が生んだ作曲家の中でももっとも偉大な存在」と呼んでおり、そうした人物に対する感動を繰り返し、しかも生き生きと表明した。<br>　その後ヴェルディは楽友協会資料室で、フランツ・シューベルトの手稿や直筆譜を閲覧した。（ただしそれらが何であったのかについては、残念ながら分からない。）さらにはオリジナルの直筆譜だけでなく、作曲家の遺品にも興味を抱いた彼は、例えばモーツァルトの遺髪を目にしている。それでもこの様子を見ていた人々にとってみれば、ヴェルディが偉大な作曲家たちの直筆や遺品に大きな興味を示す一方で、新しいものに対する見聞や経験を大事にしていることは明らかだった。再び『新自由新聞』の記事によれば、「未だかつてベートーヴェンの直筆を見たことがなかったヴェルディは、ウィーンでこのような素晴らしい遺品をたくさん発見できた喜びを、繰り返し口にしていた」。つまり彼は先達たちの直筆譜を、研究用の音楽資料としてだけではなく、遺品としても受け止めていたということだろう。<br>　ところでヴェルディのウィーン楽友協会訪問は、彼のために特別に企画された演奏会で幕を開けた。出演は楽友協会音楽院の生徒たち、会場は協会の小ホール（現在のブラームス・ザール）である。10歳から14歳の男女の生徒からなる音楽院管弦楽団が、ヨゼフ・ヘルメスベルガーの指揮の下、最初にフランソワ・オーベールの序曲を演奏した。ヴェルディは演奏の出来栄えに心底驚き、賛辞の言葉を重ねながら次のように語っている。「このような音楽院のオーケストラが世界的に見てトップの実力を誇っているのだから、ウィーンはすごいですね。他の街にも音楽院はありますが、そもそもここまでのオーケストラを具えている例などありません。」<br>　この後、音楽院の生徒たちが、『椿姫』や『イル・トロヴァトーレ』からアリアやデュエットを披露。彼らの歌唱力にも、ヴェルディは心底感銘を受けた結果、特にソプラノのエテルカ・ゲルストナーをヴェネツィアのフェニーチェ劇場に推薦し、彼女は1875年12月に同劇場で『リゴレット』のジルダ役でデビューした。また彼女は翌年もヴェルディのお蔭で、ジェノヴァの歌劇場と契約することとなった。<br>　ところでヴェルディは楽友協会音楽院で、音楽院のカリキュラムや組織についても質問を重ね、最後に感嘆の言葉を述べている。「今日ここで披露してもらった成果に、私が心底驚いたことをご存知ですか？」次いで、このように続けた。「この組織に備わっている素晴らしい秩序は、生徒たちの成長にとって一番理にかなったものでしょうね。」またヴェルディは―若い頃オルガニストだったこともあり―楽友協会大ホールのオルガンも案内してもらい、大変な感銘を受けている。またそうした事情からヴェルディは1898年、自らの「アヴェ・マリア」をウィーン楽友協会合唱団が世界初演することを許可した。<br>　ウィーン滞在中のヴェルディは、時の皇帝フランツ＝ヨーゼフから、個人的な謁見を賜る機会に恵まれた。その際皇帝はヴェルディに対し、外国人が受けられる最高の勲章＝「フランツ＝ヨーゼフ勲章の星付コムトゥア章」を授与する。これはイタリアの誕生に当たって吹き荒れた反オーストリア的、国家的な動きの中で、ヴェルディが毅然とした態度を貫き、そうした動きに利用されなかったことに対する感謝のしるしに他ならなかった。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><strong>リヒャルト・ワーグナー</strong><br>　ワーグナーは19歳のおりはじめてウィーンを訪れ、彼自身の言葉に曰く、この街に我が家のような親しみを覚えた。彼は当時既に作曲家としてそれなりに知られており、ウィーン楽友協会でも認められた存在だった。またヨハン・シュトラウス1世とその楽団に魅了されたのもこの時だった。<br>　ワーグナーが2度目にウィーンへやって来たのは1848年のこと。彼はこの街を足掛かりに、ドイツ語圏の劇場の改革を夢見ていた。この街が若々しい力に満ちているという印象を持った彼は、自らの斬新な理想を他ならぬウィーンから広めてゆけると考えていたのである。<br>　ところがワーグナーは、当時本拠地としていたドレスデンで勃発した革命に加担したかどでスイスに亡命の身となり、恩赦が与えられる1861年まで彼の地にとどまっていなければならなくなった。それでもこの間も、彼はウィーンと度々コンタクトを取り続けた。あるいはヨハン・シュトラウス2世は、自らの演奏会でワーグナーの作品を取り上げ、その中には楽劇『トリスタンとイゾルデ』からの数曲の世界初演も含まれていた。また1857年以降、ワーグナーのオペラはウィーンで上演されて大成功を収め、とりわけ『タンホイザー』『ローエングリン』『さまよえるオランダ人』は人気演目だった。<br>　スイスでの亡命生活を終えたワーグナーは、ウィーンに腰を据えるという計画を抱くようになり、1863年にそれを実行に移す。彼は、シェーンブルン宮殿からさほど遠くない優雅な住宅地に家を構え、その中に豪華な内装を施し、何人もの使用人を雇った結果、すぐさま借金まみれの身となった。結果、ついには債務過剰のかどで逮捕を逃れるべく、ウィーンから逃げ出した。<br>　この事件が起きる前、ウィーンの宮廷歌劇場はワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』の世界初演に向け、ピアノ・リハーサルを開始していた。トリスタン役とイゾルデ役にはそれにふさわしい経験豊かな歌手が起用され、彼らはこの作品に深い感銘を受けながら音楽と一体となってリハーサルを進めていった。<br>　ところがトリスタン役の歌手が突然病気になり、1864年にはそれが原因で死去することとなる。そうした状況の中、彼の力は急激に衰え、声にも支障が出るようになってしまった。同じくイゾルデ役の歌手も、トリスタン役の歌手ほど危険な状態ではなかったものの病気にかかり、体力低下により役を務めることができなくなった。ワーグナーはイゾルデ役の彼女に理解を示し、トリスタン役のテノール歌手にも同情したものの、もはや代わりの歌手を見つけるだけの時間がなかった。そこで、この2人の歌手が再び歌えるようになるか否かがはっきりするまで『トリスタンとイゾルデ』の世界初演を延期しよう、ということになったのである。ワーグナーにとっては、この作品の初演にあたって別の歌劇場など考えられなかった。また当時作曲中だった楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』も、ウィーンで上演する心づもりだった。<br>　いっぽうワーグナーと対立する人々は、『トリスタンとイゾルデ』が上演不可能であり、どのような優れた歌手でもこの作品を歌えないという噂を流した。何しろ主役級の2人の歌手ですらリハーサルで声を失い、それもこれもワーグナーが彼らの声をダメにしたのだと……。それに対しワーグナーの信奉者は、『トリスタンとイゾルデ』の初演ができなくなったのは、この作品に適した歌手を起用できなかった宮廷歌劇場に責任がある、と主張した。ありていに言えば両陣営の言い分とも間違いなのだが、今日にいたるまでワーグナー関係の本を見ると、この間違った主張がいたるところに引用されているというのが現実だ。<br>　じっさいこの時期に書かれたワーグナーの手紙をきちんと読めば、主役の歌手2人が降板し初演が不可能になったことに対し、彼がけっして失望していたのではなかったということはよく分かる。あるいは、他の歌手を用いてウィーンや別の場所での初演の機会を探っていたのではないということも。ワーグナーは当時、ゆくゆくは「指揮のヴィルトゥオーゾ」をして生きてゆこうと思い、作曲家としても指揮者としても称賛されることを望んでいた。ちょうど『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を完成させようとした頃だが、作曲家として持てはやされたいとはさほど考えていなかったようである。<br>　ワーグナーは、借金についても気に病んではいなかった。最初のうちは、何週間か経ってほとぼりが冷め、新たにどこからか借りた金で借金の埋め合わせをすればウィーンに戻れ、豪華な屋敷暮らしを再開できると考えていたのである。ところがその間に、彼のもっとも大事な友人（その人の名はヨゼフ・シュタントハルトナーといい、ウィーン楽友協会の執行部も務めていた人物である）が件の屋敷を売り払って借金を帳消しにし、債務超過によって外国でもワーグナーが逮捕されかねない状況を回避してくれたのだった。そこでワーグナーはウィーンに住むことを諦める羽目になったのだが、別段その状況に怒ったわけではなく、ましてウィーンに腹を立てることもなかった。<br>　ワーグナーはウィーンで、後の人生に大きな影響をもたらすような貴重な経験を積んだ。中でも重要なのが、個人的な事柄においても芸術的な事柄においても自らの途方もない要求を可能とするには、金持ちの大支援者が必要だと考えるようになったこと。つまりは、ワーグナーの要求全てを満たせるような生活様式を可能にし、彼のオペラを理想的な形で―それも上演回数を制限して質の高い上演だけをおこなえるような音楽祭の実現をもたらしてくれる人物、ということになる。じっさいこの頃のワーグナーは、自らのオペラを自らの音楽祭で上演できさえすればそれでよく、その後それらが様々な歌劇場で取り上げられてゆくことについてはさほど関心を持たなくなりつつあった。<br>　こうしてワーグナーはウィーンでの経験を通じて、今日私たちにもお馴染みの人生に乗り出してゆく。実際彼は、やがて莫大な額の金を用立ててくれる支援者を見つけた。その人こそ、バイエルン王のルートヴィヒ2世。彼の援助の甲斐あって、ワーグナーはバイロイト音楽祭を創設し、指揮者として演奏旅行を展開してゆけるようになった。<br>　指揮者としての演奏旅行をおこなう際にも、ワーグナーは特に足しげくウィーンを訪れた。そしてウィーンの人々も彼を作曲家としてだけでなく、指揮者として大いに称賛していた。既に1856年、モーツァルトの生誕100周年記念の演奏会を開催するにあたって、ワーグナーを指揮者として招こうという動きもあったほどだ。（ただし、この計画が実現することはなかった。）<br>　あるいはウィーンを本拠地としていた時代、ワーグナーは演奏会を催しては輝かしい成功を収めている。それらの演奏会では、自作のオペラの一部が取り上げられたのだが、オペラ本体から切り離して上演する必要があったため、特に新たに演奏会用に「ウィーン版」が作られた。また後年、ワーグナーはウィーン楽友協会大ホールで演奏会を指揮することがあったが、そこでの収益はバイロイト祝祭劇場の建設資金に充てられた。そしてこの劇場が完成し、バイロイト音楽祭が始まった後は、ウィーンとバイロイトを往復する特別列車にウィーンの人々が乗り込み、彼の地を訪ねていったのである。<br>　ところで他所の場所と同じく、ワーグナーと対立する人々はウィーンにも現れた。彼らはワーグナーの芸術的意図を理解せず、それゆえワーグナー本人からも拒絶されたのだが、興味深いことにワーグナーは彼らに対し怒りを露わにするのではなく、無視するという形をとったのである。つまり彼らは対立する存在ではあっても、敵ではなかったということだ。たとえばこの時、ワーグナーから拒絶された批評（たとえばエドゥアルト・ハンスリックのもの）が今日では当たり前のように取り上げられる場合が多いが、これらはあくまである事象に的を絞った文学作品であって、読者が感心しながら読むことを前提に書かれたものであることを忘れてはならない。<br>　というわけで、巷間言われるワーグナーとブラームスの敵対関係なども実際には存在しなかったのである。何しろ『トリスタンとイゾルデ』がウィーンで世界初演される計画が持ち上がった時、ブラームスは写譜の手助けをおこなっているほどだ。またワーグナーがウィーンに構えた豪華な邸宅をブラームスが訪れ、楽興の一時を愉しんだこともある。ただしこうした機会は、残念ながらけっして数多くなく、長続きもしなかった。というのもワーグナーが債権者から逃れなければならなくなったためである。<br>　逆にワーグナーもブラームスの演奏会を何度か訪れ、もっとも目立つ一番前の席に座ることをもっぱらとした。それによって自分がブラームスに興味を持っており、ブラームスを拒絶しているのではないことを人々に示そうとしたためである。さらにブラームスが直筆譜を集めていることを知ったワーグナーは、自らの直筆譜のいくつかや、『ラインの黄金』の総譜を送ってさえいる。なお当時ウィーンで活躍していた指揮者のハンス・リヒターは、ブラームスともワーグナーとも親交を結んでいた。<br>　計画こそあったものの、結局ワーグナーがウィーンに腰をおろすことはなかった。それでもウィーンはワーグナーにとって重要な街であり、ウィーンにとっても彼は重要な存在であり続けたのである。<br>　興味深いのは、ヴェルディとワーグナーが、ウィーンにいた若い作曲家たちにどのような影響を及ぼしたのかという問題である。実のところ多くの作曲家はワーグナー志向であり、ヴェルディを規範としようとする者はほとんど現れなかった。ヴェルディの衣鉢を継ぐにはイタリア人でなければならないと信じられていたためであって、それはイタリア人がワーグナーのように作曲できないと考えられていたのと同じこと。というわけで若きウィーンの作曲家にワーグナーが及ぼした影響は大きく、ヴェルディのそれは小さいということになるのだが、それでも彼らは両者を同じく称賛していた。その典型的な例こそ、グスタフ・マーラーだったのである。</p>



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<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/essay-2/"><img loading="lazy" decoding="async" width="100" height="50" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/4c3a107ab8e98f3e66d5675184960f6e.gif" alt="Essayへ戻る" class="wp-image-13619"/></a></figure></div>



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		<title>【ビーバ博士のエッセイ集】フランツ・リストとオーストリア＝ハンガリー</title>
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		<pubDate>Wed, 09 Sep 2020 01:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ビーバ博士のエッセイ集]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>文：オットー・ビーバ／日本語翻訳：小宮正安 第32回プログラムより（2011年発行） 　フランツ・リストが生を受けたライディグという町は、今日ではオーストリアの領土となっている。詳しく言うとオーストリアのブルゲンラント州 [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">文：オットー・ビーバ／日本語翻訳：小宮正安</p>



<p class="wp-block-paragraph">第32回プログラムより（2011年発行）</p>



<p class="wp-block-paragraph">　フランツ・リストが生を受けたライディグという町は、今日ではオーストリアの領土となっている。詳しく言うとオーストリアのブルゲンラント州に位置しており、この州は1921年に誕生した。だがリストが産声を上げた1811年10月22日当時、ライディングはハンガリーの領内にあり、しかもハンガリーはオーストリア帝国の一部に組み込まれていた。<br>　1867年、オーストリア帝国の統治形態が変わり、新たにオーストリア＝ハンガリー二重帝国が成立した。この新帝国では、オーストリア帝国とハンガリー王国が互いに独立した国家形態を保ちつつも、行政面においては部分的に共同統治をおこない、君主も二重の統治機能を担っていた。つまり時の皇帝フランツ・ヨーゼフは、オーストリア皇帝であると同時に、ハンガリー王となったのである。これぞ二重帝国と呼ばれる所以であり、わざわざオーストリア=ハンガリーと表記される所以なのだ。<br>　なおオーストリア=ハンガリー二重帝国の誕生にあたり、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフとその后エリーザベトはハンガリー王ならびに王妃となるべく、オーフェン（現在のブダペスト）で戴冠式に出席した。時は1867年6月8日。式に際してはミサが挙行されたが、それにあたってミサ曲を作曲するよう要請を受けたのがリストである。というわけでこの時彼が作ったミサ曲には、「ハンガリー戴冠式ミサ曲」という副題が付けられた。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ただしリストがハンガリー人だったかといえば、けっしてそうではない。彼の両親はともに、ウィーンを取り囲むオーストリアの一地域、ニーダーエスタライヒの出身だからである。<br>　父親であるアダム・リストはエーデルスタールという町に生まれ、その両親はゲオルクならびにバルバラ・リストという名前だった（この時の彼らの苗字は、ドイツ語風にListと綴られていた）。母親の旧姓はアンナ・ラーガーといい、ニーダーエスタライヒの中心地クレムスの出身。娘時代はウィーンで小間使いとして働いていた。いっぽう父親の方は長じてからは、故郷のエーデルスタールからさほど遠くないプレスブルク（現在はスロヴァキアの首都であるブラティスラヴァ、当時はハンガリーに属していた）で学業を修める。やがて1798年、ハンガリーの貴族エステルハージ侯に仕える官吏となり、政治、司法、経済の各分野で活躍した。そして最初の勤務地であるフォルヒテナウを振り出しに、アイゼンシュタット、そして1808年以降はライディングに住むようになった。これらの都市はいずれもハンガリーの領内であり、しかも当時のハンガリーはオーストリア帝国の一部だった。<br>　なおライディングに腰を落ち着けたアダム・リストは、自分の苗字をハンガリー風にLisztと改めた。そして1810年アンナ・ラーガーと知り合い、1811年1月11日に結婚。同年10月22日に彼らの一人っ子として生まれたのがフランツ・リストである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　アダム・リストは音楽の才能にも恵まれており、多くの楽器を演奏することができた。時には、ヨゼフ・ハイドンやその後継者であるヨハン・ネポムク・フンメルが楽長を務めていたエステルハージ侯の宮廷楽団に、エキストラとして出演したほどである。<br>　こうした事情もあり、アダム・リストは自分の息子フランツに音楽的才能があることを知るや否や、1822年に家族ぐるみでウィーンへと引越し、息子をカール・チェルニーやアントニオ・サリエリの下で学ばせることとなった。1824年になると今度はパリへ居を移し、さらなる音楽教育を息子が続けられるよう環境を整えた。フランツ・リストは父親の尽力によって神童として広く名を知られるようになり、父親とともに幾度となく演奏旅行をおこなった（イギリスにも3回渡っている）。いっぽう母親は1825年にオーストリアに戻り、最初は故郷のクレムスに、次いでグラーツに住んだ。そうこうしているうち、1827年8月28日に父親が死去。母親は再びパリへ戻り、1866年になるまで彼の地で生活を続けることとなる。<br>　リストは1835年に愛人のマリー・ダグー侯爵夫人とともにジュネーヴに居を構えるも、1838年以降はヴィルトゥオーゾとして旅から旅への生活を送るようになり、1848年から61年にかけてようやくヴァイマルに落ち着いた。1861年から70年まではもっぱらローマを生活の中心とした。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　演奏旅行の途上、リストはペスト（今日のブダペスト）や、他のハンガリーの都市でコンサートを開いた。だが彼とハンガリーの関係が、それ以上発展することもなかった。<br>　例えばリストはハンガリー語を話せなかった。というのも彼は多民族国家オーストリア帝国の民であり、当時この帝国に存在する多くの民族と同様、もっぱら帝国の公用語たるドイツ語を話していたからである。<br>　というわけで、リストはハンガリーよりもむしろオーストリア帝国への結びつきを折りに触れて示すこととなった。その典型こそ、1838年、時のオーストリア皇帝フェルディナントがコンバルディアならびにヴェネツィア王となった際、ミラノでの戴冠式に呼ばれた出来事だろう。しかもこの後彼は皇帝一家に客として招かれ、パドヴァに滞在すらしたのである。<br>　というわけで、当時リストは「世界市民」と呼ばれていた。今風に言えば、オーストリアの旅券を所有したヨーロッパ人といえようか。さらに1859年10月30日には、時のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフによってオーストリア貴族に叙せられた。といっても貴族になったからといって、実質的にさほどメリットがあるわけではなかったのだが。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　リストのハンガリーに対する興味は、長い間単に音楽的なもの、しかも民俗音楽的な視点からのものにすぎなかった。ロマとその音楽について取り組み、ハンガリーの民族音楽、とりわけロマの音楽に影響されて数々のハンガリー狂詩曲を作ったり、ハンガリー行進曲を書いたりしたのはその頭な例である。<br>　なお、外国からの圧制に対する革命音楽であったラコッツィ行進曲をリストがオーケストラ用とピアノ用に編曲したのは有名なはなしであり、これによって彼はハンガリー国内では自国と密接な関係にある作曲家と見なされるようになった。ただし当人としては、本作を通じてハンガリーの独立を訴えるつもりなど毛頭なく、単にハンガリーの伝統に影響された音楽を手がけたにすぎなかったのである。<br>　こうした出来事に見られるように、リストがハンガリーの音楽を好んでいたという事実は、広い視点から捉えるべき問題なのだろう。たしかにハンガリー音楽に寄せる彼の嗜好はきわめて強いものがあったが、一方でフランス、ボヘミア、ポーランド、イタリアやスイス、果てはアフリカの音楽に至るまでその興味と嗜好が尽きることもなかった。つまりリストとしてみれば、自分にとって異質な音楽の全てに関心を抱き、それらを好んだのだった。<br>　ただしハンガリーにおいて、リストに対する見方はまったく異なっていた。ハンガリーの地に生まれた世界的ピアニストにして作曲家、そしてハンガリーの音楽に興味を抱いていた人物として、彼は人々にとって誇るべき存在となったのである。<br>　例えばペスト（今日のブダペスト）の国民劇場でリストが演奏会をおこなった時のこと。ハンガリーの貴族たちは、本来貴族にのみ帯刀を許されているサーベルを彼に対し特別に贈った。そしてこの象徴的な出来事により、リストは貴族と同等の人物と見なされるようになったのであった。<br>　そうでなくてもリストは、ハンガリーの側から事あるごとに顕彰されることとなった。こうした動きに対し、彼の側も別段固辞する理由などなくとりあえず応じてはいたものの、それでもあくまで中立的な立場を貫いていた。<br>　ようやくリストがハンガリー側からの働きかけに応えるようになったのは、1870年代になってからである。1871年、彼はハンガリー王国の頭問官に任命された。もちろんそれは名誉称号であったものの、4000グルデンの特別年金が支給されるというものだった。またその2年後、ブダペストに音楽院を作る決定がなされるが、その院長としてリストの名が挙がり、彼もまたそれを受諾した。同年、かつて神童時代のリストがペスト（現在のブダペスト）で初舞台を踏んでから50年経ったことを祝い、ブダペストでは大々的な祝典がおこなわれた。ちょうどこの時オーストリア皇帝夫妻もブダペストに滞在していたが、彼らはハンガリー王夫妻でもあるという立場から、リストをブダペストにあるみずからの居城へと招待した。<br>　さらにハンガリーの音楽家や政治家、貴族たちは、国際的な音楽シーンにおいてリストをハンガリー人として売り出そうと画策した。結果、リスト自身も彼らの熱心な願いを受け容れ、1878年に開催されたパリ万博においてハンガリーの楽器を展示するための審査委員を務めたのである。<br>　1881年、リスト自ら先導役をつとめてきたブダペスト音楽院の新校舎がついに完成、建物の中には彼専用の住まいも作られた。そしてこれ以来彼は亡くなるまで、年の始めの2・3ヶ月をブダペストで過ごすこととなる。なお夏の間（つまり1年のうちもっとも長い期間）は、ヴァイマルに滞在するのが常だった。それどころか1883年には、4月8日から翌84年の1月31日まで彼の地で過ごしたほどである。その他の期間については、ローマやウィーンに逗留したり、旅をおこなったりするのが常だった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　リストはウィーンにおいてもこの街の人間と見なされていたし、ヴァイマルにおいても同様だった。また別のいくつかの場所…特に伝記上重要とされるのは、ライン河上流域のラインタールに位置するノンネンヴェルトである……については、そこに定住しようと考えたことさえあった。ローマでは1865年に下級聖職者（僧侶の予備段階）に叙せられ、アッペと称するようになって以降、この街に非常に親しむこととなった。<br>　ではハンガリーについてはどうかといえば、仕事の拠点にしようと考えたことこそなかったものの、リストはこの地での滞在を満喫し、ハンガリーが自分を大事にしてくれていることを如実に感じ取っていた。それどころか、ハンガリーの民族衣装を仕立てて嬉々としたり、ハンガリーの音楽家や組織を支援したり、晩年には自らのためにプダペストに作られた住まいを利用したりしたほどである。<br>　1842年以来、リストはヴァイマルにおいて特任の宮廷楽長となった。これは名誉職的なポジションだったが、1848年になると宮廷楽長として現場で実際に活動することとなり、それは1861年まで続いた。さらに1869年以降、多方面に渡る活動や義務から逃れ一休みするための場所として、彼はこの街を毎年訪れるようになった。<br>　ヴァイマルという街は、一方では文化の中心でありながら、もう一方ではこぢんまりとしており、何かと面倒臭い社交的義務からも自由だった。街の人々もリストが滞在してくれることを誇りに感じている一方、彼に対して何かを求めることなく、創作意欲が回復するようそっとしておいてくれた。このような環境は、年老いたリストにとってありがたく、他の場所では得がたいものだった。しかも、彼の娘のコジマがリヒャルト・ワーグナーと結婚後に住んだバイロイトから、ヴァイマルが程遠くない場所に位置しているということも重要であった。<br>　ただし音楽界から完全に身を引いてしまうことなど、リストにはできなかった。1861年にヴァイマルの宮廷楽長を辞してからは一定のポストに就くことはなく、1846年以降公開の場にピアニストとして登場することもなかったにもかかわらず、である。そうした観点から見ると、音楽の中心地ウィーンは彼にとって特に重要な地であった。1838年、39年、そして46年にウィーンでおこなった演奏会は、リストのピアニスト人生にとってハイライトとなった。1856年にモーツァルト生誕100年の記念演奏会で指揮をおこなった際には、多くの物議が醸されるいっぽう、彼を偉大な指揮者と認識する人々も誕生したといえよう。<br>　じっさい、まさしくそうした人物としてリストはウィーンを度々訪れた。年を追うごとにウィーン楽友協会との関係は密接になり、同協会における指導的役割も増した。楽友協会主催の音楽会では、後期の作品を自ら指揮したほどである。ベートーヴェン記念像の除幕式に際して招待を受けたことも象徴的な出来事ならば、1846年以来はじめてピアニストとして登場しベートーヴェンのピアノ協奏曲を演奏したことはさらに象徴的だった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　重要なのは、リストがウィーンでの生活全般の多くを、叔父のエドゥアルト・リスト博士に負っていたという点だろう（エドゥアルトはリストより6歳年下であったにもかかわらず叔父であり、1879年に亡くなった）。エドゥアルトは住まいの一部を、いつでもリストが使えるよう手配し、整えておいてくれた。経済や法律や組織といった諸事についても、エドゥアルトはリストを支援した。エドゥアルトのもとでリストは、ウィーンやヴァイマルの友人たちのもとにいる時のようにくつろぐことができた。つまりそこにいれば、彼は世界的な巨匠としてではなく、愛すべき一人の人間として扱ってもらえたのである。<br>　リストがファンから度を越して「追っかけ」をされるような時、エドゥアルトはリストを置いて、そっとしておくことに力を注いだ。それどころか1度は、リストを逃亡させたほどである。この時リストはわざと人目につくよう、旅行馬車でエドゥアルトの家を出発した。ところが馬車はウィーンのすぐ郊外まで差し掛かると、再びリストを乗せたままウィーンへととって返した。こうして馬車の窓のカーテンをかたく閉ざしたまま、リストは夕方にはエドゥアルトの住まいに戻っていたのである。リストはもはやウィーンにいないと一般の人々が思っていたころ、エドゥアルトとリストは実は既に市中で顔を合わせていたというわけだ。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ピアニストとして活動していた若き日のリストはウィーンにおいて、国際レヴェルのピアノの名手たちと比較されることとなった。というのも当時この街ほど、ピアノの名手が活躍した場所もなかったからである。ショパン、クララ・ヴィーク、ジークムント・タールベルクといった具合に、綺羅星のような存在が並び立ち、ウィーンで名声を得ることはヨーロッパ中に轟く名声を得るための重要な足がかりだった。<br>　また当時のウィーンは、ヨーロッパにおけるピアノ製造業の中心地だった。リストはコンラート・グラーフやヨハン・バプティスト・シュトライヒャと個人的関係を持ち、後にはかのイグナツならびにルートヴィヒ・ベーゼンドルファーとの付き合いを通じ、きわめて大きな影響と刺激を受けるようになる。<br>　指揮活動をおこなったり、ワーグナーやブルックナーを中心とする新ドイツ楽派の一人に数えられるようになったりして以降、ウィーンはリストにとってますます神聖かつ重要な地点と化した。ブラームスを持ち上げる一方でワーグナーやブルックナーをこき下ろすような批評が巻き起こると、後者の評価をまっとうなものにすべくリストは一大キャンペーンをおこない、それはウィーンを超えて絶大な成果をもたらした。その一方で1882年には、ハンス・フォン・ビューローの出演するブラームスの演奏会を訪れ、大いに感銘を受けている。ウィーンにあっては、単なる流派や楽派の違いを超越したところに芸術家が存在していた……、そのもっとも美しい出来事の一つであるといえよう。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　リストとウィーンとの結びつきということで言えば、彼がこの街で生涯にわたる重要な出版者を見つけたことも忘れてはならない。1824年、神童として鳴らしていた13歳のリストに、アントン・ディアベリが声をかけてきたのである。ディアベリは自らのところで出版している変奏曲の楽譜を充実させるべく、有名かつ優れた作曲家に対し自作のテーマによる変奏曲を書いてくれないかと打診を繰り返しており、リストにも白羽の矢が立ったのだった。ひょっとするとこの出来事こそ、リストがはじめて作曲家として認識された最初だったかもしれない。<br>　その15年後、今度はトビアス・ハスリンガーが、リストがウィーンで編曲したラコッツィ行進曲を出版した。この行進曲はハンガリー革命の際に歌われた古いメロディに基づいており、それを公にすることは当局から禁じられていたのだが、ハスリンガーは検閲官を次のように説得して出版にこぎつけたのである。日く、リストの芸術はそうした否定的な政治的状況を忘れさせてくれるほどの力がある、というものだった。<br>　その他にも、リストの作品を出版したウィーンの出版者については枚挙に暇がない。ウィーンの楽譜出版者は、作曲家リストにとって特別に重要な存在であり続けたのだった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　リストはハンガリーの側からは自国の音楽家と受け止められ、そのように喧伝されていたものの、それがウィーンで真に受けいれられることはまったくなかった。人々はリストに好意的であって、ウィーンこそ彼のルーツの源であり、華やかな特徴を最大限に発揮できる場所であることを知っていたのである。<br>　じっさいウィーンで活躍した数々の作曲家を見るに、ロマの音楽に感激し、そこから霊感を受けたのはリスト一人ではない。それはウィーンの音楽的伝統であって、少なくともヨゼフ・ハイドンにまで遡ることのできるものだったのである。彼もまた、ハンガリーのあるいはロマのメロディに基づいて作曲をおこなったほどなのだから。<br>　ウィーンではロマの楽団も活躍しており、大編成で演奏会をおこなったり、小編成で飲食店や野外のアトラクションに出演したりしていた。そして、リストも当然のようにウィーンでこうしたロマの音楽を体験し、それが彼の創作に大きな影響を及ぼしたのである。重要なのは、ロマの楽師の中でも優秀な人々はウィーンを目指したという点だ。というのもハンガリーではロマの音楽はあまりに日常的な存在であって、さして見向きもされなかったため、名声を得たり金を稼いだりしたければウィーンへ出て行く必要があったのである。<br>　つまり相矛盾するかのようだが、ハンガリーのあるいはロマの音楽はハンガリー以外で有名になり、その重要拠点こそウィーンだった。こうした傾向はリストの世代にあっても、また彼よりも年下のヨハネス・ブラームスの世代にあっても同じであった。ブラームスも主にウィーンでロマの音楽のメロディに親しみ、それを自作のハンガリー舞曲へ採り入れたのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　若き日のリストはウィーンにおいて、ベートーヴェンの弟子であり彼の信頼を一身に受けていたチェルニーからピアノを学び、フランツ・シューベルトを教えたことのあるサリエリから作曲を習った。それによって彼は、ウィーンの音楽的伝統のルーツをその根本に至るまで会得できた。<br>　なおこの経験は、リストの人生にとって大きな意味を持つこととなった。彼がシューベルトの歌曲をピアノ独奏用に編曲したり、あるいは華やかな演奏会用作品（シューベルトのワルツ・カプリースに基づいて書かれた「ウィーンの夜会」）を作ったりしたことは、何よりの証拠である。たしかにリストはシューベルトの使徒として、彼の作品を世に広めることに成功した。と同時に演奏家としての彼は、ベートーヴェンの使徒でもあった。彼のピアノ演奏は全ヨーロッパを魅了し、模範的と評価されたわけだが、師がチェルニーでありさらにその師がベートーヴェンであったことを考えると、それはけっして不思議でも何でもないといえよう。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　にもかかわらず、リストを指して典型的なオーストリアの作曲家とは言いがたい。ましてや、典型的なハンガリーの音楽家などとはとても言えない。たとえかの有名なハンガリー狂詩曲を作曲し、それらが実にハンガリー風に聞こえたとしても、やはり彼はハンガリーの作曲家ではないのだ。というよりもむしろ、例えば交響詩や、実験的かつ未来を先取りしたような後期の声楽曲、ピアノ曲、オルガン曲など、リストの作品には他にも重要なものがいくつもあり、しかもそれらはさほど一般的ではないときている。そしてこれらの作品に耳を傾けると、オーストリア的な伝統はおろか、ハンガリー的な影響など一切存在しないことが分かるのだ。<br>　しかもこうした音楽を通じ、リストははじめて自らの目的を達成できたといえるかもしれない。師のチェルニー、しいていえばウィーンにルーツを持つヴィルトゥオーゾ的で派手なピアノ作品は、今も昔も既に充分すぎるほどの名声を得てきた。だがまさに、この伝統路線・ポピュラー路線を外れ、未知の領域に新たな一歩を踏み出した瞬間、リストはきわめて実験的で未来的な音楽にわが道を見出せたのである。言葉を変えれば、この新たな一歩のためにこそ、初期の伝統路線・ポピュラー路線が存在したともいえよう。逆に聴き手の側としても、ウィーンの伝統とハンガリーのメロディに心動かされていた時代のリストを知ることで、型破りで実験性に富み、未来音楽の様々な形態に惹かれていった後期のリストを理解し、正しく評価できるのではないか。<br>　今日リストといえば、もっぱら超絶技巧のピアノ作品か、ハンガリーの民族音楽……というよりもハンガリーにいたロマの音楽……からインスピレーションを受けた作品によって有名である。だがそれらは、彼の創作のほんの一部でしかない。だからこそリスト・イヤーとなる2011年は、リストの全貌を知りうるまたとない機会なのである。</p>



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<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/essay-2/"><img loading="lazy" decoding="async" width="100" height="50" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/4c3a107ab8e98f3e66d5675184960f6e.gif" alt="Essayへ戻る" class="wp-image-13619"/></a></figure></div>



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		<title>【ビーバ博士のエッセイ集】シューマンとショパン―二人が生きた時代と環境</title>
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		<pubDate>Wed, 02 Sep 2020 01:00:19 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ビーバ博士のエッセイ集]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>文：オットー・ビーバ／日本語翻訳：武石みどり 第31回プログラムより（2010年発行） 　ローベルト・シューマンとフレデリック・ショパンの音楽作品はロマン派様式であり、2人はロマン派の作曲家と位置づけられる。しかし、この [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">文：オットー・ビーバ／日本語翻訳：武石みどり</p>



<p class="wp-block-paragraph">第31回プログラムより（2010年発行）</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ローベルト・シューマンとフレデリック・ショパンの音楽作品はロマン派様式であり、2人はロマン派の作曲家と位置づけられる。しかし、この2人とその作品をよりよく理解するためには、彼らが生きた時代と環境についてさらに深く探求する必要があろう。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　シューマンもショパンも1810年生まれで、今年が生誕200年にあたる。彼らが生きた時代はビーダーマイヤー時代として知られるが、ビーダーマイヤーは音楽の様式概念ではない。ベートーヴェンは古典派様式で作曲をしたが、その生涯の重要な時期をビーダーマイヤー時代に過ごした。フランツ・シューベルトもまたビーダーマイヤー時代の作曲家である。彼はベートーヴェンよりも一世代若く、ロマン派様式で作曲した。すなわち、ビーダーマイヤー期特有の音楽様式というものは存在しないが、この時期、ビーダーマイヤーの生活様式を前提として音楽が生み出されたのであった。<br>　<br>　ビーダーマイヤー時代とはいつの時期を指すのであろうか。歴史学者は、1815～30年の時期がビーダーマイヤーの最盛期であったという点で見解が一致している。しかしその前には、当然のことながらビーダーマイヤーの形成期があった。それは1792～1814年と考えてよいであろう。またその後、ビーダーマイヤーの生活様式は徐々に見られなくなっていく。その意味で、ヨーロッパ各地に革命がおこった1848年がビーダーマイヤーの決定的な終焉と考えられる。ビーダーマイヤーの生活様式の特徴として、公の場を避けて引きこもり、心地よい我が家で家族や友達に囲まれて過ごすプライベートな生活を優先したことが挙げられる。一人で家にいるときには読書が理想的な活動であったが、家族や友達と過ごす際には音楽や社交遊戯が求められた。個人の居宅での営みに特別な意味づけがされていたため、人々は住居を―ビーダーマイヤー様式の―美しい家具や絵画で飾った。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　このような生活様式を引き起こす前提条件となったのは、次の二つである。最初に政治的な条件として、いわゆる対仏大同盟戦争が1792年にヨーロッパで起こった。ヨーロッパ中の国家が、まずはフランス革命の波及を阻止するため、次いでナポレオンのヨーロッパ征服を阻むためにフランスに対抗して同盟を結んだ。この戦争により厳しい国内政策がとられることとなり、印刷物や政治問題に関する意見表明のすべてが検閲され、公の活動がすべて監視されることとなった。そのためにスパイとして密かに警察に協力した人間も多かった。それゆえに人々はお互いを信用せず、誰にでも自由かつ自発的に考えや意見を述べることはなかった。1814～15年のウィーン会議によってヨーロッパに政治的な新秩序が生まれ、ヨーロッパのすべての国に平和がもたらされた時、ほぼ22年にわたって続いた戦争の末に和平会議で生み出された状況を固守し、平和を長く保つことに最大の努力が払われた。そのために警察は引き続きスパイ活動と検閲を行った。新しい政治思想が不穏な動き、ひいては革命を引き起こし、その結果やっと得られた平和を崩しかねないからである。人々は、劇場やオペラ（上演プランは厳しく検閲されていた）、コンサートや喫茶店（新聞を読んだりゲームをしたりはするが、見知らぬ人との会話には巻き込まれないようにした）、舞踏会やその他のダンス（そのような場ではスパイ活動が難しかった）に出掛けた。しかし、それ以外の生活や娯楽は、基本的に個人の家での集まりで行われた。<br>　ビーダーマイヤーの生活様式が成立した第二の前提は、社会構造の変化である。1780年頃から、市民階級は啓蒙思想によって新しい自覚と自己理解をもつようになった。もはや貴族を畏れて遠くから仰ぎ見るのではなく、貴族の生活様式を引き継ぎ、さらに変化を加えたのである。その一方で、1790年頃から貴族が市民の特徴を引き継ぐ「市民化」が見られるようになった。こうして、以前は非常に異なっていた社会階層が近いものとなり、かつては貴族の宮殿で当然のように行われていた祝祭、招待、もてなし、音楽の催しが、今や自意識の向上した市民の間でも行われるようになった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　以上のような政治的、社会的構造的前提は、ヨーロッパの至る所でさまざまな特徴と密度をもって存在した。したがって、ビーダーマイヤーとはヨーロッパ全体にわたる現象であり、さまざまな国でさまざまな呼び方がされている（イギリスでは、この時代をヴィクトリア朝前期と呼んでいる）。しかし、ウィーンの様式的影響圏内においては、すべての分野においてビーダーマイヤーの特徴が特に明確に表れている。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ビーダーマイヤー時代には、貴族にも市民にもいわゆる「サロン」が存在した。「サロン」という言葉はこの時期特に重要で、二つの意味をもつ。一つは住まいや家の中で最も美しい場所を意味し、もう一つはそのような場所で行われる集まりや夕べの催しへの招待を意味する。「音楽サロン」とは、家族や友達、客人の前での演奏を意味し、貴族の間でも市民階級においても行われた。これはステータス・シンボルでも何でもなく、演奏のできる人や音楽が好きな人にとっては当たり前の日常的な営みであった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　音楽サロンは、冬の半年間に週に一度、いつも同じ曜日の同じ時期に開かれるのが決まりであった。とりたてて招待状を出すことはなく、家族や友人の間で知っている人、来たい人が参加した。その家族の友人が、さらに自分の友人を連れてくることもできた。演奏するのは家族のメンバーであるが、時に応じてゲストが演奏することもあった。一種の「オープン・ハウス」である。後に一般的になった家庭コンサートと違うのは、きちんと椅子を列に並べて聴いたのではなく、スペースのある所にすわったり立ったりして、あるいは部屋のドアを開け放して隣の部屋で聴くこともあるという聴き方だった。この時代のピアノ曲、室内楽曲、歌曲の大部分は、このような演奏目的のために作曲されたのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　フレデリック・ショパンとローベルト・シューマンは、このようなウィーンのサロンで心から歓迎された。ショパンは1829年の夏と1830～31年の冬にウィーンに滞在した。彼は、芸術家として国際的な経験を積むのにワルシャワを起点とすべきではなく、主要な音楽都市を起点としてウィーンを選んだ。彼はウィーンという町に「麻酔をかけられたように感動し魅了されて、望郷の念はまったく無い」と自ら記している。そして最初の3週間の滞在のうちに「ウィーンの主要な音楽家すべてと知り合いになった」と誇らしげに家族に報告している。彼は公開の場で演奏会を開くように強く求められ、そこで大成功を収めたことによって、ウィーンに留まる気持ちはないかと打診された。しかし、いろいろと思案を重ねた挙句、結局は主に政治的な理由によってウィーンを去ることになった。それは次のような事情である。ウィーン会議で講和条約が締結されたことにより、ポーランドは―多くの人が期待したように―新しい独立国家にはならず、ロシアの一部となった。（今日ポーランド領となっている一部の地域は、当時はオーストリア領であった。）1830年にはポーランド国家樹立を目指して、ロシアに対する反乱がワルシャワで起こり、ショパンはこれに強く共鳴した。しかし、ウィーン滞在中に、オーストリア政府が氾濫とポーランド国家樹立に対して―確立された秩序を乱すこととして―難色を示し、反乱を鎮圧すべきという見解を示したことを知ったのである。そこで彼はパリに移り、反乱軍の革命的民族主義的思想について将来的に人々の理解と賛同が増すことを期待した。しかしパリでは芸術家として、ウィーンにおけるほどの賞賛と親しみをもって迎え入れられることはなく、さらなる評価を求めて努力を要する状況が続くこととなった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ローベルト・シューマンは、クララ・ヴィークと結婚するつもりで、1838年の初頭にクララと共にウィーンにやってきた。ウィーンが夫婦の新しい故郷となるように、あらゆる準備を整えるつもりであった。彼は敬意と尊敬、そして親しみをもってウィーンの音楽界に受け入れられた。シューマンは、出身地のライプツィヒよりもウィーンで名が知られていることに驚いた。ウィーンの人々はシューマンと知り合いになり、将来はシューマンをウィーンの音楽家を紹介できることを誇りに思った。彼は、クララと、そしてゆくゆくは子どもたちと暮らすための美しい住居を難なく見つけることができた。ヨーロッパ中に楽譜を販売していたウィーンの音楽出版社は、ショパンと同様シューマンにも大きな関心を抱いた。作品を出版することは、ライプツィヒにおいてよりも容易であった。シューマンはほどなく、ウィーンの音楽家の中にお互いよく理解できる友達を見つけた。ショパンと同様に、ウィーンの音楽サロンにも喜んで迎えられ、大きな賞賛を受けた。彼は、つい10年ほど前に亡くなったベートーヴェンとシューベルトの墓を訪ね、墓前に立って心から感動した。そして、フランツ・シューベルトの兄フェルディナント、シューベルトやベートーヴェンの友人たちと知り合い、2人の巨匠の話に喜んで耳を傾けた。ウィーン楽友協会資料室では、当時の資料室長フランツ・グレッグルに温かく迎え入れられた。グレッグルはシューマンに、シューベルトが楽友協会に献呈したハ長調大交響曲の自筆楽譜を見せた。この曲はウィーンでは2回演奏されたが、当時の聴衆には理解が難しく、演奏会は成功しなかった。グレッグルはシューマンにこの曲の筆者スコアをプレゼントした。（この作品が当時はまだ初演されておらず、シューマンがそのスコアをウィーンで発見したという伝説は、よく語られてはいるが間違いである。）シューマンはウィーンで行われるオペラやコンサートの豊かさに感激し、驚くほど多くのオペラとコンサートを聴きに行ったことを日記に記している。しかしウィーンにおいても、時折うつ病の症状が表われた。そうすると彼は落ち込み、不満だらけで批判をまき散らしたが、自分がうつ病に苦しんでいることを打ち明けて助けを求めることのできる人は誰もいなかった。さらに、ショパンとはまったく異なるものの、シューマンもまたウィーンで政治的な問題に突き当たった。彼は自分が創刊した『音楽新報』をライプツィヒで刊行しており、その編集を職業として糧を得ていた。シューマン夫妻は将来的に、クララがピアニストとして活動し、ローベルトが『音楽新報』の編集者を務めることでウィーンでの生活費を得ようと考えていた。そのためにはこの雑誌の編集部をウィーンに移さなければならず、その許可を検閲機関から受ける必要があった。しかし、これは容易なことではなかった。そもそも、外国で刊行されている雑誌をそのままウィーンで出版するということ、編集者も外国から移住し、また原稿は外国にいる協力者からウィーンの編集部に送られてくるということ自体が普通のことではなく、想定外のことであった。法律的には、外国の雑誌は一定の条件の下でのみオーストリアへの導入が許可されるため、当局は、外国で刊行されている雑誌をそのままウィーンで出版するという計画に難色を示した。警察でも検閲機関でも、それが禁じられているとか不可能であるとシューマンに言う者は誰もいなかった。シューマンの名声と栄誉が重んじられたからである。しかし、この出版プロジュクトを許可できるのか、許可するとしたらどのような方法をとればよいのかについて、長い間検討が続けられた。シューマン自身も、このような政治的要因をはらむ問題を充分に理解することができず、莫大な資金があるわけでもなく、大きな影響力をもつウィーンの友人や崇拝者たちを頼ることも望まなかった。結局、うつ状態に陥っていた時に堪忍袋の緒が切れて、彼は荷物をまとめて1839年4月5日にライプツィヒに戻ってしまった。突然ウィーンを去ったことについて、「心の中ではよい思い出と悲しい気持ちがとりどりに交錯しています」と書き送っている。シューマンには嫉妬の気落ちも多少あったのかもしれない。彼がウィーンで描いていた将来の計画には困難が立ちはだかったが、クララがピアニストとして活動することは多くの人が熱望していた。すでに1837年～38年の冬にウィーンで開いたコンサートで大成功を収めて以来、クララには多くの崇拝者が存在した。「ウィーンでは、君はすばらしい追憶の的となることだろう」と、ローベルトはクララに書き送っている。「いつでも、熱狂的な記事に君の名前がいくつも記されている。」シューマンはそのことを本当に誇りに思い、喜んでいたかもしれない。しかしうつ状態に陥ると、自分がクララほど賞賛されておらず真価が認められていないと感ずる、根拠のない嫉妬と不安は、その後ますますエスカレートして大きな問題の種となった。そもそも、クララがピアニストとして名声を得、ローベルトは作曲家として認められるということが、ウィーンを活動の本拠として将来を構想した際の前提であったはずである。シューマンの精神状態の混乱ぶりは、突然ウィーンを去る直前に、感動をもって記した次の書面からもうかがい知ることができる。「クララ、僕たちはウィーンで生き、ウィーンで死のう。」ウィーンへの移住が実現できなかったのはもちろんシューマンの性格のせいでもあるが、その背後にあった政治的状況も特に大きな要因であった。もし検閲やそれに伴う問題が無かったとすれば、シューマンはウィーン定住をあきらめなかったであろう。クララの父親がローベルトとの結婚を承諾しなかったために、ライプツィヒでの結婚は裁判の判決が出て初めて可能となった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ウィーンにおけるショパンとシューマンの運命は、ビーダーマイヤーの二面性を表している。政治的状況に起因する問題により、2人はウィーンに住み続けることができなかった。しかし、このような政治的状況が生み出したビーダーマイヤーの生活様式、そして音楽にとって理想的な前提条件が、2人をウィーンにひきつけたのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　また、次の点も忘れてはならない。ショパンにとってもシューマンにとっても、ウィーンで過ごした時期は失われた時間ではなかった。2人ともウィーンのビーダーマイヤーに触れる中で芸術家としての天性を確固たるものとし、また芸術的な影響を受けた。自分に自信がなく臆病だったショパンは、ウィーンで得た賞賛によって強い自覚をもち、世間に認められた芸術家として登場することを学び、当時の芸術家に必要だった新しい自己理解を得た。これがなければ、その後パリで成功することはなかったであろう。二人ともウィーンで、ヨーロッパ全体で通用すること、すなわちピアノ音楽の本来の故郷はコンサートホールではなくサロンであることを体得した。ピアノ音楽（または室内楽）を作曲する対象となる集団はプロの音楽家ではなく、当時肯定的に理解された意味での「アマチュア」―完全に教育された音楽家でありながら音楽で生活費を稼ぐことはせず、自分の楽しみのために自宅で演奏したり、サロンで友人や知人の前で演奏したりする愛好家―であった。このような人々は、ピアノ音楽に小さな形式を必要とした。様式化された舞曲や性格的小品であれ、まったく自由な楽曲であれ、こうした小さな形式の作品を、ショパンとシューマンはウィーン滞在後により多く作曲している。シューマンの場合には、ウィーンの滞在体験がなければ存在しえなかったような作品もある。たとえば「ウィーンの謝肉祭の道化」、「花の曲」作品19のような作品には、作曲技法上もウィーンの影響が表われている。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　2人の作曲家にとって、ウィーンで得た出版社との関係はその後も重要な意味を持ち続けた。ショパンにとってウィーン時代には特に人格形成上重要であり、芸術的にも影響力が大きい。シューマンの場合には、多くの影響を受けたウィーンでの半年間がなければ、まったく別の作曲家になっていただろうと言えるほどである。2人がウィーンで知ったのはビーダーマイヤー期特有の音楽様式ではなく（そもそも、そのような様式は存在しない）、日常生活の中で音楽に特別の場が与えられている、いわば音楽にとって理想的なビーダーマイヤーの生活様式であった。これほどまでに日常生活の中で音楽が重視され、積極的に音楽活動が行われた時代は後にも先にもない。そのような環境で多くの音楽作品が求められ、ウィーン時代は2人の作曲家にとって重要な時期となった。そして、当時はピアノが―音楽史上初めて―楽器として特に優遇されたため、ビーダーマイヤーという時代そのもの、特にウィーンのビーダーマイヤーを体験したことは、ショパンとシューマンのピアノ創作にとってきわめて重要な意味を持つこととなった。</p>



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<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/essay-2/"><img loading="lazy" decoding="async" width="100" height="50" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/4c3a107ab8e98f3e66d5675184960f6e.gif" alt="Essayへ戻る" class="wp-image-13619"/></a></figure></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/"><img loading="lazy" decoding="async" width="100" height="100" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/fe979e14110c992e9c02c00035a265d6.gif" alt="Eine Pause 2020へ戻る" class="wp-image-10540"/></a></figure></div>The post <a href="https://kusa2.jp/2020/09/02/8-1-2/">【ビーバ博士のエッセイ集】シューマンとショパン―二人が生きた時代と環境</a> first appeared on <a href="https://kusa2.jp">草津夏期国際音楽アカデミー＆フェスティヴァル</a>.]]></content:encoded>
					
		
		
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		<title>【ビーバ博士のエッセイ集】ウィーン会議とビーダーマイアー時代の音楽</title>
		<link>https://kusa2.jp/2020/08/26/7-1-3/?utm_source=rss&#038;utm_medium=rss&#038;utm_campaign=7-1-3</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[academy-office]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 26 Aug 2020 01:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ビーバ博士のエッセイ集]]></category>
		<category><![CDATA[Eine Pause 2020]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>文：オットー・ビーバ／日本語翻訳：小宮正安 第36回プログラムより（2015年発行） 　ヨーロッパで22年にわたって戦争が繰り広げられた後、この地域全体の政治的な秩序を新たに築き、待望の平和を打ち立てる―このことを至上命 [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">文：オットー・ビーバ／日本語翻訳：小宮正安</p>



<p class="wp-block-paragraph">第36回プログラムより（2015年発行）</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ヨーロッパで22年にわたって戦争が繰り広げられた後、この地域全体の政治的な秩序を新たに築き、待望の平和を打ち立てる―このことを至上命題として開かれたのがウィーン会議だった。会議に参加するべく、ヨーロッパ全土の君主や大物政治家がウィーンに集ったのは1814年9月のこと。10月には下準備のための折衝が始まり、会議そのものが公式に開催されたのは11月1日、会議が公式に終了したのは1815年6月11日のことである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ウィーン会議は、音楽家や作曲家を様々な面から助け、彼らに数多のインスピレーションや活動の機会を与えた。会議で必要とされるセレモニー等を除いても、会議の参加者にとって、あるいは特に会議とは直接関わりがないもののこの催しを見物しにウィーンを訪れた人々にとって、音楽こそは社交の場において欠かすこのできない存在だったからである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　なおこの会議では、敵方や敗者であろうとも、同盟者や勝者と等しく同じテーブルにつき、ヨーロッパの再編について協議をおこなった。というわけで、同盟関係にある国同士でさえ、このテーマについて込み入った話になると突然争いを始めることもしばしばだったのだが、一方で彼らは皆、演奏会、オペラ、サロンで催される室内楽、舞踏会といった催しにはともに集ったのである。とりわけ音楽は、会議中に起きた様々な誤解を取り除き、当事者同士を近づけてくれる力を持っていた。というわけで主催者側にとってみれば、音楽とは他をもって代え難い切り札に他ならなかった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ウィーン会議に関連する諸相に触発されて作られた音楽―それらは平和への喜び、輝ける未来への期待、あるいは会議の中で起きた出来事を音で表現したものだった。そしてこれらの作品は広く出版され、必要とあらばピアノや他の編成に編曲されていった。さらに、会議の出席者や特別招待客が参加する大規模な舞踏会の際にはダンス音楽が演奏されたが、それらもピアノやハープや他の楽器に編曲されて一般庶民にも知られるようになり、例えば庶民向けのレストランにおいてもこれらの編曲版が演奏され、集まった客をまるで会議に一緒に参加しているような気分にさせたものである。同じことは、舞踏会以外の社交行事のために作られた曲、あるいは祝賀行事を描写した作品にも当てはまり、それらもダンス音楽と同様に編曲されてヨーロッパ中に広まっていった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ちなみにこうした、いわば「音による絵画」や機会音楽といったものは、既にウィーン会議以前から、戦闘や平和締結といった特別な出来事に際して作曲されていた。折しも当時は、ピアノを家庭で演奏する習慣が人々に広まっていった時代と重なっており、実際こうした曲をピアノで弾けば、会議で何が起きたかということを感情面で鮮やかに追体験できたのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　多くの人々がウィーンに集い、それに合わせて音楽活動の機会も増大する……。こうした状況は、優れた演奏家や作曲家をウィーンへと駆り立て、彼らはこの街で想像以上に豊かな働きを成し遂げた。演奏会の数はうなぎのぼりとなり、歌劇場では数多くの演目が上演された。宮廷、あるいは貴族や大使の館では幾度にもわたって舞踏会が催される一方で、中心街の外にあるダンスホールや劇場にもウィーン会議の参加者が訪れ、盛況を呈した。ストリート・シンガーや流しの歌手も会議にまつわる歌を歌い、またその歌に触れた会議の参加者の中には、これぞウィーンらしい音楽だと共感を覚える者も少なくなかった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　さらにウィーンの音楽活動の豊かさを特に印象づけたものの中には、教会で演奏される音楽も含まれていた。軍楽隊の音楽も、儀式だけではなくエンタテイメントのためにはじめて用いられ、現在にまで定着する伝統となった。戦争が長いあいだ続いていたため、経済的に行き詰っていた楽譜出版業界も―機会音楽を積極的に出版したおかげもあって―徐々に回復を遂げていった。楽器商も、客からの注文が増え始めてエビス顔。こうした様々な理由によって、平和構築へむけた国際会議＝ウィーン会議は半年もの長きにわたり、ウィーンの音楽シーンに未曾有の繁栄をもたらしたのだった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ところでウィーン会議における音楽のスターはといえば、誰をおいてもルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンだった。彼は会議に際し、カンタータを1曲、合唱曲3曲を新たに作曲。またロシア皇后のために、ピアノのためのポロネーズ作品89も書いた。さらに会議開催中には、交響曲第7番・第8番、「ウェリントンの勝利」（これは当時ベートーヴェン作品の中でももっともポピュラーだった）といった彼の管弦楽曲が取り上げられ、人々の喝采を浴びた。そしてオペラ「フィデリオ」は30回も上演され、大ヒットとなった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ひとり、ベートーヴェンに限らない。たとえばアントニオ・サリエリもウィーン会議に際して大編成や小編成の曲を書いた他、ヨゼフ・アイブラーやアントン・ヴラニツキも作品を残している。いずれにしても彼らの多くは、会議と並行して催された絢爛豪華な舞踏会のためのダンス音楽を手がけ、またそうした音楽のおかげで、難しい政治問題を扱う会議出席者同士が互いに近づけたのだった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ウィーン会議を通じて議決された平和は決して脅かされてはならず、会議閉幕後もこの点に関し、ヨーロッパ中の政治家たちは一致した姿勢を見せていた。また民衆にとっては、できるだけ平穏にこの平和を味わいつくさなければならず、平和が脅かされるようなことをしてはいけない、さもなければそれを失うということを彼らは知っていた。ゆえに政治家たちは、あらゆる不穏な動きや、会議を通じてようやく実現した状況を変えかねない新しい考えに対し、真っ向から対立したのである。そのおかげで民衆は、その後22年もの間、歌劇場はもちろんのこと、劇場、演奏会、舞踏会、そして家庭で平和な時代を享受することができたのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　当時、家庭における最大の喜びはといえば、家族や親しい友人同士でともに音楽を楽しむことだった。新たな政治体制に共感したり、政治的集会をおこなったり、ウィーン会議によってもたらされた平和状態―もちろんこれは各国の妥協の産物でもあったのだが―に対する批判は、御法度だった。つまり慎ましやか (bieder) なライフスタイルが求められたわけであって、そうしたライフスタイルを秩序づけたのは民を支配する当時の政権だった。それゆえ、ウィーン会議が終結してから15年間のオーストリアの状況を指して、今も昔も「ビーダーマイヤー (Biedermeier) 」という言葉が用いられる。「マイヤー」とはよくある苗字であり、つまりはあらゆるマイヤー＝あらゆる人々が慎ましやかに暮らさなければならなかった、という意味合いなのだ。ちなみに1830年から48年までの期間は「フォア・メルツ (Vormärz＝3月革命以前という意味)」と呼ばれている。こちらはいくらか不穏な時代であり、やがて1848年3月になるとヨーロッパのほぼ全域で革命が勃発した。革命の理由としては、民衆は静かに暮らしあらゆる変化を拒むべきだ、という為政者側の圧力があまりにも強くのしかかったことが挙げられる。というわけで、ライフスタイルという点ではビーダーマイヤーとフォア・メルツとの間でさほど変わりはないものの、市民の自己意識という点では大きな変化があり、それが最終的には政治的変動へと繋がっていったのだった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">&nbsp;　ビーダーマイヤー時代には、音楽はもちろん、民衆が何らかの文化活動を営むことが推奨されていた。画家や彫刻家といった芸術的造形美術の創造者にとっても、それは重要な一時代だった。文学は検閲によって見張られており、過激な思想を開陳することこそ不可能だったものの、詩人や文筆家や劇場付の脚本家たちは多忙な生活を送っていた。なお当時の読書の形態だが、もちろん1人で読むという場合もあったが、「読書会」なる組織が結成され、そこで会員同士が顔を合わせ、芸術的な内容（政治的な内容のものは禁止されていた）の本を朗読しあったり、それについて議論を交わしたりする場合も多かった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　だが、特にビーダーマイヤー時代に好まれたのは音楽だった。劇場や歌劇場に人々は足を運び、しかもたとえ大きな歌劇場ではなく小ぶりの劇場であっても、それなりの水準のものを楽しむことができた。また演奏会にも数多くの人々が訪れ、この時代にはまさに現在のような意味でのコンサートライフが最初のクライマックスを迎えたのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　それではこの時代の音楽についてより詳しく見てゆくが、様々な例やエピソードについてはすべてウィーンでの出来事に限定して話を進めてゆこう。何しろ当時のウィーンは、ヨーロッパに冠たる音楽の都へと成長を遂げていったのだから。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　当時、演奏会で数多く開かれたのが、超絶技巧の腕前と超人的なオーラを具えたヴィルトゥオーゾによるもの。人々は独奏者の芸術的な技を体験すべくそうした演奏会を訪れたのだが、それはまるでスポーツを楽しむような雰囲気だった。中でもニコロ・パガニーニは―ウィーンには数多の優れたヴァイオリニストが活躍していたにもかかわらず―、当時この街に登場したもっとも偉大かつ人気のヴィルトゥオーゾであり、最新の演奏技術が話題の的だった。というわけで、多くの人々は何よりもその演奏技術に感嘆したのだが、フランツ・シューベルトは別の見方をしていた。シューベルトは、パガニーニがはじめてウィーンに登場した1828年の初頭、次のようにしたためている、「私には天使が歌っているのが聞こえました」。つまりシューベルトは、パガニーニの演奏技術ではなく、その音楽表現に注目していたということである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　さらには、技術的にも内容的にも難しい作品を扱う演奏会も数多く開かれた。そうした演奏会の中でも重要なイヴェントに参加したのが、1812年に創設されたウィーン楽友協会である。この協会は、最高水準の演奏会を催し、時にオーケストラと合唱で700人も登場するような大編成の演奏会も開いた。実際、時のオーストリア皇帝フランツ1世の依頼を受け、楽友協会はウィーン会議の間に2度にわたってマンモス演奏会を開催している。皇帝としては、ウィーンがどれほどの偉大な音楽的可能性を秘めているのかを示そうという狙いがあり、そのために大人数が参加する演奏会が企画されたという次第だった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　またウィーン楽友協会は、こうした不定期のマンモス演奏会と並んで、協会が主催する定期演奏会を開き、新しい作品と古典的な作品を取り混ぜて演奏した。こうした方法は当時としては目新しいことであって、それまではもっぱら新作を聴くためだけに人々は演奏会に足を運んでおり、同じ作品を2度3度と演奏することにはほとんど興味が寄せなかったのである。だが楽友協会の演奏会では、芸術的に見て抜きん出た水準をそなえている作品の中でも重要と判断されたものに関して、繰り返し上演がおこなわれた。というのも、そうした作品は模範的存在であるため、それを聴いたことのない人は是非聴くべきである。また以前聴いたことがあっても、繰り返し聴くに耐える価値があり、聴くたびに新たな価値を発見できるという考え方の故だった。これは現在の演奏会では当前の思考法だが、そのルーツはビーダーマイヤーの時代に根ざしているのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　また当時は公開演奏会というものが存在し、それは楽友協会といった組織をはじめヴィルトゥオーゾや作曲家自身のため、あるいは慈善目的（チケットの収益は社会活動や災害の犠牲者のために用いられた）のために催された。なおこの公開演奏会、普通は劇場や多目的空間で催されるのが常であり、というのも当時ウィーンには音楽専用ホールが存在しなかったからである。音楽を専門的に演奏する目的のために建てられ、実際に実用化されたホールとしては、1831年に開場したウィーン楽友協会旧会館のコンサート・ホールがこの街では初の存在だった。また演奏会専用のプロのオーケストラというものも存在しなかったため、演奏会を開く際には劇場附属のオーケストラを借りる（しかも劇場や歌劇場が休みの日でなければならなかった）、あるいはディレッタントや職業音楽家の混合編成による臨時オーケストラが組まれるのが普通だった。なお、「ディレッタント」とは、今日では否定的な意味合いを伴う言葉だが、当時決してそうでなかった事情は、後ほど触れることとしよう。こうした状況の中、ウィーン楽友協会は演奏会を開く際に、腕の立つ音楽愛好家の会員たちを集めてオーケストラを組織し、必要とあらば報酬を払って職業音楽家にも賛助出演してもらう方法をとったのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ただし多くの人々は、私的な集まりで、つまり家族や友人で音楽を演奏して楽しんでもいた。ちなみに聴衆が存在せず、演奏する者だけで集って音楽を奏でた習慣をさして、「家庭音楽（ハウス・ムジーク）」という。また、数の多少にかかわらず聴衆を前にして演奏する場合は「家庭演奏会（ハウス・コンサート）」あるいは「音楽サロン」といった。（サロンとは、もともと住まいの中で一番美しい部屋を指し、そこで音楽を演奏したり客人を迎えたりしたことからこの呼び名が生まれた。）なお、このような家庭演奏会あるいは音楽サロンには、多い時には120名ほどの人々が押し寄せることがあり、彼らは音楽が演奏されている部屋に隣接した空間にまで入り、演奏を楽しんだ。招待する側も、次回以降さらに大勢の客人を連れてこられる客人を招くことも多く、こうなると家庭演奏会あるいは音楽サロンといっても、半ば公開の催し物のようになっていった。さらに、多くの家庭演奏会や音楽サロンが決まった日にちの決まった時間に催されるようになると、興味のある人間はそうした情報を入手し、自分が演奏を聴ける場所を確保できるかどうかを確認した上で、そこを訪れるということもおこなわれるようになった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　なおこれらの場所で演奏をおこなっていたのは、ディレッタントと職業音楽家（ただしこのような場所で演奏する場合には報酬なし）だった。当時「ディレッタント」といえば、音楽教育を十二分に受け、しかも生活の糧ではなく、あくまで自らの喜びのために音楽をする人々のこと。しかも彼らは高く評価され、場合によっては職業音楽家よりも尊敬されていた。というのも、喜びのために芸術に奉仕をするという行為は、金を稼ぐために芸術に奉仕する行為よりも上と見なされていたためである。また先程も書いたように、家庭演奏会や音楽サロンでは、職業音楽家も報酬なしで登場した。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　こうした場でよく取り上げられたのは室内用の声楽曲や器楽曲だったが、時と場合によっては、オペラやオラトリオや大規模の管弦楽曲からの抜粋が演奏される場合もあった。もちろんそれには、大人数の演奏者が入れるだけの空間を備えた住居であることが必要条件であって、さらに隣接した部屋にまで聴衆が入って演奏に耳を傾けられるスペースも必要だった。ちなみにフランツ・シューベルトの交響曲第5番は、そうした住居で家庭演奏会を催していた一家のために書かれており、この家でオーケストラの演奏会が開かれる場合、彼は定期的に出演していた。また彼の交響曲第1番から第4番についても、似たような状況の中で初演、再上演がおこなわれた。特にウィーン会議の間には、選りすぐりの客がこうしたサロンを訪れ、そこで演奏される音楽を楽しみ、そうした習慣を典型的なウィーンの特徴として享受したものだった。家庭音楽、あるいは家庭演奏会や音楽サロンのルーツは18世紀後半にまで遡れるが、ウィーン会議の時代にサロン文化は花開き、ビーダーマイヤーの時代に最高潮に達したのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　歌曲は、家庭音楽や家庭演奏会ならではのジャンルだった。ウィーン会議の参加者のための大規模な演奏会の場で、ウィーン宮廷歌劇場の有名歌手によってベートーヴェンの歌曲「アデライーデ」が歌われたなどといった出来事は、ごく例外的なことだった。シューベルトも歌曲を書いたが、それは公開演奏会のためではなく、家庭音楽や家庭演奏会といった私的な場を想定して、さらにはそれらに時折備わっていた半ば公開性を帯びた要素を念頭に置いて作られたものである。実際、ビーダーマイヤー時代におびただしい数の歌曲が作曲され出版されたことを考えると、歌曲（その多くがピアノ伴奏やギター伴奏、あるいは他の楽器の伴奏が付いたものだった）がどのような意味を持ち、なぜ公の演奏会でほとんど扱われたかが分かるだろう。単独ではなく何人かの人間が必要とされる重唱曲（これは今日でも演奏会で取り上げられる機会は稀である）も、家庭音楽や家庭演奏会で主に歌われた。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　1792年から1814年にかけて戦争が続いていた当時、楽譜出版を取り巻く状況は日に日に厳しくなっていた。楽譜の売れ行きは思わしくなくなり、さらに1810年頃になると楽譜の出版数も最低限に落ち込んでしまったのである。ところが1815年以降、楽譜出版は急速に息を吹き返し、好調ぶりを発揮するようになった。そこには、ビーダーマイヤー時代における家庭演奏会と家庭音楽が大きく影響している。もちろん当時、職業音楽家から成るシュパンツィヒ四重奏団も活躍してはいたが、ほとんどの場合、弦楽四重奏や他の弦楽アンサンブルが演奏されるのは、コンサート・ホールではなく家庭だった。同じことは弦楽器とピアノのアンサンブルにも当てはまり、それぞれの家庭で妻や娘がピアノを弾き、夫や息子といった男性がヴァイオリンやその他の弦楽器を奏でたのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　教会音楽についても触れておこう。教会音楽はカトリックの礼拝にとって非常に重要だった。にもかかわらず、1792年から1814年にかけての戦時体制下では、教会が充分な経済状況に恵まれず、教会音楽を演奏する音楽家を雇うことが難しくなってしまったのである。というわけで教会音楽を演奏するにあたっては、教会の周辺に住む人や、教会と近しい関係にある者の手に委ねられるようになっていった。結果、家庭音楽、あるいは家庭演奏会や音楽サロンのように、徐々にディレッタントと職業音楽家の混合アンサンブルが教会の礼拝で音楽を奏でるようになり、結果的にビーダーマイヤーの時代になると、かつてよりも数多くの演奏家が教会音楽を演奏するようになったのである。となると、教会音楽のスケールもより贅沢となり、オーケストラの編成は大きくなり、独唱や合唱といった声楽パートに関しても多くのことが要求されるような作品が書かれていった。実際、こうした要素を具えたシューベルトの最後の2つのミサ曲は、ビーダーマイヤー時代に作曲され、演奏されたものなのだ。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　最後に、ダンス音楽についても手短に解説を。ある人物がウィーン会議を揶揄して、会議は踊る、されど進まずと指摘したのは有名だ。もちろん、それはそれで嘘八百というわけではないのだが、当時の音楽が果たしていた事実に即しているかというと、決してそうではない。既に冒頭で述べたように、会議の出席者のために数多の舞踏会が催され――その中にはオーストリア皇帝フランツ1世をはじめ、貴族や大使や会議に関わっていた重要人物たち自身によって催されたものも含まれる――、それらはあるテーマを巡って議論を戦わせている相手と個人的近づきになるために必要不可欠だった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　さらにいえば、音楽と踊りを通じて互いの先入観を壊し、信頼を打ち立てようとする考え方自体が、ひょっとするときわめてウィーン的だったといえるかもしれない。実際これらの舞踏会のために、作曲家たちは最善を尽くして曲を作り、舞踏会に集った人々を心底魅了した。こうした音楽は、大編成の舞踏会用オーケストラのために書かれるのが常だったが、同時にピアノや小編成の合奏用にも編曲されて出版されることも多かった。民衆の側も、ヨーロッパの重要人物が巨大な舞踏会場で踊っていたのと同じメロディに合わせて自分たちも踊れるということで、舞踏会用音楽の編曲ものは人気だった。さらにより幅広い層の民衆にとっても、ピアノや弦楽アンサンブル用に編曲された舞踏会用音楽は、人気の的だった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　1814年以前の戦争の時代、人々は様々な労苦に苛まれており、舞踏会やダンスなどというものは日常生活とはほぼ無縁のものであって、関心の対象外と見なされていた。しかしやがて平和が再構築されると、事態はまったく変わったのである。最高のダンス音楽を作って欲しいという要請が生まれ、それは作曲家たちの想像力を掻き立てた。民衆の間には、悩み多い時代が過ぎ去ったことを喜び、ダンスを楽しもうという機運が高まった。舞踏会の時季になると大小様々な舞踏会が開かれたが、そうでなくてもこの頃になると一年中、それも家で家庭舞踏会が開かれるようになったのである。家庭音楽や家庭演奏会も、ダンスで締めくくられた。夕食に客を招いた場合も、食事に続いてしばしばダンスが踊られた。ピアノを弾ける者がいる場合は、1人であるいは交代で、ダンス音楽が演奏された。こうしてダンス音楽は、きわめて重要な音楽の1ジャンルとなったのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ビーダーマイヤー時代が終わる頃には、ヨハン・シュトラウス1世やヨゼフ・ランナーが頭角を現し始めた。こう考えると、これまで述べてきたようなビーダーマイヤー時代の生活水準がなければ、彼らも存在することはなく、またウィーンならではの豊かなダンス音楽もありえなかったかもしれない。しかしウィーンでは、その後もダンス音楽は大輪の華を咲かせ、19世期後半にはヨハン・シュトラウス2世を頂点とするダンス音楽の黄金期がもたらされたのである。</p>



<div style="height:100px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/essay-2/"><img loading="lazy" decoding="async" width="100" height="50" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/4c3a107ab8e98f3e66d5675184960f6e.gif" alt="Essayへ戻る" class="wp-image-13619"/></a></figure></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/"><img loading="lazy" decoding="async" width="100" height="100" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/fe979e14110c992e9c02c00035a265d6.gif" alt="Eine Pause 2020へ戻る" class="wp-image-10540"/></a></figure></div>The post <a href="https://kusa2.jp/2020/08/26/7-1-3/">【ビーバ博士のエッセイ集】ウィーン会議とビーダーマイアー時代の音楽</a> first appeared on <a href="https://kusa2.jp">草津夏期国際音楽アカデミー＆フェスティヴァル</a>.]]></content:encoded>
					
		
		
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		<item>
		<title>【ビーバ博士のエッセイ集】モーツァルトの時代の「家庭演奏会」と「禁欲演奏会」</title>
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		<dc:creator><![CDATA[academy-office]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 19 Aug 2020 01:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ビーバ博士のエッセイ集]]></category>
		<category><![CDATA[Eine Pause 2020]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>文：オットー・ビーバ／日本語翻訳：小宮正安 第38回プログラムより（2017年発行） 　最初にはっきりさせておこう。それは、今日私たちがよく知っている公開演奏会のあり方は、歴史的に見ればかなり最近になってから形作られたも [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">文：オットー・ビーバ／日本語翻訳：小宮正安</p>



<p class="wp-block-paragraph">第38回プログラムより（2017年発行）</p>



<p class="has-text-align-left wp-block-paragraph">　最初にはっきりさせておこう。それは、今日私たちがよく知っている公開演奏会のあり方は、歴史的に見ればかなり最近になってから形作られたものだ、ということだ。音楽を聴くために入場券を買うという現象からして、中央ヨーロッパにおいては18世紀半ばから少しずつ現れ始め、18世紀も最後の四半世紀に至ってようやく一般化した。イギリスではもう少し早い時期からこのような動きが見られたものの、それでも大昔からではなかった。<br>　また、演奏会を主催する専門家というものも存在しなかった。芸術家―つまり作曲家や演奏家―自身が演奏会の主催者であって、純益はそのまま彼らの懐に入った。あるいは慈善演奏会というものも存在し、その場合は社会的な目的のために収益が用いられたが、こうした演奏会における主催者＝芸術家のメリットとしては、会場を埋め尽くした人々に自らの芸術を披露できるという喜びがあった。<br>　にもかかわらず、公開演奏会はけっして日常的な催しではなかった。音楽の多くは、私的な集まりの中で生産あるいは消費され、特定の目的、あるいはそれを聴きに来ている限られた人々のみが念頭に置かれていた。自分で音楽を演奏しなかったり、私的な音楽の集いに呼ばれない人は、劇場で劇伴音楽を聴いたり、オペラへ行ったり、教会でおこなわれる大掛かりな礼拝に足を運んだり、はたまた舞踏会やダンスの催し、あるいは民族音楽の演奏といった場で音楽を耳にした。さらには年に2回、クリスマスとイースターの前には演奏会シーズンがあり、夏には野外演奏会も開かれていた。</p>



<p class="has-text-align-center wp-block-paragraph">＊</p>



<p class="wp-block-paragraph">　モーツァルトの父レオポルト・モーツァルトが自分の子供たちを引き連れてヨーロッパ中を旅し、各都市で演奏をさせた話は有名だ。ただしそうした演奏の場も、今日のような意味での「演奏会」でなかったことには注意しておきたい。というのもそこに集った人々は、先ずモーツァルト姉弟に驚きを覚えることを何よりも重要視し、次に演奏を聴く、という姿勢だったからである。<br>　こうした旅の途上、レオポルトは広間＝ホールを借り、神童が登場する旨を大急ぎで告知し、それに興味を持った人々が来場する、というスタイルが普通だった。もしもそうした広間＝ホールが存在しない場合は、ヴォルフガングに教会のオルガンで演奏させる場合もあった。そしてチケットの収益や聴衆のカンパを元手に、彼らは旅を続けた。それゆえ皇后マリア・テレジアは、モーツァルト一家が物乞いのようにしてヨーロッパを旅している、と批判したのである。<br>　子供たちが貴族や領主の館に登場する際も、それは公開の演奏会ではなく、限られた聴衆のための私的な音楽の集いであり、せいぜい家庭演奏会だった。もちろんいくつかの街には演奏会用ホールが既に存在していたが、他の街にはそうした施設はなかった。モーツァルトが若者になってからパリに赴いた際、彼の地では公開演奏会がしっかりと確立されていることを経験したいっぽう、ウィーンにおいては、パリのような演奏会をウィーンでもおこなおうと目論むも結局うまく事を運べない演奏会の主催者のおかげで、期待したほどの成功を得られない場合もあった。<br>　となると原則的には、作曲家や演奏家が演奏会の主催者になるしかなく、またそれが当然という状況に対し、モーツァルト自身もまったく疑問に思っていなかったことになる。モーツァルトの器楽曲の大半が、家庭音楽や家庭演奏会の場において、私的なあるいは半ば公開の形で演奏される音楽のために書かれている所以であり、これは彼にとって自明だった。いや、それでも当時の作曲家の中でモーツァルトほど、新たな公開演奏会の誕生と発展の様子を、旅路で、そして本拠地において個人的に体験した者はいなかったかもしれない。子供時代の最初の経験から成人になってウィーンでの演奏会に登場するまでの長い発展の道のりを、彼は身をもって経験し、時にはみずから積極的に形作っていったのだから。<br>　以下の部分では、まったく異なる2種類の演奏会について述べることとなるが、その際ぜひ頭に留めていただきたいことがある。つまり、これらの演奏会はモーツァルトにとっては重要なものだったが、今日の一般的な演奏会のあり方とはそもそも比較不可能な催しだった、という点だ。</p>



<p class="has-text-align-center wp-block-paragraph">＊</p>



<p class="wp-block-paragraph">　モーツァルトの時代、ウィーンにはザルツブルクと同様、演奏会ホールというもの自体が存在しなかった。ザルツブルクにおける器楽の演奏は、どのような編成であろうと、私的あるいは半公開の状態でおこなわれたのである。（ここでいう半公開とは、大勢の招待客が音楽を聴く、つまり家族や友人たちだけが音楽を楽しむ状況ではない、ということだ。）ウィーンでは、劇場や多目的ホールが空いている日には演奏会がおこなわれていた。ちなみに、ウィーンで初の演奏会ホールはといえばウィーン楽友協会の中に作られたもので、オープンしたのは1831年。以上のことを知っておくと、以下のテーマをよりよく理解し、納得していただけるだろう。</p>



<p class="has-text-align-center wp-block-paragraph">＊</p>



<p class="wp-block-paragraph">　モーツァルトの時代、公開演奏会のレパートリーはというと、まず目に付くのが管弦楽伴奏つきの声楽曲、つまりはオラトリオ、カンタータ、合唱曲、アリアといったものだった。次いで管弦楽曲を中心とした器楽曲で、室内楽が演奏されることはごく稀だった。<br>　なお室内楽曲（Kammermusik）とは、文字通り室内（Kammer）のための音楽であり、室内（Kammer）とは「部屋」を指す古い言葉である。つまり室内楽曲は、家庭音楽や家庭演奏会を念頭に書かれていた。もちろん公開演奏会で、部屋用の曲を演奏するのは理論上可能なのだが、上のような経緯から室内楽曲が公開演奏会で演奏されることはきわめて稀であり、プログラムに新味を与えたり楽器奏者の多様な才能を示したい場合のみ取り上げられた。その一例が、モーツァルトがピアノとオーケストラのための協奏曲を演奏すべく登場した際の公開演奏会で、彼はそこで自ら、ピアノ独奏曲も演奏している。あるいは1784年、ヴァイオリニストのレギーナ・ストリナザッキの主催する演奏会においても、モーツァルトは当演奏会で彼女とともに初演するために作ったヴァイオリンとピアノのためのソナタを、他の曲目とともに上演している。<br>　いずれにせよ、このように当時の室内楽の地位を知れば、室内楽曲の目指すところや作曲の目的を理解することができるだろう。この両者の要素については、また後ほど説明しよう。</p>



<p class="has-text-align-center wp-block-paragraph">＊</p>



<p class="wp-block-paragraph">　数年前、ウィーン楽友協会アーカイブの同僚であるイングリート・フックスが、貴重な発見をおこなった。発見されたのは、上部ハンガリー（現在のスロヴァキア）在住のさる地方貴族が、ウィーンに住む友人であり腹心でもあった人物と交わした記録。これはやがて、出版されることとなった。<br>　このウィーンに住んでいた人物だが、音楽に非常に関心があり、ウィーンの音楽生活についての最新情報を逐一報告することに熱心だった。その中に1786年、モーツァルトが「音楽クラブ」を設立したという記事が載っていたのである。もちろんクラブといっても、今日とは異なる意味合いであって、ある特定の意図や目的のため―この場合は音楽を聴いたり演奏したりするため―に、複数の人々が集まる協会のことを指している。<br>　ちなみに、この手紙に記されている当該の報告を抜粋すると次の通り。「新しい音楽の催しについてですが、開催時間について異論はありません。毎週11時から1時まで、私はモーツァルト氏の音楽クラブへ出かけます。そこには、ヘルツフェルト伯爵夫人、ツォイス男爵夫人、ジャカンのご子息、そして多くの人々が集まり、オペラから抜粋してきたアリアや、オペラ全曲を歌っています。」もちろん新しい音楽として、室内楽作品も演奏された。またアリアも取り上げられたが、それがピアノ伴奏で歌われたのか、あるいは器楽アンサンブルによる伴奏だったのかは分からない。なお手紙の中に出てくる人々は職業音楽家ではなかったが、それについてはまったく問題なかった。彼らはいずれも完璧な音楽的素養と腕前を具えているいっぽうで、あえて音楽活動を生業とせず、人生の楽しみのために音楽を愛していたからである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ところでこの記録が発見されるまで、私たちは、マイケル・ケリーという歌手―ロンドン出身で長い間ウィーンで活躍していた人物である―の回想録中、以下のような短い文章からしか、当時の状況を伺い知れなかった。曰く、「モーツァルトは日曜日に演奏会をおこない、私はそれに欠かさず出かけた」というもので、そこからこれらの演奏会がモーツァルトの住まいでおこなわれたことは分かっていたのである。なおモーツァルトは、現在モーツァルト・ハウスとして一般公開されているシューラー通りの建物に居を構えていた（現在のモーツァルト・ハウスの入り口はドーム通りとなっている）。そして自らの住まいで催すこれらの演奏会にあたって、モーツァルトは紛うことなく主催者だった。ただし演奏会に際し、やはりモーツァルトが自宅で主催した舞踏会のように、入場料をとったのかどうかについては不明だが。<br>　この「音楽クラブ」と呼ばれる演奏会だが、それとはまったく別個にモーツァルト家でおこなわれていた家庭音楽と混同してはならない。彼は、自身の音楽家仲間とも自宅で音楽を演奏していた。さらに1784年、モーツァルトの生徒たち（いずれも女性）が、彼の命名日の祝いを、自分たちがいつもレッスンを受けている彼の住まいでおこなって驚かせたという記録もある。ただしそれが、この年だけの出来事だったのか、あるいは毎年のようにおこなわれたのかについても分かっていない。</p>



<p class="has-text-align-center wp-block-paragraph">＊</p>



<p class="wp-block-paragraph">　モーツァルトによる音楽クラブは、自分の住まいにおける音楽活動の特別な形だった。自身の住居で私的に演奏をおこなったり、家族や友人がそれに耳を傾けたりすることのほうがしばしばで、こちらが一般的には普通だった。<br>　なお、「家庭演奏会」と「家庭音楽」は区別して用いられるべき概念だが、家庭音楽のほうは単なる自分自身の楽しみのためのものであって、聴き手の存在を想定していない。また、モーツァルトの時代にも家庭演奏会という言葉はよく用いられたが、それよりもしばしば用いられたのが「音楽サロン」という表現である。「音楽サロンを構える」とは、「家庭演奏会を開く」というのと同義語だったのだ。言葉の意味合いからすれば、住まいや家の中で一番大きく美しい空間がサロンであり、そこで家庭演奏会を催すということだったのである。そして元々空間を指していたサロンという言葉が、聴衆とともに音楽行為をおこなうことも意味するようになった結果、半公開の音楽サロンと家庭演奏会は同義語として用いられるようになったのである。もちろん聴衆がサロンだけに入りきれない場合は、それに隣接する部屋に集まり、扉を開け放して音楽に聴き入った。<br>　家庭音楽、および音楽サロン／家庭演奏会のためには、ピアノ曲や室内楽曲、歌曲や多声声楽作品が作曲された。またオペラのアリアやオペラの一部分、さらには管弦楽曲のピアノ編曲版も演奏された。ピアノ編曲版というものが生まれた理由も、まさにこうした状況が存在したためである。<br>　例えば新作オペラが初演されると、ピアノ伴奏つきでその抜粋を家庭でも歌えるよう、ただちに楽譜が出版された。このようにしてオペラ作品は有名になっていったのであり、単にオペラハウスで演奏されたから有名になったというわけではなかった。またこうした家庭演奏会のために、管弦楽曲の編曲物や、管弦楽伴奏付きの協奏曲の編曲物も作られた。<br>　なおこれらの編曲物は、モーツァルトの同時代には既に生まれており、彼自身が実際目を通したものもあるが、彼が世を去ってから久しい19世紀半ばまでさかんに作られた。その場合、協奏曲においては、ピアノパートは決まってオリジナルのままに、伴奏部分の編成が縮小されて、というケースがお決まりだった。例えばモーツァルトのピアノ協奏曲が、公開演奏会の場でオリジナルの管弦楽伴奏によって上演されるよりも、室内楽伴奏版を通じ、音楽サロンや家庭演奏会で演奏される機会のほうがよほど多かったのである。</p>



<p class="has-text-align-center wp-block-paragraph">＊</p>



<p class="wp-block-paragraph">　家庭演奏会や音楽サロンは多くの家庭で、しかも特に冬の時期に催された。というのも夏は野外で演奏したり、屋外で別の楽しみがあったり、そもそも田舎に滞在したりということが普通だったからである。<br>　家庭演奏会は、毎週あるいはある決まった日にちごとにおこなわれるのが通例で、それによって、いつどこで家庭演奏会がおこなわれるのかを知ることができた。家族の友人であれば、予定されている日時に出かけるだけで（たとえ特別な招待や予約を入れなくても）、演奏会に入れてもらえるという具合だった。また、自分の友人を連れて行ってもよかった（こうした制限の緩さゆえ、先ほどから家庭演奏会のことを半公開の催しと呼んでいるのである）。<br>　もちろん、このように定期的な家庭演奏会が行われる場においては、聴衆が何人やってくるかは分からなかった。それでも問題とならなかったのは、何も演奏がおこなわれているサロンに聴衆が座ったり立ったりしている必要はなく、それに隣接する部屋にいてもよかったからである。狭く感じるのは、それだけ人々の関心が高いという証拠だった。また演奏の合間や終了後には、気分転換のために飲み物や食べ物が提供された。演奏の輪に職業音楽家が入るのは例外的だったが、職業音楽家でなくてもきわめてレヴェルの高い演奏者たちであり、彼らは音楽をすることに喜びを見出すがゆえに、それを生業にはしていない人々だった。<br>　こうした家庭演奏会で曲が決定されるのは、いつもぎりぎりになってからだった。演奏される曲に関するプログラム冊子もメモも存在せず、それゆえ現在の私たちにとって、そこで何が演奏されていたのかを細部まで把握するのは不可能である。というわけで、家庭演奏会で何が取り上げられたかについては、日記や回想録や手紙に頼るしかない。なおモーツァルトは、既に先ほど述べた音楽クラブ……つまり家庭演奏会をさらに高度な形で組織した催し……を自らの住まいで主催しただけでなく、貴族や市民の家庭での家庭演奏会にも出演した。しかもウィーンから父親に宛てて書いた手紙の中で、彼はこのことを幾度となく述べているが、それを特別視していた節はなく、自分が音楽家として自立してゆくための1つの手段と見なしていたことが分かる。</p>



<p class="has-text-align-center wp-block-paragraph">＊</p>



<p class="wp-block-paragraph">　このような家庭演奏会は、ウィーンでは特段珍しいものではなかった。もちろんこの街を訪れた多くの旅行者にとってみれば、ここで多くの家庭演奏会が開かれていること自体に目を見張る思いだったろうが……。作曲家や歌手や楽器演奏者が主催する公開演奏会の数も、他の都市に比べると非常に多かった。音楽都市ウィーンにおいては、多くの人々がそうした方法で演奏会を催し、またそれに興味を抱く聴衆も多数存在したのである。というわけでここからは、モーツァルトの時代におけるこうした演奏会の一場面を覗いてみることとしよう。<br>　モーツァルトは、しばしばこのような演奏会を主催し、また同僚が主催した演奏会にもよく登場した。そうした演奏会を主催する時、彼は劇場や広間を借りて、告知や宣伝をおこない、チケットを売って（なお前売り券は常に主催者の住まいで手に入れることができた）、オーケストラを手配し、さらに共演してくれる演奏家の確保に励んだ。1回限りの演奏会ではなく、3回4回と続くチクルス形式の演奏会を企画する際には予約制とし、予約会員を募った。<br>　こうした作業において、モーツァルトを手助けしてくれる人物がいたのかどうかは分からない。ただし覚えておくべきは、必要な経費を彼が全て支払い、そこから差し引いて生まれる純益を手にしていたということである。演奏会の企画がうまくゆかず、それ故にあるいは別の理由ゆえに来場者が少ないと、赤字を負わなければならなかった。<br>　またモーツァルトは、自分で主催する演奏会において、自作の曲だけを演奏するのではなく、ただしあくまでプログラムの中心には、自身を作曲家ならびにピアニストとして示せるような作品を置いていた。またこうした演奏会用に新作のピアノ協奏曲を作った場合、彼はその直後にそれを印刷、あるいは―こちらのほうが一般的だったのだが―写譜をさせて公開した。するとすぐさま、管弦楽パートが室内楽編成に編曲され、家庭演奏会（音楽サロン）で取り上げられていったのである。往々にして2台ピアノ用に編曲がなされたが、その場合、1台目はオリジナルのピアノパートを、2台目がピアノ用に編曲された管弦楽パートを担当するのが常だった。<br>　いずれにせよ、このような公開演奏会を催すにもっとも適した時期は、クリスマスとイースターの前だった。それには宗教的な理由がある。これらの時期は両方とも禁欲期間であり、人々は娯楽を我慢し、クリスマスやイースターの祝日に向けて心を整えなければならなかった。<br>　そうした状況の中、オペラや演劇は娯楽と見なされていたのだが、演奏会はその限りではなかったのである。そのため、劇場やオペラハウスはこれらの期間は閉鎖されていたにもかかわらず、演奏会のために貸し出すことは可能だった。しかも、劇場の閉鎖期間が長いという理由から、クリスマスの前よりもイースターの前のほうがより多くの演奏会が開催された。それどころか、イースターの前におこなわれる演奏会は「禁欲演奏会」とも呼ばれたのである。こうして、クリスマスやイースター直前の期間が演奏会シーズンだった。夏には野外演奏会が通例で、それゆえ夏を本当の意味での演奏会シーズンと見なすことはできない。<br>　モーツァルトは、クリスマスとイースター前のこれらの時期に1回物の演奏会を開き、場所についても宮廷劇場であるブルク劇場を借りる場合もあった。また演奏会チクルスの場合は、別のホールを借りた。彼は父親に宛てて、予約客のリストを誇らしげに送ったことがあるが、そこにはウィーンのVIP級の貴族の名前が記されている。もちろん市民もモーツァルトにとっては大切な得意先だったのだが、自ら主催する演奏会の客として、父親には貴族の名前を出したほうが印象深いと判断したのだろう。<br>　またこうした演奏会用に、モーツァルトは交響曲とピアノ協奏曲も作曲している。例えば1786年のクリスマス前に催された演奏会のためには、今日「プラハ交響曲」の名前で親しまれているニ長調の交響曲を書いた。あるいは1785年の禁欲演奏会チクルスのためには、「ピアノ協奏曲ニ短調」KV.466と「ピアノ協奏曲ハ長調」KV.467を作った。彼は聴衆を常に新しさで驚かせようと考えており、それゆえにこの2つの協奏曲はまったく異なる内容となっている。実際このようなチクルスにおいては、ある曲が別の曲に似通ったものとなってはダメだった。<br>　しかも「ピアノ協奏曲ニ短調」を演奏する際、モーツァルトはペダル・ピアノ―つまりはオルガンのように足で音階の弾けるペダルが付いたピアノ―を演奏して、聴衆の度肝を抜いたのである。ペダルを使って何をどのように演奏するかということについては、ウィーン楽友協会アーカイブが保存しているこの曲の直筆譜を見ればよく分かる。いずれにしても、これら2つの協奏曲も室内楽伴奏版に編曲された。しかもペダル・ピアノをこの協奏曲で用いることは、モーツァルト以外もはや誰もおこなわなくなってしまった。<br>　1780年も後半になると、モーツァルトは自身で演奏会を主催しなくなった。というのもそれまで何年にもわたって、彼はあまりにも演奏会を開きすぎ、そうでなくても様々な演奏会で他の音楽家と共演するということをしすぎたのである。結果、彼が登場してもセンセーションを巻き起こせず、彼をいつでも聴ける状態に人々が慣れっこになってしまった。これが切符の売り上げに響かないわけがない。何しろ音楽家であれば誰もが……当時から今日にいたるまで……、希少価値という要素を大事にするもの。ところがモーツァルトは、人前で自己プロデュースできることこそが嬉しかったのだ。<br>　またこのような公開演奏会、そして演奏会チクルスには、プログラム誌が存在しなかった。あるいは例えばポスターのように、モーツァルトが演奏会を宣伝するためのものが保存されることはまれだった。それゆえ私たちにとって、モーツァルトが主催した演奏会のプログラムの詳細は分からない。手紙や日記や回想録が、それぞれの演奏会で取り上げられた曲を窺い知れる唯一のよすがである。ただし多くの作品について、それらが完成された日付に関しては、「禁欲演奏会」のために作曲されたということも推測可能なのである。</p>



<p class="has-text-align-center wp-block-paragraph">＊</p>



<p class="wp-block-paragraph">　このように当時の公開演奏会は、今日のそれとほとんど全てにわたって異なっていた。そして、歴史的な意味における家庭演奏会（あるいは音楽サロン）に至っては、現在もはや存在しない。ただし、モーツァルトが作曲家でありピアニストであっただけでなく、演奏会の主催者であったことに思いを巡らせてみるのは楽しく、また重要だ。モーツァルト自身そうした存在として、これらの目的のために、新作を作曲することをもっぱらとしたのだから。</p>



<div style="height:100px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/essay-2/"><img loading="lazy" decoding="async" width="100" height="50" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/4c3a107ab8e98f3e66d5675184960f6e.gif" alt="" class="wp-image-13619"/></a></figure></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/"><img loading="lazy" decoding="async" width="100" height="100" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/fe979e14110c992e9c02c00035a265d6.gif" alt="" class="wp-image-10540"/></a></figure></div>The post <a href="https://kusa2.jp/2020/08/19/6-1-2/">【ビーバ博士のエッセイ集】モーツァルトの時代の「家庭演奏会」と「禁欲演奏会」</a> first appeared on <a href="https://kusa2.jp">草津夏期国際音楽アカデミー＆フェスティヴァル</a>.]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
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		<title>【ビーバ博士のエッセイ集】ヨーゼフ・アイブラー</title>
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		<dc:creator><![CDATA[academy-office]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 12 Aug 2020 01:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ビーバ博士のエッセイ集]]></category>
		<category><![CDATA[Eine Pause 2020]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>文：オットー・ビーバ／日本語翻訳：武石みどり 第29回プログラムより（2008年発行） 　ヨーゼフ・ハイドンの弟子だったと主張する者は多いが、本当にそうであった人間はわずかしかいない。その一人がヨーゼフ・アイブラーである [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">文：オットー・ビーバ／日本語翻訳：武石みどり</p>



<p class="wp-block-paragraph">第29回プログラムより（2008年発行）</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ヨーゼフ・ハイドンの弟子だったと主張する者は多いが、本当にそうであった人間はわずかしかいない。その一人がヨーゼフ・アイブラーである。その意味ですでに、我々はアイブラーの名前と音楽について知らなければならない。<br>　モーツァルトの友人であったと主張する者は多いが、本当にそうであった人間はわずかしかいない。その一人がヨーゼフ・アイブラーである。彼自身、モーツァルトとの関係を「幸運にも彼が亡くなるまで友情を保った」と説明している。モーツァルトが死の床に就いていたとき、彼はコンスタンツェ・モーツァルトが夫の面倒を見るのを手伝った。<br>　モーツァルトから直々のお墨付きを得たという点で、ヨーゼフ・アイブラー以上に自慢できる作曲家は誰もいない。モーツァルトは1790年にアイブラーについて、自分の弟子とは記さず、室内楽と教会音楽の手堅い作曲家、ピアノとオルガンの完璧な奏者であり、「同じような人がめったにいないのが惜しまれる」ほどの若い音楽家であると証明している。モーツァルトによるこの抜群の評価からしても、アイブラーの名前と音楽について知っておく必要がある。<br>　アイブラーについては、ヨーゼフ・ハイドンも1790年にすばらしい評価を表明した。彼はアイブラーの卓越した才能と勤勉さを賞賛し、音楽家に必要なあらゆる音楽理論の知識を有し、ピアニスト及びヴァイオリニストとしてあらゆる専門家から喝采を受ける人物であることを証言し、作曲家としても彼に最大の賛辞を表明している。これらすべてを根拠として、ハイドンはアイブラーを宮廷楽団の楽長に推薦した。アイブラーに作曲を教えたのは、若きベートーヴェンが師事したことで知られるヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガーである。モーツァルトが亡くなった2年後、1793年に、アルブレヒツベルガーはアイブラーについてこう記している。「モーツァルト亡き後、彼は今やウィーンが擁する最大の音楽の天才である。」ハイドンの証言に加えて、モーツァルトとも親しかったアルブレヒツベルガーがアイブラーをモーツァルトの音楽の後継者としていることからも、我々はアイブラーの名前とその音楽について是非知っておかなければならない。</p>



<p class="wp-block-paragraph">アイブラーは1765年にシュヴェッヒャート（ウィーンの東、現在のウィーン空港から遠くないところ）で生まれた。父親は教師兼オルガン奏者で、同地の教会で教会音楽を担当していた。従って少年は非常に音楽的な環境の中で育った。ヨーゼフ・ハイドンとミヒャエル・ハイドンの兄弟と同様、アイブラーも音楽的才能を認められてウィーンのシュテファン大聖堂の聖歌隊員となった。アルブレヒツベルガーはレッスン料免除で彼に作曲を教え、ハイドンとモーツァルトは彼の援助者となった。1793年にはウィーンのカルメル会教会の聖歌隊長となり、1794年には教会音楽の保護奨励で指導的立場にあったウィーンのショッテン修道院の聖歌隊長となった。1801年には皇帝フランツⅡ世の子供たちの音楽教師として招聘された。皇帝一家との関係が深くなるとともに高い評価を受け、1804年には宮廷の副楽長として雇い入れられた。副楽長として、彼は宮廷楽長アントーニオ・サリエリの代理を務め、サリエリが病気で宮廷楽長の職務をまっとうできなくなると、1824年6月に後継者として宮廷楽長の座についた。1835年には、特別な賞賛の証として貴族に列せられた。</p>



<p class="wp-block-paragraph">アイブラーを貴族へと叙爵するために7年にわたって作成された手続文書をたどってみると、彼は「皆から尊敬される人物」であり、妻と一人息子（娘は生後数ヶ月で亡くなった）とともに「裕福な」生活を送っていたと記されている。1846年に亡くなったとき、アイブラーの遺産は9000グルデンと見積もられた。これは、彼自身の年俸のちょうど6倍に当たる。アイブラーは物静かで控えめな人間であり、演奏旅行をすることもなく、有名になるため自らは何の行動も起こさなかった。そこで彼に代わって語ったのは、彼の作品、その才能と芸術であった。1803年に作曲したレクイエムが1825年に出版されたことによって初めて、アイブラーは突然ヨーロッパ中で有名になった。この時期、人々の興味は常に新しい音楽に向けられていたのであるから、この現象は普通のことではなかった。明らかに、この作品が約四半世紀前の曲であることを誰も気づかなかった（出版譜にも記されていなかった）のである。人々はこのレクイエムを新作として受けとめた。このことはまさに、1803年の作曲の時点でアイブラーがいかに時代を先取りしていたかを示している。<br>　1825年の段階で、ウィーンでは宮廷楽長ヨーゼフ・アイブラーの名はもちろんすでに有名であった。1826年にウィーン楽友協会がアイブラーをルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンと同時に名誉会員としたことは、当然の決断であった。レクイエム（と数曲の大規模なミサ曲）の出版により、すでに60歳になっていたアイブラーは、ついにヨーロッパ全体でも正当な名声を得ることになった。ストックホルムのスウェーデン王立音楽アカデミーとアムステルダムの「フェリックス・メリティス」音楽協会は、（以前ヨーゼフ・ハイドンにそうしたのと同様に）アイブラーを名誉会員の一人に加え、ローマの聖チェチーリア音楽院のほか、国際的影響力をもつ合計11の音楽・文化団体から栄誉を受けた。アイブラーはこれを喜んだが、しかしこれを自慢して自分の名声の拡大のために利用することもなく、個人的な出世と結びつけようともしなかった。それゆえ彼は誰からも本気で嫉妬されることがなく敵対者もいなかった。1846年7月24日、アイブラーは皆から愛され尊敬される人物、そして芸術家としてウィーンで亡くなった。<br>　アイブラーは皇帝から特別な栄誉を受けた。シェーンブルン宮殿、すなわち皇帝の家族が夏を過ごす広大な公園の中に建てられた宮殿の中に、アイブラーも自由に使える夏の住居が与えられたのである。このような処遇を受けた宮廷楽長は、後にも先にも彼しかいなかった。彼が高く評価されたのは、おそらく芸術性ばかりでなかったのであろう。アイブラーは、私生活で弦楽四重奏を熱心に演奏した皇帝フランツⅠ世（前出の皇帝フランツⅡ世と同一人物。1804年以降支配領域が縮小し、オーストリア帝国皇帝フランツⅠ世となった）のために室内楽のパートナーをも務めた。<br>　アイブラーの最初の伝記作家アウグスト・シュミットは、彼が後世になってから初めて賞賛されたという言葉がしばしば引用されていることに反論し、アイブラーの死後、初めて時流にとらわれない正当な評価を与えた。「アイブラーは、すでに存命中から栄冠を受け、活動への報いを自ら刈り取った数少ない幸福な人物の一人であった。」しかし結局、彼はハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンの影に不当にも押しやられることになる。<br>　だが同時代の人間にとって、彼は影の存在ではなく、―繰り返して言うが特に『レクイエム』により―今風で新しく、未来志向の作曲家でさえあった。このことは、例えばブレーメンのドーム教会で毎年行われる受難日コンサートで、アイブラーのレクイエムが1834年に演奏されたことからも充分に認識することができる。この有名なコンサートは、ブレーメンばかりでなくドイツ語圏全体で注目されており、原則として新作、または少なくとも作曲されて間もない作品が演奏された。一世代後にはヨハネス・ブラームスの『ドイツ・レクイエム』が初演されている。アイブラーの創作を今日の視点から正しく評価しようとするならば、同時代の人々がアイブラーをどのように受容したかを見ておく必要がある。ブレーメンでの演奏会の批評家は、「非常に美しい作品」と評し、この演奏によって「何かすばらしいことが成し遂げられた」と述べている。この34年後、ブラームスのレクイエムが演奏されたとき、聴衆の中にアイブラーのレクイエムを覚えている人はいたのであろうか。<br>　ヨーゼフ・アイブラーは、すぐれたテクニックと心地よいタッチとアーティキュレーションでピアノを弾いた。オルガン演奏にも優れ、若いときにはウィーンでも卓越したホルン奏者であった。さらにヴァイオリン、ヴィオラ、バリトンを高いレベルで弾きこなし、それ以外にもいくつかの楽器を演奏した。その中にはヴィオラ・ダモーレも含まれていたと思われる。この珍しい楽器を驚くほど知り尽くして書いた作品が残っているからである。<br>　さまざまな楽器をマスターした個人的経験は、作曲家アイブラーにとって、もちろん室内楽とオーケストラの楽器法の点で役立った。<br>　作曲様式としては成熟した古典派様式から出発し、それを1830年代初頭まで時間をかけて展開した。ベートーヴェンが死の年1827年に至るまで自分の様式を展開したのと似ている。余談ながら、ベートーヴェンは一般的に、また特に大規模な教会音楽に見られる優れた対位法の扱いのゆえに、アイブラーの作品を非常に高く評価していた。<br>　宮廷楽長の務めは当時ほとんど教会音楽の分野に集中していたため、宮廷楽長にはもっぱら教会音楽の作曲が期待された。従ってアイブラーは宮廷楽長に任命された後は、実際に教会音楽作品しか作曲しなかった。1833年には脳卒中のために、作曲そのものが医者によって禁じられた。そのため、彼の創作期は生涯全体に及んでいるわけではなく、独立した器楽曲は若い頃、または作曲家として活動した前半の時期にのみ作曲されている。アイブラーの交響曲は1799年以前に作曲されたため、モーツァルトとハイドンの作品と比較しうる。比較を試みると、すぐにこのジャンルにおけるアイブラーの独自の展開を認識することができる。同じことは、例えば弦楽四重奏曲、弦楽三重奏曲、2台のチェロのためのソナタにも通用する。これらはすべて、彼が宮廷副楽長に任命される前に作曲したものである。これに対して、ピアノ・トリオとヴァイオリン・ソナタは任命の直後に作曲された。これらの作品で我々が出会うのは「古典派」アイブラーである。1803年に作曲されたレクイエムとその他のいくつかの教会音楽作品、さらに後期のミサ曲においては、ベートーヴェンの同時代人アイブラーを聴くことができる。これらの曲は、形式的というよりもむしろ和声的に一世代若いフランツ・シューベルトに近づいている。アイブラーのハ短調レクイエムが1825年に出版されたときに新作と受け取られたこと自体が、アイブラーが決して亜流ではなく、音楽様式を常に発展させる自立した巨匠であり、まさにこのレクイエムの作曲ではるか未来に目を向け、ずっと後になって一般的になった多くの特徴を先取りしたことを証明している。もちろん、アイブラーは決して画期的な音楽の革命家ではなかった。ウィーン楽友教会資料室長であったカール・フェルディナント・ポールは、1877年に出版したアイブラーの伝記で、的を射た評価を下している。すなわち、アイブラーはその職務においても芸術創作においても常に落ち着いて高い業績を上げたのであり、その作品は「偉大な才能を証明」しており、「そこには包括的な知識と芸術的教養に裏打ちされた趣味が心地よい総体として一体化されている」のである。<br>　アイブラーの創作は管弦楽曲、協奏曲、舞曲、オラトリオ2曲、合唱と管弦楽のための教会音楽、あらゆる種類と編成の室内楽曲、ピアノ曲、歌曲、カノン、多声声楽曲、オペラ1曲、およびその他の舞台音楽にまで及んだ。あらゆる音楽ジャンルで成功を収めたが、舞台音楽の作曲家としては成功を得られず、オペラと演劇が自分の世界ではないことを短期間で認識するに至った。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ヨーゼフ・アイブラーは、1833年に宮廷楽長の職務として宮廷楽団を指揮してモーツァルトのレクイエムを演奏している間に、指揮台の上で脳卒中に倒れた。これは指揮者にとっては珍しい悲劇であるが、アイブラーがモーツァルトとそのレクイエムに特に近い関係にあったため、この作品を指揮する際に特に大きな内的興奮を覚え、通常の演奏で感ずる自然な興奮状態を逸脱して脳卒中に至ったのだと解釈することができよう。</p>



<p class="wp-block-paragraph">アイブラーは若いときに、自分が職業音楽家になるとは考えていなかった。最初に法律を勉強し、ヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガーの下で作曲を学んでからは、法律の勉強と並行して作曲を進めた。アイブラーが自ら述べているように、この時期、助言と模範を求めてヨーゼフ・ハイドンを訪ねた。彼はハイドンの正式な弟子ではなかったが、ハイドンはアイブラーを好み、やさしく友好的な態度を示し、親しくなればなるほど好意的な助力を惜しまず、まもなく彼を芸術的に自分と同等の作曲家とみなすようになった。<br>　ヨーゼフ・ハイドンと接触した後、アイブラーは時をおかずにモーツァルトと知りあう機会を得た。モーツァルトが「好意と完璧な信頼」を寄せてくれたことを、アイブラーは感謝に満ち控えめに報告している。「私は幸福にも、モーツァルトとの交友をその死に至るまで続けました。ですから、彼が痛ましい死の病に伏したときにも、彼を抱き上げ、寝かせ、見守りました。私たちは賞賛すべき巨匠たち、特にヘンデルの作品をいったい何曲注意深く一緒に検討したことでしょう。私たちはそこから学び、楽しみました。モーツァルトはまた、私が劇場の仕事から完全に手を引く決意をする原因ともなりました。モーツァルト自身はそのことに気づいていなかったし、またその理由は私自身の素質と性格に基づくことです。それは私自身にも当時は明確ではなく、決心がつかなかったのですが、今やすべてが明らかになり、私も決心がつきました。モーツァルトがオペラ『コシ・ファン・トゥッテ』を作曲する途中で、まだオーケストレーションが出来上がっていなかったとき、彼は時間に追われて私に歌の稽古を依頼し、特にフェラレーゼとヴィレヌーヴの二人の女性歌手に稽古をつけるようにと頼んできました。私はこの経験を通して、落ち着きがなく陰謀やその類に満ちた舞台の生活を知ることとなり、前に述べたように［劇場の仕事からは手を引くことを］決心し、その決心は生涯変わりませんでした。」</p>



<p class="wp-block-paragraph">　モーツァルトの『コシ・ファン・トゥッテ』は1790年1月26日にウィーンで初演された。オーケストラ付きの練習は1月20日に始まっている。そこから推測すると、アイブラーが歌手に稽古をつけたのはそれより前ということになろう。だが、彼は劇場の仕事から手を引く決心を完全に忠実に守ったわけではなく、その後オペラ1曲、パントマイム1曲、アリアまたはシェーナを数曲作曲した。しかしその結果、彼の芸術世界がここにはないということを確認したにすぎなかった。おそらく彼は、最初の決心に従わなかったことを後悔したであろう。もし従っていたら、余計な失望を味わうことはなかったのであるから。<br>　アイブラーはモーツァルトの正式な弟子ではなかったが、モーツァルトとともに他の作曲家の作品を勉強したことは一種の授業であり、モーツァルトとの交流を示す短い文章には感謝が満ちあふれている。アイブラーがモーツァルトのレクイエムを完成しようと考えながら、結局敢えてそうしなかったのは、彼の無能力のゆえではなく、常に控えめな彼が抱いていたモーツァルトに対する大きな敬意のためであったのかもしれない。だからこそ、アイブラー自身のレクイエムは非常に未来志向的な偉大な作品となったのでないだろうか。尊敬していたからこそモーツァルトを避け、自らの古典派様式からも離れて将来の展開の先取りを試みたのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　アイブラーの平穏な生涯はスキャンダルやその他の不祥事とはまったく無縁であり、持続的な上昇におのずから名声がともない、賞賛を得るために自ら争ったり失望したり反動に苦しむこともなかった。それゆえ、人々が一般に芸術家の伝記に期待するものとはまったく合致しなかった。この順風満帆の人生は、おそらくその後の世代が次第にアイブラーに興味を持たなくなった原因のひとつだったのかもしれない。ベートーヴェン信奉者の多くは、アイブラーがいなければベートーヴェンがもっと大きな名声を得られたはずであると考えてアイブラーを非難し、シューベルトの信奉者たちも同じように考えた。このような理由無き非難は嫉妬に基づくものであり、かえってアイブラーの業績を認めるものでしかない。<br>　しかし、彼の教会音楽の数曲はオーストリアと周辺国では忘れ去られることなく、今日に至るまで演奏レパートリーの一部として残され、現代版の楽譜も出版されている。コントラバスを伴う弦楽五重奏曲―コントラバスを含む室内楽作品は多くない―は、最近シューベルトの弦楽五重奏曲『ます』と組み合わせて好んでコンサートで演奏されている。室内楽奏者はアイブラーの室内楽曲を取り上げるようになり、交響曲は主にCD録音で再び人々の耳に届くようになった。アイブラーのオラトリオ『最後の四つのこと』（1810年作曲）―同時代の人々がハイドンによる作曲を期待していたテーマ―は、フランスから端を発して再演されるようになった。<br>　そして、今回草津夏期国際音楽アカデミーにおいてアイブラーのレクイエムと詩篇『深き淵より』が演奏されることは、疑いなく、彼が正当に受けるべき注目の最新の頂点となるであろう。</p>



<div style="height:100px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/essay-2/"><img loading="lazy" decoding="async" width="100" height="50" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/4c3a107ab8e98f3e66d5675184960f6e.gif" alt="" class="wp-image-13619"/></a></figure></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/"><img loading="lazy" decoding="async" width="100" height="100" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/fe979e14110c992e9c02c00035a265d6.gif" alt="" class="wp-image-10540"/></a></figure></div>The post <a href="https://kusa2.jp/2020/08/12/5-2/">【ビーバ博士のエッセイ集】ヨーゼフ・アイブラー</a> first appeared on <a href="https://kusa2.jp">草津夏期国際音楽アカデミー＆フェスティヴァル</a>.]]></content:encoded>
					
		
		
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		<title>【ビーバ博士のエッセイ集】モーツァルトとパリ</title>
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		<dc:creator><![CDATA[academy-office]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 05 Aug 2020 01:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ビーバ博士のエッセイ集]]></category>
		<category><![CDATA[Eine Pause 2020]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>文：オットー・ビーバ／日本語翻訳：小宮正安 第33回プログラムより（2012年発行） 　ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、生涯に３度パリを訪ねている。最初の訪問は1763年11月から64年4月にかけての計5ヵ月 [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">文：オットー・ビーバ／日本語翻訳：小宮正安</p>



<p class="wp-block-paragraph">第33回プログラムより（2012年発行）</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、生涯に３度パリを訪ねている。最初の訪問は1763年11月から64年4月にかけての計5ヵ月間。当時モーツァルトはわずか8歳だったが、神童という触れ込みで姉のナンネルルと一緒に演奏会に出演したり、生まれて初めて自分の作品を出版したりといった体験に恵まれた。<br>　またこうした活躍を受けて、一枚の銅版画も作られた。天才姉弟のヴォルフガングとナンネルルが一緒に音楽をしている情景を描いたもので、彼らの父親であるレオポルトの姿も見える。この銅版画はその後幾度となく複製され、モーツァルトの姿を伝える正統的な一枚として、今日に至るまでよく知られている。<br>　このような具合に、最初のパリ滞在は大成功を収めた。しかも1764年4月10日にモーツァルト父子はロンドンに出発することとなるのだが、荷物の多くをパリに置いていったのである。そしてロンドンからの帰途、1766年4月10日に再びパリを訪れ、ヴェルサイユでフランス王夫妻を前に幾度となく演奏をおこない、2ヵ月後にこの街を後にすることとなった。<br>　この2回に渡るパリ滞在を通じ、幼いモーツァルトは大成功を手にするだけでなく、きわめて重要な体験を積むこととなった。神童時代の彼が訪れたウィーン、パリ、ロンドンといった大都市は、単にヨーロッパを代表する重要な首都というだけでなく、それぞれ独自の音楽文化を育む音楽の中心地だったからだ。というわけでモーツァルトはパリに滞在することで、フランス音楽の伝統はもちろん、当時の最先端のフランス音楽を吸収し、彼ならではの様式を作り上げてゆくことができた。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　1778年3月23日、22歳のモーツァルトは3度目となるパリ訪問を実現した。今回彼に付き添ったのは母親。姉のナンネルルは、もはや神童という触れ込みで演奏会を開くには成長しすぎており、父親は勤め先のザルツブルクの宮廷から休暇の許しを得ることができなかった、というのがその理由である。<br>　ところでほぼ半年にわたったこのパリ滞在、多くのモーツァルト伝ではまるで散々なものであったかのように描かれている。だがそれは、かなり的外れなものであるといわざるをえない。<br>　たしかに3度目のパリ滞在は、重苦しい運命の影に覆われていた。6月3日には、旅に付き添ってきた母親が57歳で死去。モーツァルトはこの出来事に耐え、悲嘆にくれる父親を慰め、芸術的な目的を遂行すべく母の死に影響を受けまいと懸命になった。じっさいこの数週間の出来事を通じ、モーツァルトが成熟を余儀なくされたのはたしかである。彼は、思慮深く、地に足のついた、現実的で、人生経験豊かな人間へと成長を遂げた。もちろんその後のモーツァルトがいつでもこのような人物だったわけではないが、母の死後彼が見せた態度は、たしかにそうだった。<br>　いっぽう多くのモーツァルト伝によれば、この3度目のパリ旅行はモーツァルト父子の相克が根底にあるという見方が圧倒的である。たしかにモーツァルト自身、パリ滞在中に父親に対して全ての事柄を逐一報告しているわけではなく、父親の側としても、ヴォルフガングが神童としてパリで再び持てはやされるのではないかという誤った想像に陥り続けた。<br>　もちろん幼い日のモーツァルトは、神童として唯一無二であり、さらにいえば神童という枠組すら超越していた。彼は音楽界の日常に組み入れられるような存在ではなく、また自らをそうした日常生活から遠ざけておく必要性さえ感じていなかった。だが3度目のパリ滞在にあたって、モーツァルトは既に成長した若者に育っていた。活発な多種多様の音楽シーンが展開されており、ヨーロッパ全土からの音楽家を惹きつけてやまないパリ。そこでは、目覚ましい活動で人々の注目を浴び、成功を手に入れられる可能性がいくらでも存在したのである。<br>　いっぽうそのような都市において、モーツァルトの母は息子に対し、何の助けにもならなかった。父親はザルツブルクからアドヴァイスの手紙をあれこれ出したものの、いかんせんパリ音楽界での実体験が欠けているために、非現実的なものに終始した。というわけで息子のヴォルフガングとしては、自分自身で道を切り開かなければならなかった。そして彼は、驚くべき器用さと成果を引っさげ、往々にして父親が望むのとは明らかに別の方法でそれを成し遂げていったのである。<br>　具体的には、モーツァルトは様々な注文主から作曲の依頼を受けたのだが、これは当時の音楽商法の世界でも最新鋭の、きわめて斬新なやり方だった。だからこそ、彼は自分のおこなっていることを父親に逐一報告しなかったのである。逆に言えばそうした態度が誤解を招き、後に余計な噂を生む原因となったのだろう。<br>　いずれにせよ、パリ滞在中のモーツァルトが依頼を受けて書いた作品のいくつかは、残念ながら散逸するか、未完のままで残されることとなった。現存する完成作品としては、「フルートとハープのための協奏曲」、あるいは今日「パリ交響曲」と呼ばれている交響曲がモーツァルト・ファンにとっては代表格だろうが、数から言えばあまりにも少ないというのが現実である。<br>　では、消失あるいは未完に終わった作品はといえば、グランドオペラ用のバレエ作品2つ、協奏交響曲1曲、ピアノ曲、室内楽曲、演奏会用の宗教曲が挙げられる。中でも、例えば協奏交響曲と宗教曲は失われ、バレエ音楽の2つ目についてはスケッチのまま放置されてしまった。また現存しているバレエ音楽（「レ・プティ・リアン」）については、筋書が散逸したためバレエとして上演できず、さりとて演奏会でも滅多に取り上げられることはない。<br>　だがモーツァルトがパリに滞在していた半年の間で、「レ・プティ・リアン」は7度にわたって上演され、「パリ交響曲」もさほど間をおかずに2度も上演されているという事実は頭にとめておきたい。つまり彼はこの街で熱心に働き、巧みなプレゼンテーションをおこない、たしかな成功を収めたのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">&nbsp;　パリ時代のモーツァルトは、音楽家や同業者の仲間からも一目置かれた存在だった。例えば彼は高名なカストラート歌手の一人、フェルナンド・テンドゥッチとともに、10日間にわたってパリ近郊にある ルイ・ドゥ・ノアイユ公の館に滞在した。あるいは王家の軍楽隊のトランペット奏者だったフランソワ・エーナは、モーツァルトが母を亡くした後何くれとなく彼に寄り添い、埋葬にも立ち会った。この2つの例を見ただけでも、巷間伝えられる状況とはまったく異なり、モーツァルトがパリで人々からいかに厚遇され、活動を展開していたかがよく分かる。<br>　モーツァルトは自分の将来についても賢明な考えを巡らし、自分の名声を保つための方策を色々と考えた。そこで彼は音楽家仲間だけではなく、名だたる音楽愛好家や音楽通、あるいは音楽支援者とも付き合いを深めていったのである。<br>　このことについても、モーツァルトは父親にさほど多くを報告していない。報告したところで無意味だと考えたわけであって、たとえ私たちでさえそのような人々の名前を列挙した手紙を見せられれば、うんざりしてしまうのが落ちだろう。父親にとっても同じこと。彼もまた、そうした人々の名前を知っているはずがなく、また彼らがどのような地位にあるかも皆目見当つかなかったにちがいない。<br>　いっぽうフリードリヒ・メルヒオール男爵のように、父親自身が非常に買っており、是非付き合うようにと息子に勧めたにもかかわらず、結局当の父親が想像したほどの影響力もなく助けにもならなかった人物が存在したことも、原因の一つといえる。じっさいモーツァルトは、自分自身を失望させたという理由から、その後男爵と絶交してしまったほどなのだ。<br>　いずれにしても、モーツァルトはパリで芸術的に様々に重要な体験をした。既に8歳と10歳の折りにこの街を訪れた際も多くの影響や印象を受け、それらを吸収したわけだが、3度目の滞在ではより意識的にパリの音楽様式を学び、自家薬籠中のものとしていった。<br>　いわゆる「パリ交響曲」K. 297もその1つで、当時のフランスで流行っていた最新の嗜好を見事取り入れた、紛うことなきフランス風交響曲となっている。しかも単に表面的な効果にとどまらず、それまでモーツァルトが書いてきた交響曲と比べ、作曲技法上様々な点で大きく異なっている点が特徴だ。彼はこの作品を通じて、フランス風の音楽語法が使えるだけでなく、それを完璧に自分のものとし、フランス風に作曲できるのだという事実をパリの聴衆に示したのだった。<br>　また「協奏交響曲」に関してだが、これは当時パリとロンドンでしか人気がなかったジャンルだった。それゆえ、パリで作られたこのジャンルのための作品が失われてしまったのは、かえすがえすも残念である。なお「フルートとハープのための協奏曲」も、いわばパリ限定の一曲だった。これら2つの楽器が一番愛されていた街こそパリであって、パリの聴衆しかこの組み合わせには興味を持ちえなかったというのがその理由。モーツァルトにとって幸運だったのは、彼がこのような協奏曲に関しても作曲の才能があることを証明できたということだろう。結果、パリの人々はモーツァルトのことを、ヨーロッパ中からこの街に流れてきた音楽家の一人ではなく、フランス風の嗜好に見事合致した曲を書ける重要人物として受け止めたのだった。&nbsp;</p>



<p class="wp-block-paragraph">　ところでモーツァルトにとって3度目となるパリ滞在に関し、伝記的な事実を2つ記しておこう。まったくといってよいほど知られていないが、充分驚くべき内容である。&nbsp;<br>　1つ目は、パリの音楽出版業界におけるモーツァルトの受容について。1778年当時のパリは、ヨーロッパの他の都市がおよそ太刀打ちできないほどたくさんの音楽出版社が存在した。しかもモーツァルトがパリを出発してから程なくして、彼の作品が次々と出版され始め、1780年代には驚くほど多くの数に達したのである。何しろこの頃モーツァルトの作品が継続的に出版されている二大都市はといえばウィーンとパリであり、出版数を見れば双方は互角か、場合によってはパリがウィーンを凌ぐ場合もあったほどだった。<br>　じっさい1780年代、他のヨーロッパの都市では（ウィーン近郊の都市でさえ）モーツァルト作品がそこまでは出版されていなかった。そのことを顧みるに、パリの音楽出版社にとってモーツァルトがいかに重要な作曲家であり、自社のレパートリー充実のために欠くべからざる存在であったかがよく分かるだろう。それにしてもなぜそのような状況に至ったかと言えば、1778年にパリに滞在したモーツァルトが、この街の楽譜出版社と積極的にコンタクトをとり、その関係をさらに発展させた結果、出版社の側も彼の作品を認めるようになったからに他ならない。<br>　しかもモーツァルトは、ザルツブルクで出版した自作の版権をパリの出版社に売ろうと画策し、一部の作品については実際に売り渡しさえした。もちろんそうした作品の全てがパリっ子の好みに合うものではなかったが、そこまでモーツァルトと出版社の関係は密であり、まただからこそ両者の関係は長続きしたのだろう。<br>　ただし、モーツァルトと出版社との間に交わされた手紙のやり取りは、いくつかの例外を除いてすべて失われてしまっている。モーツァルトと家族との手紙は多くが現存している状況に比べると、たしかにその数はごくわずかだ。<br>　だからといって、モーツァルトがパリの楽譜出版社に一切手紙を書かなかったかのように考えるのは早計というもの。むしろパリの出版社から多くのモーツァルト作品が出されたという事実を顧みるに、両者の間で手紙のやりとりが交わされたのは火を見るより明らかだ。さらに言えば、こうした仕事上の関係が育まれるにあたっては、双方が個人的に知り合い、交流を深めることが大前提であり、それを可能にしたのは唯一1778年のパリ滞在に他ならなかった。&nbsp;</p>



<p class="wp-block-paragraph">　2つ目の事実は、いわゆる「パリ交響曲」K. 297とパリ滞在に関するものである。モーツァルトはこの交響曲を、いわゆる「コンセール・スピリテュエル」なる演奏会シリーズのために作った。コンセール・スピリテュエルとは、パリ中心部のテュイルリー王宮内部の演奏会用広間で開催されていた公開演奏会のことで、当時この街におけるもっとも重要な音楽的催しといっても過言ではなかった。<br>　1778年パリに滞在した際、モーツァルトはこのコンセール・スピリテュエルの「作曲家」という称号とポストを得、やがてザルツブルクへと帰って行った。そして帰郷後も、彼はこの称号を得た者の務めとして、コンセール・スピリテュエルのために新作を書き続けていったのである。<br>　ちなみに彼がコンセール・スピリテュエルの作曲家だったのは、1783年あるいは84年まで。1784年には、コンセール・スピリテュエル自体がこのポストを廃止したのが理由である。それまでは演奏会の内容を多彩なものにすべく、コンセール・スピリテュエルは様々な作曲家を専属作曲家として抱えていたのだが、1785年以降はあらゆる作曲家が新作を発表できるよう方針を変更したためだった。<br>　いずれにせよモーツァルトはパリからザルツブルクに戻った後も、ザルツブルクの人々の好みや期待に必ずしも合致しないような作品を書いた。たとえば、パリ旅行から帰った直後に書かれた交響曲第32番ト長調K. 318の場合。なぜここまで「非ザルツブルク的」で、あえてパリの伝統を汲んだ作品をモーツァルトは書いたのだろう？彼はパリで学んだ成果を、ザルツブルクの人々に披露したかったのか？<br>　いや、けっしてそうではあるまい。そもそもザルツブルクの宮廷では、誰一人としてパリの伝統に興味がなかった。また親しい友人たちですら、3楽章からなる伝統的なフランス風の序曲形式の交響曲を前に、首を横に振るのが落ちだったろう。実際のところは、ザルツブルクに帰ってきてから後もモーツァルトがパリのコンセール・スピリテュエルのために作曲をしなければならなかったというのが事の真相であり、そう考えればなるほど合点が行く。<br>　1つ交響曲第32番に限らない。1782年にモーツァルトは自作の「ハフナー・セレナード」を交響曲第35番ニ長調K. 385（いわゆる「ハフナー交響曲」）に改作しているが、これはモーツァルトとパリの関係を考える時、きわめて重要な出来事に他ならない。当交響曲の初演こそウィーンでおこなわれたのだが、初版の楽譜はウィーンとパリでほぼ同時に出版されたからである。ということは、この作品がコンセール・スピリテュエルの演奏会でも取り上げられたことは間違いない。さらにいえば、いくつもの楽章から成るセレナーデを4楽章形式の交響曲にまとめ直すという独自のアイディアは、おそらくコンセール・スピリテュエルの演奏会に新曲を書くという義務を果たすために生まれたものなのだろう。<br>　たしかに元々パリで流行っていた交響曲は3楽章形式のものだったが、この頃になると徐々に4楽章形式のものも浸透しつつあった。ヨゼフ・ハイドンが作った4楽章形式の交響曲が、この街で受け容れられていったのがその理由である。<br>　いずれにせよ「ハフナー交響曲」もまた、1778年におこなわれたパリ旅行の賜物なのであり、この旅行なしに生まれることはなかった。少なくとも現在モーツァルト研究者の中で、この考え方に異論を唱える者は誰もいるまい。<br>　モーツァルトは1778年のパリ滞在を通じ、「パリ風」に作曲することを学んだ。「パリ交響曲」K. 297はもちろんのこと、彼はパリの旅から戻った後もパリっ子の嗜好を念頭に曲を作り続けた。しかも表面的にパリ風を気取るのではなく、パリでの経験を深化させ、作曲活動の糧にしていった点こそが重要である。<br>　その一例がピアノのための変奏曲。このジャンルにはフランスで学んだ変奏技術の影響が至る所に現れており、メロディーを様々に変奏させてゆくという方法そのものがフランス滞在の成果を物語っている。じっさい1778年にモーツァルトがパリに行かなければ、このような形の作品が生まれることもなかっただろう。</p>



<p class="wp-block-paragraph">　モーツァルトとパリ。この小文を締めくくるにあたり、彼が世を去ってから後の時代のパリについても触れておこう。というのもモーツァルトが亡くなってからしばらくの間、彼が愛され、その名声が語り伝えられた大都市といえば、この街の存在を忘れるわけにはゆかないからである。<br>　それが証拠にパリの少なからぬ出版社が、モーツァルトの作品を数多く出版し、オペラのスコアのいくつかについては初版の楽譜を発売しさえした。またパリっ子の好みに合わなそうな作品、もしくはフランスで理解されにくそうな作品（たとえば「魔笛」）については、編曲がおこなわれ世に出された。<br>　こうしてモーツァルト作品に関する知識は、その人の教養を図る物差しとなっていった。さらにはフランスの作曲家たちにとって、モーツァルトを手本としようとする風潮さえ生まれた。もちろんそれは、モーツァルトの様式で作曲する云々という次元のはなしではなく、彼の音楽に具わった根本的な要素……明朗さ、明晰さ、音楽的な語法、楽器の用い方……を絶対的な理想として仰ぎ見ようというものだった。<br>　じっさい後世のフランスの作曲家たちは、モーツァルトに対し様々な賛美の声を寄せている。そのうちの一人こそ、クロード・ドビュッシー。彼はモーツァルトを、自分にとっての音楽上の偉大な祖先であるとした上で、次のように述べた。「モーツァルトはあらゆる音楽家の中でももっとも純粋な存在だ。つまり彼は、音楽そのものなのである。」</p>



<div style="height:100px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/essay-2/"><img loading="lazy" decoding="async" width="100" height="50" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/4c3a107ab8e98f3e66d5675184960f6e.gif" alt="" class="wp-image-13619"/></a></figure></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/"><img loading="lazy" decoding="async" width="100" height="100" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/fe979e14110c992e9c02c00035a265d6.gif" alt="" class="wp-image-10540"/></a></figure></div>The post <a href="https://kusa2.jp/2020/08/05/4-3/">【ビーバ博士のエッセイ集】モーツァルトとパリ</a> first appeared on <a href="https://kusa2.jp">草津夏期国際音楽アカデミー＆フェスティヴァル</a>.]]></content:encoded>
					
		
		
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		<title>【ビーバ博士のエッセイ集】モーツァルトと18世紀</title>
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		<dc:creator><![CDATA[academy-office]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 30 Jul 2020 01:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ビーバ博士のエッセイ集]]></category>
		<category><![CDATA[Eine Pause 2020]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>文：オットー・ビーバ／日本語翻訳：武石みどり 第27回プログラムより（2006年発行） 　モーツァルトが生まれた1756年は、ちょうど18世紀の半ば、変転と変革の時代であった。バロック音楽の時代は過ぎ去ったが、われわれが [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p class="wp-block-paragraph">文：オットー・ビーバ／日本語翻訳：武石みどり</p>



<p class="wp-block-paragraph">第27回プログラムより（2006年発行）</p>



<p class="wp-block-paragraph">　モーツァルトが生まれた1756年は、ちょうど18世紀の半ば、変転と変革の時代であった。バロック音楽の時代は過ぎ去ったが、われわれが「古典派音楽」と呼ぶ様式はまだ無かった。モーツァルトが子供の頃に接し、模倣し、さらに発展させた音楽は、今日暫定的に「前古典派」と呼ばれている。彼はこれを出発点として、古典派音楽への大きな一歩を踏み出した。モーツァルトは啓蒙主義を体験した。この精神史上の現象は、世界を初めて合理的に理解しようと努め、貴族と市民の差異を縮め、民主主義の原則を想起させ、教会や個人生活の中で宗教色を抑制し、新しい主観的な自意識へと人々を鼓舞するものであった。<br>　モーツァルトは芸術家としても人間としても、まさに18世紀の申し子であった。同時代の人々のように感じたり考えたりし、同時代の芸術的、哲学的、政治的変化を特徴とし、それらを知識として受動的に取り入れたのではなく、彼にふさわしくまたその能力に応じて自らその形成に加わった。現代とはまったく異なる社会的、技術的、衛生的条件の下で、同時代の人々と同じように生活し、仕事をした。しかしそれでも彼は、我々にとって今なお非常に新しく生き生きとした存在なのである。<br>　「モーツァルトと18世紀」というテーマについては、さまざまな側面から語ることができよう。しかしここでは、音楽だけに的を絞ることとする。モーツァルトを独立した現象として見ず、彼が生きた時代と同時代人の中に当てはめて見るのでなければ、我々は彼を理解することはできない。<br>　モーツァルトは、バロック期のオーストリアの重要な作曲家ヨハン・ヨーゼフ・フックスが著した『グラドゥス・アド・パルナッスム』という音楽理論書で勉強した。彼は生涯にわたって、ヨハン・ゼバスティアン・バッハとゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルを偉大な先輩および啓発的な模範とみなしていた。彼は芸術が常に変化するものでなければならないこと、芸術家は常に新しいものを生み出すべきこと、そして聴衆が―少なくとも当時―常に新しいものを知りたがっていることを知っていた。しかし、新しいものにはすべて根源があるのであり、それは秘密にすべきでなく明らかにされるべきである。彼自身の新しい音楽の根源はバロック音楽にあった。それで彼はそこに学ぶものがあると考え、生涯にわたってバロック音楽と取り組んだ。バロック音楽の強い影響は、モーツァルトの晩年の作品『魔笛』や『レクイエム』にまで見ることができる。その一方で、モーツァルトは多くの作品の中にロマン主義を先取りするか、あるいはロマン主義のもたらす新しい流れを呼び込む役割を果たした。後世には、彼のヴァイオリン・ソナタに「ロマンティック・ソナタ」という呼び名が付けられたほどである。また、『魔笛』や『レクイエム』、およびそこに含まれるバロック風旋律とほとんど同時期に作曲されたクラリネット協奏曲は、古典的な構想のうちにロマン的な感覚を感じさせる。カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ（特に器楽曲の細部において）やヨーゼフ・ハイドン（特に『天地創造』と『四季』の二つのオラトリオにおいて）と並んで、モーツァルトもロマン主義の多くを先取りした作曲家であった。<br>　モーツァルトは同時に、古典派音楽の方向を指し示した人物でもあった。ヨーゼフ・ハイドンは晩年の多くの作品においてモーツァルトの足跡をたどっている。ベートーヴェンは、そのためにボンからウィーンに出てきたにもかかわらず、希望していたモーツァルトの指導を受けることができなかった。母親の命が危うくなったため、モーツァルトと会う前に故郷に帰らざるをえなかったのである。しかし彼はモーツァルトの作品を研究して学び、生涯尊敬し続けた。<br>　モーツァルトはバロック音楽からのみならず、18世紀の他の作曲家たち、すなわち同時代の人々からも多くを学んだ。ヨーゼフ・ハイドンに献呈した6曲の弦楽四重奏曲の序文に、どのようにして（本当に優れた）弦楽四重奏曲を作曲するかを、ハイドンから初めて学んだと公言している。ハイドンとモーツァルトの重要な研究家、H.C.ロビンズ・ランドンは、モーツァルトのピアノ協奏曲ニ短調KV466の細部の多くがハイドンの交響曲第80番ニ短調にヒントを得て作られたことを指摘している。これ以外にも、ヨーゼフ・ハイドンがモーツァルトに影響を与えたことを示す例は多く、ハイドンはしばしばモーツァルトの携範であったと言うことができる。さらに、ヨーゼフ・ハイドンの弟であるミヒャエル・ハイドンに目を向けてみよう。この人物はザルツブルクの宮廷楽団でモーツァルトの同僚であり、親しい友人でもあった。モーツァルトのジュピター交響曲の最終楽章は、その直前に作曲されたミヒャエル・ハイドンの交響曲ハ長調の最終楽章をモデルとして作曲されている。また、モーツァルトの最初の弦楽五重奏曲は、やはり直前に作曲されたミヒャエル・ハイドンの弦楽五重奏曲を手本としていることが明白である。モーツァルトはミヒャエル・ハイドンの教会音楽をよく知り、そこから学ぶために、自らの手で楽譜を書き写した。オラトリオ『救われたベトゥーリア』では、ミヒャエル・ハイドンの合唱を文字通りそのまま用いている。これらすべて（そしてここでは列挙しつくせないその他の類似例すべて）は、決してモーツァルトの才能を否定するものではない。ここでわかるのは、モーツァルトという天才も自分を取り巻く芸術的環境から霊感を得ていたということであり、この環境に属していたのが、ヨーゼフ・ハイドンとミヒャエル・ハイドンという最も重要で優秀な作曲家たちだったのである。残念ながら現在ミヒャエル・ハイドンはあまり注目されていないが、今年は彼の没後200年に当たる。2009年に迎えるヨーゼフ・ハイドンの没後200年に向けては、すでにその名にふさわしい「ハイドン・イヤー」の準備が開始されている。<br>　モーツァルトはまた、18世紀後半の他の作曲家たちからも影響を受けた。例えばハイドン兄弟の師にあたるヨハン・ゲオルク・ロイター、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの息子ヨハン・クリスティアン・バッハ、そして今日まったく名前の知られていない多くの作曲家たちである。「すべてを試し、よいものは残る」というのが、彼のモットーであった。しかし彼の場合、単に残すことが重要だったのではなく、よいものの上に積み上げ、他の作曲家の長所をさらに発展させることが重要なのであった。<br>　モーツァルトには多くの競争相手がいた。彼と同じくらい高い賞賛を受けていた同時代人たちである。今回の草津国際音楽アカデミーでは、その競争相手の何人かの作品もコンサート・プログラムに取り上げられている。競争によって、モーツァルトはすばらしい成果へと駆り立てられた。彼は競争相手から刺激を受け、より優れた音楽を作ろうとした。だから競争があることに感謝し、競争相手は敵ではなかった。競争相手の作品の多くは、モーツァルトの作品よりも人気があった。もちろん同時代の聴衆がモーツァルトの才能を見逃すことはなく、彼は賞賛され有名になった。しかし彼の作品の多く―特に室内楽作品―は、聴衆にとっても演奏者にとっても複雑すぎて、理解しにくかった。これは今日の我々には理解しにくいことである。我々にはわかりにくいが、こうした作品では彼は18世紀の作曲様式と作曲技法をはるかに超越していた。<br>　モーツァルトが生きた時代には、作曲家にまだ著作権もなくまた演奏の印税もなかった。作曲家はまだ職業ではなく、独奏者（ヴィルトゥオーソ）、音楽教師、楽長、歌手、または楽器奏者だった人々が、作曲もしたのであった。彼らは作曲で報酬を受けることを喜んだが、その後作品に対する権利はまったく持たなかった。（著作権と印税は、20世紀になって初めて一緒に導入された。リヒャルト・シュトラウスはこの権利規定のために集中的な努力をした。）このような状況から、なぜ見知らぬ人物がモーツァルトにレクイエムの作曲を注文できたのか、モーツァルトの死という事態が起こらず、ヴァルゼック伯爵がこのレクイエムを自分の作品として出版したとしてもなぜ罰せられないのかという理由を知ることができる。同時代の人々にとって、このような「名前の差し替え」は決して悪質なインチキではなかった。音楽の芸術作品は、品物と同様、買い求めたりプレゼントしたりできるものだったのである。モーツァルトはオラトリオ『救われたベトゥーリア』にミヒャエル・ハイドンの合唱曲を借用し、皆がこの合唱曲をモーツァルトの作品と考えた。その一方で彼は、ミヒャエル・ハイドンが病気で注文された曲を作曲できなかったとき、代わりにヴァイオリンとヴィオラのための二重奏を作曲している。モーツァルトは友の手助けをしたのであり、モーツァルトの作品はミヒャエル・ハイドンの作品として、曲の注文者であるヒエロニムス・コロレード大司教に渡された。これはモーツァルトの友情の証であり、彼は自分に作品への権利があるなどとまったく考えもしなかった。18世紀には（そして19世紀にも）、作曲家たちは芸術作品の創造者として、作品そのものへの賞賛を求め、作品の成功に幸福を感じ、作品が売れれば喜んだ。しかし作品を食べていくための資本とは考えなかったのである。<br>　作品は品物として扱われたため、作曲家は自分の権利を自由に行使することはできず、一度市場に出れば作曲家自身の影響力は及ばなくなり、異なる楽器編成にしたり、短縮したり、異なる歌詞を付けたりという具合に、他の作曲家がいとも簡単に多くの編曲を生み出した。このような状況で、作品が間違って他の作曲家の作品とされることもあった。モーツァルトの名前は他の同時代の作曲家たちより売れ行きがよいため、意図的にモーツァルトの作とされたり、あるいはモーツァルト的な響きの曲だからモーツァルトの作品だろうという理由付けで、間違ってモーツァルトの名が付けられたりした。このようにして、他の作曲家の作品の作者と間違えられた18世紀の第一の作曲家はヨーゼフ・ハイドン、二番目はモーツァルトであった。<br>　ここではモーツァルトの話に留まることにしよう。彼は、同時代の様式で作曲し、自分の周囲でよく用いられている語法で作曲し、そして自ら表現したいように作曲した。これはつまり、時代様式、地域様式、個人様式の組み合わせの中で作曲したということを意味する。これは18世紀において典型的なことであった。19世紀の半ば以降、時代様式がひとつではなくなり、さまざまな様式が横並びとなる。例えばブラームスがある時代様式の代表者である一方で、同時代のワーグナーとブルックナーは別の時代様式を代表しているのである。新しい作曲技法の工夫により時代様式はどんどん増え、今日ではもはや特定の時代様式というものがなくなり、個々の作曲家が多様な様式の中に自分の位置を見出している。聴衆の一人ひとりにとって、時代様式を認識するのは緊張を要する課題である。「これは古典派音楽のように聞こえる」とは言えるだろう。だが、「モーツァルト的な響きがする」と言うのはかなり難しい。もし今年の草津国際音楽アカデミーで演奏される種々の音楽がすべて「モーツァルト的な響きだ」と言うとすれば、それは間違いであろう。今回取り上げられる作品は、18世紀後半または1766年から1800年頃の音楽の響きをもつ。モーツァルトの音楽も同様である。しかし、他の優れた作曲家と同様に、モーツァルトにも個人的な様式的特徴がある。それをつかむことができれば、モーツァルトとそれ以外の作曲家とを簡単に聴き分けることができよう。<br>　しかし、そのような判断は100パーセント確実なものではない。これまで示してきたように、モーツァルトは他の作曲家たちから学び、他の作曲家たちに影響を与え、またさらに発展させたため、そこに交差と混合が起こっているからである。モーツァルトが多く旅行したことも重要である。18世紀のでこぼこ道をがたがた揺れる馬車（夏は非常に暑く、冬は非常に寒い）で旅することは、なんと大変なことであっただろうか。今日の我々の感覚では、旅行のスピードも非常に遅かった。しかしその一方で、音楽家・作曲家のモーツァルトにとって旅行がいかに重要なものであったかを忘れてはならない。彼は異なる地域様式を知る機会を得た。少年モーツァルトはロンドンでピアノ協奏曲を初めて体験し、すぐに自分でも作曲してみた。フルートとハープのための協奏曲は、この二つの楽器の組み合わせが好まれたパリでしか成立しえないものであった。またパリでは、ザルツブルクやウィーン、イタリア等とはまったく異なる様式で交響曲が作曲された。モーツァルトは旅先で、つねにその地で期待されるような作品を作曲し、故郷に戻るとこれらの体験を組み合わせ、ザルツブルクまたはウィーンの聴衆を新しいもので驚かそうと努力した。聴衆も新鮮な驚きを求め、さまざまな地域様式を細部にわたって紹介し、組み合わせ、発展させたモーツァルトを賞賛した。17歳の時にはウィーンを訪問して新しい交響曲のタイプを知った。これはH.C.ロビンズ・ランドンがいみじくも「疾風怒涛交響曲」と名付けたタイプである。ザルツブルクに帰ると、モーツァルトはすぐに同じ様式で交響曲ト短調KV183を作曲し、ザルツブルクの人々を驚かせた。今日の我々には、ザルツブルクで知られていないウィーン特有のものがあり、それを体験するためにウィーンまで旅行しなければならないという状況は、想像もできない事態である。しかし18世紀には、このような地域格差は当然のことであった。おそらくモーツァルトは、数多くの旅行体験をもとに、比較的狭い地域内にも見られた多くの特殊性を乗り越え、より高い次元で統一した18世紀の最初の作曲家であったと言えよう。<br>　18世紀においても、今日と同様、作曲家の間にはいわば専門の細分化がみられた。ある作曲家は歌劇場指揮者であったため主にオペラを作曲し、またある作曲家は教会の指揮者で主に教会音楽を作曲、またさらにピアノ教師をしていたために、主にピアノ曲や室内楽曲を作曲した者もいるという具合であった。宮廷に勤める楽長は、宮廷楽団のために主に管弦楽曲と室内楽を作曲しなければならなかった。このように、専門の細分化の例には枚挙に暇がない。18世紀の作曲家のうち、すべてのジャンルを作曲できた作曲家は数少なく、ましてやすべてのジャンルで成功した作曲家はもっと少なかった。ヨハン・ゼバスティアン・バッハはオペラを作曲しなかった。ヨーゼフ・ハイドンはすべての音楽ジャンルのために作曲したが、交響曲や室内楽の分野での名声に比べて、オペラ作曲家としてはあまり知られていない。ミヒャエル・ハイドンもまた、すべてのジャンルで傑作を作曲したにもかかわらず、主に教会音楽の作曲家として有名だった。ベートーヴェンでさえ（彼はもはや18世紀には属していないが）、オペラ作曲家としては問題があった。唯一のオペラ『フィデリオ』が成功するまで何度も作曲し直し、二曲目のオペラは書こうとしなかった。シューベルト、シューマン、ブラームス、マーラーの場合も、大成功を収められなかったジャンル、あるいはまったく魅力を感じず作曲しなかったジャンルが存在する。このように18世紀において典型的な専門性を、モーツァルトはあざやかに超越した。彼はその世代において、すべてのジャンルの作品を作曲し、すべてのジャンルで成功し有名になった唯一（音楽史全体においては、数少ない作曲家のうちの一人）の作曲家である。オペラと教会音楽、管弦楽曲、協奏曲、ピアノ曲、室内楽曲、オラトリオ、合唱曲、歌曲、カノン…　どのジャンルにおいても彼の作品は知られている。およそ6歳年上のアントーニオ・サリエリと比較してみよう。サリエリはピアノ曲と室内楽曲を作曲していない。交響曲と協奏曲はごくわずかで、その作品はほとんど知られていない。しかし18世紀の作曲家たちの中で、作曲ジャンルに穴のあるサリエリが例外なのではなく、包括的な作品群を生み出したモーツァルトの方が例外なのである。<br>　モーツァルトが人間としても芸術家としても18世紀の典型的代表者であったにもかかわらず、その伝記や作品の細部においては18世紀を超越していたことを認識するのは、なんと魅力的なことであろうか。彼はまた、死後も部分的に（またはまったく）忘れ去られてしまうことなく、常に演奏や作曲で取り上げられ、名を知られた最初の作曲家でもあった。18世紀の聴衆は、常に最新の音楽を聴きたがった。作曲家が亡くなると新しい作品は生まれないので、聴衆は多かれ少なかれ興味をもたなくなるのが普通であった。しかしモーツァルトの死以来、聴衆は昔のお気に入りの作品を繰り返し聴くことを好み始めた。モーツァルトに始まったこの展開が、結局今日の状況―未知の新しい音楽よりも、過去の有名なお気に入りの音楽を聴く方を好む―を導いたのである。草津夏期国際音楽アカデミーのプログラムは、有名で人気のあるモーツァルトの音楽と18世紀の知られざる音楽の組み合わせで聴衆に新鮮な驚きを与えている。これによって、聴衆がモーツァルトをもっとよく理解し、音楽の発展の中に彼を位置づけるとともに、モーツァルトの近くに位置しモーツァルトとよく似ている18世紀の知られざる作曲家の作品にも喜びを見出すことができれば、これはまさに大きな成果だと言えよう。</p>



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<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/essay-2/"><img loading="lazy" decoding="async" width="100" height="50" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/4c3a107ab8e98f3e66d5675184960f6e.gif" alt="" class="wp-image-13619"/></a></figure></div>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><a href="https://kusa2.jp/einepause2020/"><img loading="lazy" decoding="async" width="100" height="100" src="https://kusa2.jp/wp-content/uploads/2020/07/fe979e14110c992e9c02c00035a265d6.gif" alt="" class="wp-image-10540"/></a></figure></div>



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